砂の邂逅③
足場が浮いているような感覚がずっと続いている。踏み出す度に言いようのない不安に襲われるのに、ヴァランの手を引く少年は迷いなく歩を進めている。時々、横合いから風が吹いてきていて、その度、ヴァランは何かに呼ばれているような気がした。
懐かしい声が、自分を呼んでいるような。
それに応えなければならないような気持に駆られ、ヴァランが口を開こうとする度、少年がぎゅっと手を握り締めてきた。
まるで、ヴァランの行動に気付いて諫めているかのようだった。
歩き始める前に、少年から、ここを通る時は決して声を発してはいけないのだと伝えられた。それがなぜなのか、声を出せば何が起こるのかは分からない。だが、相手から自分を騙そうとする気配がしないのなら、忠告に従っておいた方が懸命なのは確かだった。
ヴァランが唇を噛み締めて抑えれば、すぐに手を握る力は緩んだ。
そうしてしばらく歩いている内、ふいに、ぴたりと少年の足が止まった。それに合わせてヴァランも足を止めれば、すぐに繋いだ手を離される。
「着いたぜ、ヴァラン!」
はらりと目隠しを外され、視界が晴れる。
見えた景色は、既に城壁の外で、城からずいぶんと離れた街中だった。それ程長く歩いた気はしていないのだが、目を擦っても景色は変わらない。
「フフ……じゃ、ここでお別れだな。ついでにこれは手間賃としてもらっておくぜ」
「てめえ、それは!」
いつの間に奪われたのか、少年の左手にはヴァランが懐に入れておいたはずの財宝があった。むろん、ヴァランが宝物庫から失敬してきたものだ。
「返しやがれ!」
「だめだぜ! 無事にここまで案内したんだ、これくらいの報酬はないとな!」
「てめえが勝手にしたんだろうが!」
「フフ……流石に行為まで見逃すわけにはいかないんでな」
「てめえ……神官の子どもか?」
せいぜい『呼ばれ者』の子どもくらいに思っていたが、なるほど、その程度の身分の者が王宮を自由に歩き回れるはずも、兵に見つからないような隠し通路を知っているはずもない。いっそこの場で縊ってやろうかと思い手を伸ばすも、するりとすり抜けられる。ムカつくほどに身軽な少年だ。
「お前は面白いな。クヴァルやアニタとは全然違うぜ」
盗賊相手に何を言っているのか、楽しそうに笑う少年に腹が立つ。こんな子ども如きに虚仮にされては、盗賊の名が泣く。相手が憎き王朝に深く関わる連中の子どもともなればなおさらだ。
「ふざけんじゃねえぞ」
ヴァランの中に溢れ出す怒りに呼応するかのように、ざわり、と周囲の空気が騒ぎ始める。何か、内側からふつふつと沸き上がるものがある。それが形を成そうとした時、少年が静かにヴァランを呼んだ。
「ヴァラン。それはだめだ」
何かを切り捨てるような言い方だった。先程まであった無邪気な顔はどこにもなく、子どもらしからぬ、凪いだ表情がそこにある。彼に声を掛けられた途端、ヴァランの内にあったそれは、泡のように弾けて消えてしまった。
瞬間、ぞわりと何かが背筋を這う。
「なん……だ……」
自分の内側に潜んでいた何か。それよりも、もっと強大な影が背後に感じられる。殺気よりも鋭く重いその気配に、ヴァランは窒息しそうな恐怖を覚えた。ひゅ、と狭まった喉から呼吸が漏れる。
巨大な何かに、喰われそうな錯覚。
「控えろ」
厳かな声が、辺りに凛と響いた。それと同時に、ヴァランの背後に忍び寄っていた影が形を潜め、圧迫していた空気から解放される。はっ、と知らず詰めていた息を吐き出せば、ひゅうひゅうと肺が酸素を欲して喘ぐ。
大丈夫か、と心配そうに伸ばされた少年の手を、ヴァランは反射的に叩き落としていた。
「……すまない。怖がらせたな」
膝を突いて肩で呼吸をするヴァランの様子を目にし、困ったように眉尻を下げて少年が言う。ヴァランは返す言葉を知らずに黙り込んだ。
ヴァランの内側に潜むものと、背後に立った影。
それらを止めた、目の前の少年。
一体、ヴァランはどういう状況下にあったというのか。
この少年は、それを知っている。知っていて、だからこそ、あの時も止めたのだ。
だめだ、と。
夜風が冷たく二人の間を吹き抜けていく。暫時の沈黙の後、再び少年が口を開いた。
「……ちょっとした息抜きのつもりだったんだ。もう、帰るぜ」
月明かりに揺れた、寂しそうな瞳。
どうしてだか、ヴァランには分からなかった。盗賊相手にそんな顔を見せた少年も、その背に手を伸ばした自分自身も。
「待ちやがれ!」
薄い肩を掴んで引き寄せれば、その頭部を覆っていた布がはだけ、月明かりの下に彼の顔が晒し出される。月の光を全身に浴びた髪。布の隙から零れ落ちていた時と違う、その鮮やかさは光そのものを具現化したかのようだった。ヴァランを振り返った顔は思っていたよりも幼く、見上げてくる大きな瞳が、幾度か瞬きを繰り返す。
「……なんだ? これは渡さないと言ったぜ?」
「ちげーよ!」
ぎゅっと持っていた袋を抱き締めた少年に、くそっ、と思わず悪態が漏れる。
違う。本当は財宝なんてどうでもいいのだ。元々、忍び込んだのは、ふんぞり返って生きている連中に目に物見せてやれ、という程度のものでしかなく。下見ついでに寄っただけで、そこまで固執するほどのものではなかった。
今ヴァランが気にしているのはそんなものではなく、少年自身のことだった。他人を知りたいと思う、今までに感じたことのない妙な感覚に、チッ、と舌打ちが漏れる。
「……名前。お前は、何て言うんだよ」
名は自分で告げるから意味がある、そう言ったのは少年の方だ。それならば、彼自身も名乗るのが道理だろう。ヴァランが訊ねると、少年の瞳が驚いたように大きく見開かれた。次いで、静かに伏せられ、その口元に、フッと微笑が浮かぶ。
「それは、次に会った時にな」
言葉と共にするりとすり抜けてしまい、代わりのようにヴァランの手には金の腕輪が残される。
金の装飾具。
やはり、相当に身分のある子どものようだった。
「おい!」
「それをどうするかは、お前が決めてくれ」
また会おう。
柔らかに微笑んだ彼はそう言って、一陣の風と共に去っていった。
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