砂の邂逅②

 目の前では少年の纏う布が、ひらひらと白くはためいている。足首まで見えぬくらいに長い布は、明らかに姿を隠すための物だろう。先に人を呼ぼうとしたことや宮殿の造りを知っている様子から、この王宮に出入りしていることが考えられる。王宮ではよく吟遊詩人や踊り子などを呼んでいると聞くので、装いから判断するに、そういった連中の子どもかもしれなかった。だが、もし仮にそうであった場合でも、こうも堂々と夜中に歩き回っているというのは、何やら釈然としないものがある。

 実際、ここまでで兵士の一人を見かけることすらなかったのだが、こうしてヴァランを案内する少年の目的は何なのか。

(オレ様を騙すつもりかもしれねえが……そん時はそん時だな)

 疑問は浮かんだものの、いざという時には盾にするなりなんなりできるだろうと思い直す。

 あの日から、どんなことでもしてきたのだ。今更子どもの一人や二人、どうということはない。少年の後ろを大人しく歩いていきながら、ヴァランは背中に仕込んだ短剣にそっと手を忍ばせた。

 ふいに、先を歩いていた少年がぴたりと立ち止まった。

(何だ……?)

 彼の前にあるのは壁だが、廊下は左右両方に通じている。ここから先に進めなくもないだろうに、なぜ立ち止まったのか。

 もしやこちらの様子に気付いてかと、訝しく思っていれば、少年がくるりと振り返ってヴァランを見た。

「お前、名前は?」

「は?」

 ふいの問いかけにヴァランの口からはまぬけな声が出る。だが、こんな状況で唐突に名を訊ねる方がどうかしているのだ。

「んなもん、どーでもいいだろうが」

「どうでもいいことなんてないさ。大事なことだ」

「そんなに知りたきゃてめーで勝手に調べてろ」

 んなことよりさっさと先に進めと促せば、少年はそっと首を横に振った。

「名は、自分で告げることに、意味があるんだぜ」

 ゆっくりと、噛み締めるような口調だった。

くだらない、と確かにそう思ったのに、なぜだかヴァランは言葉を飲み込んでしまった。微笑を浮かべているその表情が、ひどく寂しげに見えたのだ。目の前の少年が、そのまま消えてしまいそうにさえ思えて、気付けば、ヴァランは彼の腕を強く掴んでいた。

 その行動の理由も、分からずに。

「……ヴァラン、だ」

 突然腕を掴まれて、ふしぎそうな顔をした彼に名を告げる。すると、しばらくして意味を理解したのか、きょとんと見開かれていた瞳が、やおら柔らかに細められた。

「ヴァラン、か。いい名だな」

 自分の名前が、彼の言う良い名であるのかどうかは、よく分からなかった。名前の意味なんて聞く前に、ヴァランの両親は死んだ。

 殺されたのだ。

 一族郎党、この国の王に。

 嫌な光景が脳裏に甦り、ヴァランはギリッと奥歯を噛み締める。今でも、あの夜のことは夢に見る。その度、ヴァランは復讐を誓ってきた。

「ヴァラン」

 冷たい手が、頬に触れる。心配そうに添えられた手の先を見れば、眉尻を下げた顔があった。

 何て顔をするのだろう。

 赤い瞳が揺れている。そこに映って見えた自分の姿があまりにも頼りなさげで、ヴァランの内側に苛立ちが募る。何という恥晒しだろう。

 復讐を、決めたのだ。

 それなのになぜ、こんなにも情けない姿があるというのか。わけも分からず、ヴァランは目の前の少年の首へと手を伸ばしていた。無論、縋ったわけではない。だから、細い首を捕らえたその手に、確かに力を込めたのだ。

 ギリギリと締め上げる度に苦痛に歪む顔。

 それを見て、胸の辺りがスッとした。

 そうだ。殺してしまえば良かったのだ。今のように力さえあれば、あの日だって……。

「ヴァ、ラ……だめ、だ……」

 幼い声が、ヴァランの耳に響く。

 止めろ、ではなく、だめだ。

 今まで多くの他者を蹂躙してきた。だが、そんな言葉を聞いたのは初めてだった。助けて、と生に縋って誰もが口走る、命乞いとはまったく違う響き。

 止めてくれと、醜く乞う姿とは、あまりにも違っていて。

 気付けば、ヴァランの腕からは力が抜けていた。

「けほっ」

 手を離した途端に、少年が床に倒れ、咳き込み出す。そんな彼を見下ろしながら、ヴァランは苦虫を噛み潰したような顔になった。

 たかだか今日出会ったばかりの少年に、何を苛立っているのか。

 けほけほと幾度か咳を繰り返した後、少年はスッと顔を上げてヴァランを見上げてきた。ぼんやりと蝋燭に照らされた廊下で、二対の視線が交錯する。

 涙に濡れた赤い瞳。

 それを前にして、ヴァランの内で、どろどろと湧きあがっていた感情が凪いでいく。

 静謐な、澄んだ瞳がそこにある。

 それに、ヴァランは紡ぐべき言葉を見失ってしまう。口を開くことさえ躊躇われて黙り込めば、静寂が辺りを包み込んだ。

 遠くで、未だ、兵たちがヴァランを探している音がしている。

「……ヴァラン、これを付けろ」

 沈黙を破ったのは少年だった。立ち上がった彼は、どこからか取り出した布をヴァランへと差し出していた。真ん中に一つ目の描かれた、白く細長い布だ。

「何だよ」

 意味を尋ねれば、目隠しをするよう指示される。少年自身も、ヴァランの目の前で、するりと布で両目を覆った。一体何の真似だと、疑問に思う気配を感じ取ったのか、少年がふと口元を緩めた。

「ここから先は、見たままではいけないんだ」

 見てはいけないものであるのか、それとも視力に頼っては行けないのか。少年の言う意味はよく分からなかったが、ともかく自分を騙そうとしているわけではないであろうことは、ヴァランにも何となく理解できた。

(今はまだ、こいつのいう事を聞いとくか……)

 相手を信用したわけではない。

 だが、目の前の存在が危険であるか否かくらい、ヴァランは勘で分かる。他人は信用できないが、自らの感覚は信用も信頼もしている。

 何しろ一族の中で受け継いできた才だ。人間共を信用するよりよほど堅実的だった。少年と同じように視界を閉ざせば、暗闇がヴァランを囲う。ずるりと、幼い頃の光景が引きずり出されそうになり、それを振り払うように、ヴァランは少年へと言葉を投げた。

「おら、付けたぜ。さっさと案内しろよ」

 そうして威勢よく言えば、ぎゅっと手を握られる。

「っ、何しやがる!」

 気色悪さに振り払ったところでまた手を取られて、吐き出した文句に真剣な声が返ってくる。

「はぐれたら、危ないぜ?」

 少年の言葉に呼応するように、どこからか風の音が響いてきた。

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