第2章 その4
「晶雄さん、早く逃げてください」
耳の中なのか、頭の中なのかイデアの声がごくごく身近に聞こえた。怪訝にスタンド席を見やると、イデアが口を大きくパクパクさせているが、よく聞こえない。けれど、その動きが今まさに聞こえたセリフであろうと認められた。とはいえ、何から逃げればいいのか具体的に言ってはいないので、戸惑いしか反応にならない。その戸惑いがあったせいか、
「ふう」
とか細く言って倒れる小林陽子をスローモーションで眺めることになった。選手がグランドで卒倒する引率教員の心拍数が上がる事態だが、
「大丈夫です。俺が看てますから」
魔法使いがいるという段階で、他の選手・マネージャーだけでなく引率教員も安堵に変わる。
「晶雄さん、あの……」
ピットから抱えて施設内に入ると、その廊下に銀マットを敷いて小林陽子を寝かせる。すると、フクロウを肩に乗せた幼女魔女が横に並んだ。イデアを見て、晶雄は小林陽子が倒れてからの一連の自身の行動が理知的な判断というより反射に近いと思っていた。顔色や息遣いから小林陽子が熱射病になっていたとしたら、魔法使いが見逃すはずはなかったからである。その上、その直前に聞こえてきた魔女の声。となれば、
「まさかとは思いたくないのだが、Xとやらがらみではないだろうな」
帰結は一つだ。
「あ……聞こえててよかったです」
イデアが言っていたのは逃避の最速であり、恐らくテレパシーみたいな魔術の一つによる現象なのだろうが、Xのことなど一言もなかったとイデアを責めることもできる。けれども、今はそこではない。
「Xがこの娘の中に入った」
フクロウが簡潔に説明してくれた。まとめれば、Xのせいで今小林陽子が失神していることになる。ならば、Xをどうにかしないと彼女を覚醒できないということだ。おかげで、
「つうことは、魔術でどうにかできるってことだよな」
処置のめどがついたのだ。
「どうやるんですか?」
今度は頸椎捻挫になりはしないかという速度でイデアを凝視する晶雄。しかも、彼ばかりではない。
「イデア。それは本気で言っているのか?」
プラトンの声が震えている。
「どうしたら、先輩を助けられる?」
頼りない魔女よりも、森の賢者と高名ある知恵者にアドバイスを求め、鷲掴み。
「巨大化しましょう! それならすぐにでもできます!」
魔女の必死な対応策に晶雄もプラトンもげんなりする。
「安心してください! 晶雄さん」
使い魔が状況の分析をした一方で、巨大化などと抜かしていたドジっ魔女(コ)にどうしたら安心が出来るだろう。
「早くしないと……」
身を乗り出そうとする晶雄をその一翼で制するプラトン。イデアを正座させて魔術講座を始めた。
「今からそんなことしたって……」
焦るのも無理はない。Xが何か全く知れないのだから、感染がこれ以上悪化しないか心配でならない。それこそ特効薬的な魔術の出番のはずなのに、身に覚えのない魔術を一から教授するのは回りくどくて仕方ない。
「あ~あ。やりましたね。そんなのも。あれってこういう時に使うんですね」
初授業ではなかったらしい。失念にもほどがある。プラトンが溜息をつくくらいである。イデアが人間界の中学生になったとしたら、義務教育であっても留年するのではなかろうか。というか、裏を返すとイデアは細かいことに執心しない器の大きな魔女になりうる可能性が豊富だということになるが、それは晶雄にとっては本当にどうでもいいことで、まずはその習ったであろう魔術で患者を救うことが最優先である。
「では、晶雄さん。この女性の手を握ってください」
「は? なんで?」
「えっとですね。なんででしたっけ?」
まったく頼りにならない大器晩成型の魔女である。
「この娘の意識下に入ってXを確保して脱出する。ただイデアだけで執行するには心もとないから君にも協力してもらおうかと」
その代わりに使い魔が解説していれる。
「い、行けますよ。晶雄さん」
確かにその魔術なら横たわる先輩のわきで、イデアたちがその先輩の意識下で何をしているのか、いつ戻ってくるのかとやきもきしてしまうだろう。それならば、同行した方が断然いいに決まっている。
「よし、それなら」
昏倒の女子にそれこそ手を出すのかとためらっている場合ではない。それが小林陽子を助けることならば、するしかない。
「では!」
言って、どっから取り出したのか杖を掲げ、晶雄には知れない言語を諳んじ始める。
「そういや、イデアはこの術、実践は初めてだったな」
このタイミングで言わんでもいいだろうことを、イデアの肩でぼそりとつぶやくプラトン。
「ちょっ」
言いかけて、さっきのイデアの言葉が頭をよぎった。「い、行けますよ……」の最初の「い」は、晶雄に対する見得だと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。補助輪がついていたチャリンコから、二輪で走るみたいな。つまりは、
「失敗の……」
可能性が大いにあるのだが、言い終えることができなかった。
晶雄もイデアもプラトンも、小林陽子を傍らから姿を消したのだった。
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