第2章 その3

 競技場は団体利用の申請をしていれば、市内の学校は無料で活動できる。個人利用する場合には二〇〇円を支払わなければならないが、一応、晶雄も陸上部関係者と言えなくはない。ジャージ姿だし、現に陸上部の顧問は晶雄の姿を見て、歓迎したくらいである。選手のマッサージをするのはマネージャーか下級生というのが通常の学校だが、この高校には優秀なトレーナーが専属している扱いだ。

「痛くないけど」

 晶雄が幅跳びのピットに足を運ぶと、小林陽子は症状を申告した。晶雄は何も言っていないというのに。

 幅跳び選手としては、申し分のないスタイル、長く引き締まった足。ショートヘアにしているのも動きやすさを優先させているからだ。言動がきつく受け取られることが多いのは、競技への真剣さの裏返しである。近づきがたいと、何人かの先輩から聞いたことがあるが、それは泰然とした雰囲気のせいであり、晶雄には人付き合いを苦手にしているように見えた。

「ちゃんとお風呂上りにストレッチしてるし」

 彼女はボディケアに余念がない。風呂上りにはマッサージクリームで少なくともふくらはぎと太腿をさする。そこに加えて、晶雄から薦められたストレッチも行うようになっていた。

 さらには、

「ビタミンB12だっけ? あれ摂るの大変」

 晶雄は食の面でもアドバイスを送っていた。ビタミンB12は神経の伝達をスムーズにする。しかし、食品から毎日毎食摂ろうとすれば、量も種類も食費もかさんでしまう。それを成し遂げようと努める小林陽子であったが、さすがに厳しいらしい。

「サプリじゃだめなの?」

「だったら……」

 晶雄はデイバッグをおろし、ルーズリーフにしたためて渡した。そこには商品名だけではなく、価格やショッピングサイトのアドレスも書かれていた。

「市販のよりこっちの方がいいです。パウダータイプだし、野菜ジュースに混ぜて飲むこともできます。あ、野菜ジュースよりも……」

 お薦めのサプリメントの説明がうんたらかんたらと続く。もはや一介の高校生の域ではない。いつ転職しても、生計には困らないレベルである。

「本題。どう? 晶雄から見て」

 晶雄はスポーツ起因ともなれば、実際に自分でその動作を真似てみる。患者に寄り添うためという師匠の教えでもあった。使う筋肉、動作、姿勢などを頭ではなく体で理解し、施術に活かすことは、彼の腕前をさらに上げることになっていた。

「動きはスムーズです」

「当然でしょ。あ、先にどうぞ」

 何人も集う幅跳びのピットでは、暗黙の了解で助走する順番がその都度できあがる。今度は小林陽子の番になったのだが、他校の選手にその順を譲る。

「踏切次第です」

 小林陽子が腰痛を発症したのは、県大会を終え数日した後のある練習日のことだった。踏切板を蹴り、体が伸び上がろうとした瞬間、背骨を中心に手と足の指先まで電流が貫いた。ふいに襲ってきた痛みで呼吸は止まり、跳ぶことはできず、砂場に倒れこんだ。

 病院を何件か渡り歩いても治らなかったのは、晶雄の元にある資料の通りである。痛み止めの内服薬や湿布は気休めにもならなかった。そんな彼女に校内の魔法使いを薦められたのは、陸上競技部の顧問、担任教師、保健教諭、PTAの役員を務める親からともなれば断る理由はない。男子、しかも下級生に体を触られるのを忌避したいという感情はなかった。次の大会までそう期間があるわけでもなかったから、喉から出た手が藁にすがる状態だった。

 練習を再開し、走路を走り、踏切板に足が触れると、脳がその時の映像を自動再生させ、足がこわばり、跳躍ができなかった。一度だけではない。あれからずっと、何度も何度も。

小林陽子は腰に手を当てて、口を真一文字に結ぶ。

「治ると思う?」

 大会までカウントダウンされる時間とままならぬ自身の身体。高校最後の勝負ともなれば、焦るなと言うほうが無理である。

 一方の晶雄にとっても答えづらかった。公的医療機関のドクターがことごとく異常なしの結論に至り、日常生活に支障は出ていないが一定の動きの時に顕著な症状。その痛みが生じたということは、体の生理機能上治るはずだ。しかし確証がない。

「治りたいですか?」

 むしろ聞き直した。

「もちろん」

 小林陽子は即答したが、予想はついていたものの、求めていた答えとはどこか違って感じられた。

「そうですか、いや、そうですよね」

 煮え切らない晶雄の確認に、小林陽子も憮然とする。

「魔法使いにもできないことがあるのね」

 意地の悪い言い方だろう。痛みを持つ者は施術者に対して、「あんたには分からないでしょうね」と言いがちになる。痛みの共時共感などできるものではない。晶雄は、患者の心理について文献を読んだことがある。だから、「ニックネームですから」などと答えれば、それこそ気分を損ねかねないことも承知していた。そういうセリフこそ、今の小林陽子を意固地にさせ、治療の妨げになりかねない。

「魔女ならと思ったんですけど」

 考えもしないうちに、思わず口にしていた。イデアを秘密にしておくと言いながら、自身の身に起きたことの衝撃さは、このような形で吐露される。

「そうね。魔法使いの次は魔女あたりにお願いしようかしら」

 小林陽子の気分を害せずに、うまい具合に切り返すことができたようだ。

 思わずスタンド席を見る。イデアはまだこっちを見ていた。

 スタンド席から幅跳びのピットに来る間に、晶雄は少し考えていた。目を離している間に、イデアは去っているだろうと。あくまでイデアは過失で傷害を負わせた晶雄の治療に来て、仕方なくその素性を明かしたに過ぎない。いきさつ上、小林陽子の件を知らせることになったが、イデアが口外することはありえないだろうし、口外したとしてもそれは人間ではなく、魔女連中の中だけの話になるだろう。ここに来たのだって思いつきだろうし、あるいは単に現役高校生たちの青春模様をライブで見たかっただけかもしれない。

 だから、まだ居座り続ける理由が晶雄には知れなかったのだ。

「Xってなんだよ」

「何か言った?」

「いえ、独り言です。小林先輩が治る方程式をずっと考えているもんで」

「そっ。あ、どうぞ」

 小林陽子の助走の順が来ていたが、再び譲った。晶雄と話す、というのが周りから見たら理由になるだろうが、内心は走った先にある踏切への戸惑いを隠したのだった。

「次の施術の予定なんですけど……」

 言いかけた時だった。

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