第2章 その1

「どうぞ、入って」

 イデアが通されたのは、浮世離れした魔法使いの秘密の工房ではなく、何の変哲もないプレハブの一部屋だった。まさに治療室な内装だ。場所は晶雄の家の庭。晶雄の親が先行投資という名目で造ったのだ。

「は! もしかして、こうして油断しているところを襲うつもりですね。さらに動画を撮影し、二度三度と夜な夜な堪能する……」

 魔法使いの痛打が魔女の頭部に落とされた。A4のクリアファイルで。

「俺はロリ好きでもペドでもないし、そんな変な性癖もない」

 振り下ろされたファイルも見ろと言わんばかりに、イデアの手に渡される。ロリ扱いされている点は気にしていないようだ。

「コバヤシヨウコさん?」

 ファイルを広げて一ページ目にプロフィールが書かれてあった。

「俺の高校の先輩。陸上競技部で走り幅跳びをしている。最近腰痛に悩まされていて、何回かの施術をした」

 事細かく書かれているメモは個人情報丸出しで、これは社外秘レベルではないだろうか。民間資格の整体師であろうが、守秘義務はそれこそ生業の命綱である。

「俺の整体の師匠のつてを使って、彼女のCT画像もある」

 聞きながら、ページをめくるイデア。晶雄が言うCT画像がコピーだろうか、差し込まれていた。

「椎間板ヘルニアにもなっていない。もちろん骨折もしてない。どうだ。綺麗な腰椎だろ」

 骨格に醜美の感を催すことのできないイデアは、先ほど無いと自己申告してきた魔法使いの性癖の一部を垣間見た気分だった。

「もちろん、内臓疾患から来る腰痛でもない。腫瘍の転移などもなし」

 次のページには内科のカルテもあった。魔女であるイデアは世間知らずではない。魔女の社会の教育機関において十分な知識も得ている。もちろんそこには人間社会の常識も含まれていている。スマホやネットという単語が耳を素通りしていたのは、彼女の睡眠学習が不足していたからに過ぎないのだが、今重要なのはそこではない。

 イデアが学んだ人間社会の常識からすれば、一介の高校生が仕入れられる情報としては高度すぎる。先ほど彼が言った師匠なる人の素性がやたらに気になるが、

「それ見て分かるだろうが、スウェイバックでもない。初回の施術でパトリックテストもSLRもしたが異常はない。もちろん大腿神経伸展テストも陰性だ」

 魔女は何でも知っていると思って話しているだろうが、専門用語過ぎて

「あの、晶雄さん。まったく何言っているか分からないですけど。パトリックって、セ・リーグで首位打者とった人ですか?」

「それはパチョレック! しかも、かなり古いな!」

 魔女の知識体系は、プロ野球のデータも豊富なのだろうか。平成も半ば過ぎなのに、その初期のことを知っている晶雄も大概だが。だからだろうか、そんなことを知っているのに、スマホを知らなかったという点についてはツッコミを入れ忘れている。

「スウェイバックって言うのは、ペンギンみたいな出っ尻のこと。本当は腰椎と骨盤との角度の大きさがあるんだけど、分かり易く言うとな」

 言って、晶雄が背を伸ばして、尻を後方に突き出す。それを見て、イデア納得。

「パトリックテストは、仰向けに寝て、伸ばした足の膝に、別の足を曲げて乗せる。その乗せた足の膝がどれくらい浮いているかを見るテスト。仙腸関節や股関節に異常がないかを調べる」

 その場で、プロレス技で言う膝十字固めみたいな格好をイデアに見せる。

「SLRは、仰向けに寝て膝伸ばしたまま、どれくらい足が上がるかを見るテスト。Straight Leg Resistの頭文字。英語を訳せば、そのまんまだ。下肢伸展挙上テスト。今言ったのはどれも、腰痛の程度をチェックする作業だ」

「で、この人は大丈夫だったと」

 晶雄の説明を粉砕し、結論だけを確認する魔女の横で、参観日にしくじった我が子にげんなりする親のような使い魔。

「ああ、腰痛とは思えないほど、柔軟だった」

「晶雄さんがセイタイシなら、骨格矯正もしたんですよね?」

 どうやら魔女はやはり人間界の医療も情報として仕入れているようだ。

「矯正と言うまでのことではないな。ランバーロールで少し鳴ったくらいで」

 横向きに寝て、上の方になっている足の膝を曲げて前方に。それから上体を後方に捻る動作をイデアに見せる。腰椎の矯正をするカイロプラックティックの手技・ランバーロール。腰椎が歪んでいる場合、矯正された時に腰が鳴る。

「筋硬直は?」

 ただ単純に筋肉の疲労、その硬直が原因なのではと、イデアは問うが、

「いや、高校生とは思えないほど柔らかい筋肉していた。コンタクトをするから、後頭筋が若干張っていたから天柱や風池を押しといたけど、首も肩も腰も下半身も硬直はなかった」

「ふーん」

 イデア腕組みをして思案突入。天柱や風池と言った経穴、つまりツボの正式名称はきっと馬耳東風したのだろう。

「それで私を連れて来たと」

「察しがいいな、さすがに。で、どうなんだ?」

 つまりは、小林陽子選手の腰痛が、晶雄同様にイデア起因ではないかと詰め寄っているわけだ。

「私ではありません」

「なら、他の魔女は?」

 イデアがいるくらいなら、Xとやらを追っている魔女が一人ということはあるまい。

「この辺では私一人です」

「そもそもお主にやらかしたようなことは、他の魔女はやらん。それに、私が見たところ、この女子に魔術の痕跡(スティグマ)もない」

 イデアの状況報告に、プラトンが説得力満点に付加する。透視術でもできるのだろう。

「そっか。なら、別案を探すしかないか」

「なあ、晶雄よ」

 プラトンという壮大な名前のフクロウに、そのテノールボイスで問われる。

「こう言ってはなんだが、その少女。イデアの魔術で癒すとは考えないのか?」

「考えない」

「なぜ?」

「俺が魔法使いだから」

「イデアならまだしも、私を茶化すな。イデアに協力を依頼したから、私はてっきり魔術を使わせる要件でもあるのかと」

「先輩に魔女とか魔術とかが絡んでないって分かればそれでいいんだ。腰痛の原因が異能なら異能でしか治せないだろうが、そうじゃないなら、やはり人間の何かしらが原因だ。それならわざわざ異能を使う必要性はない。だから、イデア。さっきお前に言った画像は消去するから安心して帰れ。悪かったな。それとありがとう。礼の代わりと言ったらだけど、イデア、腰骨の横あたりが張るんじゃないか?」

「いえ、特に意識したことはないですが」

「なら、ちょい」

 言って晶雄がイデアを手招いた。小首を傾げながら晶雄の言うことに従い、仰向けにて、右膝をくの字にして広げる。

「痛いですって!」

 いつのまにか

「テニスボール?」

 が床と腰骨の脇の筋肉の間に置かれ刺激していた。しかも、ソフトテニスのそれではない。硬式テニスの黄色いそれ。とはいえ、

「一〇〇円ショップなら三個入りで買える。すぐ楽になるから」

 魔法使いがそう言うものの、その痛みはこれまで魔女が経験したことのない、言い難い鈍痛。魔法使いの言う「すぐに」という時間がどれくらいなのかを訊こうかどうしようかと十数秒経過していると、徐々に本当に徐々にではあるが、痛みだけでなくどこかほぐれていく体感がある。腰骨の脇の筋肉に血が通い、ほんのりと温かみが広がるような。

 そんな一分ほどが経過して、

「もういいぞ。立って足上げてみな」

 腿上げではないが、軽く膝を高く上げてみた。

「軽! 容易に足が上がります。ホント、晶雄さんは魔法使いですね」

「魔法は使っとらんだろうが。ただ中臀筋が張ってたんだよ。イデアの立ち方がたぶん無意識だろうけど、杖を支えにして右足を開き気味にして傾いてたから、この業界にいるならすぐに分かるって」

 そう言って、晶雄はイデアからファイルを戻すと棚にしまった。それからデイバッグを担ぐ。

「どこか行くんですか?」

 魔法使いから施術を受けた魔女は心なしか表情が爽快になっていた。

「ああ、その小林先輩が練習しているはずなんだ。インターハイに進めるかどうかの地方大会が近いから、休めないって言ってたし、様子見にな」

「私も行きます」

「なんで?」

「なんでと言われても。なんというか、ふと思ったもんで」

「まあ、いいけど見つかったらやばいんじゃないの?」

「見つからないようにします」

 魔女がそう言うのだ。何かしらの方策があるのだろう。

「なら、行くか」

「はい」

「イデア。なぜ、そう嬉しそうなんだ?」

 魔法使いに引き連れられ、魔女と使い魔は窮する姫を救う旅に出るのであった、なんていう颯爽さは、暑さしのぎにスポーツ飲料のペットボトルを持つ二人には縁遠いシチュエーションだった。

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