自分自身の影

 少し前くらいだろうか? 大阪でも有名な治安の悪い場所近くだったと思う。当時は真夏で暑く、さらに朝から歩き疲れたのもあったので、見かけた喫茶店に入ることにした。

 喫茶店は階段を降りた地下にあり、薄暗くタバコの匂いが蔓延していた。作業着を着た数人の男が、昼間というのにビールを煽り、競馬の話をしていた。

 なんとなく奥に空いていた二人用の席に座ると、喫茶店全体を見渡した。席はまばらに開いていて、座っているのは大体肉体労働者っぽい人が多かった。

 カラカラと音をたてて入口が開いた。ゆっくりと入ってきたのは、還暦は届くだろう年の男で、薄汚れたシャツと、ジーパンをはいていた。体格は病的にやせている。その男は自分の近く、ちょうどお互いの顔が見える席に座った。こちらを向いているが視線はどこを向いているは定かでない。男の向かいの席は空席だった。白髪交じりの頭にふけが浮き、薄明りのせいか、肌の色も悪かった。何か異質な雰囲気を漂わせているのはここからでもわかる。

 五十歳くらいの女性が、注文を聞きに来た。アイスコーヒーを頼むと、正面の男を見やった。男もどうやらアイスコーヒーを注文したようだ。

しばらくして、注文した品がとどいたので、何も混ぜずストローを突き刺してすすりつつ、男に視線をむけた。


 男は突然、誰もいない向かいの席を指さすと、泣き始めた。指はこちらを指しているようにも見えたが明らかに違う。

「お前が、お前がぁああ、そんなことぉ、そんなこというなぁあ」

 男の口から唾が飛ぶ。震えるこぶしが振り上げられた。年かさのウエイトレスが慌てて駆け寄ろうとすると、男は突然立ち上がった。

「帰ります」誰もいない席に向かって、涙をぬぐうこともせず男はそう告げる。

 男は勘定を済ませて入口を開いた。カラカラと音がする。店はしんと静まり、店の客の大半は出て行かんとする男のくたびれたシャツの背中を注目している。

 おそらく、意味もわからず喚き散らした男を不審がる人が大半なのだろう。


 しかし、見てしまった。男の全身から吹き上がった白い靄が次第に形をなし、彼の向かいの席に影のように座っていたことを。おそらく彼自身の生霊だろう。彼自身が彼自身を攻撃している……そんな風に思えた。


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