街に出よう

「用意できた?じゃ、行こっか」

 剣は取り敢えず机の上に置いた。軽くノートを確認して、それ以外の文房具をポケットに突っ込む、たったそれだけの準備だが、部屋を出るのがリリィより遅れた。女性の準備は長いと思っていたのだが、そんなことはないらしい。いつもの杖と簡単な荷物をまとめたバッグだけ取ってきたみたいだから、早くて当然か。化粧とか服装はすでに出来上がってたし。

「うん、待たせちゃったね」

「全然、それより早く行こ」

 一応謝ろうとしたけど、リリィは気にしてないようだった。そんなことよりも早く出掛けたいらしい。出掛けるのが好きなのだろうか。


「行ってきまーす」

「行ってきます」

 まだ下の階にいたギレンさんに一応声を掛ける。それを聞いて、ようやく我に返ったようだったが、やけに反応が鈍い。僕の腰辺りに目線をやって、安心したような残念なような顔をした。どうしたのか、心配になってくる。

「あ、ああ、いってらっしゃい」

 僕とリリィは、思わず顔を見合わせて違和感を共有したが、口に出しては何も言えなかった。なにか、突っ込んではいけないものを感じた。


 慌ただしく玄関を抜け出した後、青空の下でリリィが言う。

「今から魔法使うから、こっち寄ってきて」

 急な言葉に身構えたが、リリィはどこ吹く風だった。結局なあなあで終わってしまったが、彼女にはすでに催眠魔法というよくわからない魔法をかけられている。それに関してはもう受け入れたけど、改めて何かされるというのは不安だ。少なくとも、快く身を任せようとは思えない。

「ああ、安心して。精神操作系のやつじゃないから。ちょっとした強化魔法よ。昨日と違って、今日は遠めの店にも用があるからね。何の補助もない足で歩きまわるのは疲れるもん」

 リリィは、そう言って笑った。魔法について何も知らない僕からしたら、精神操作系も強化魔法も、等しく不気味だが、この世界の人からすれば常識レベルで全く違うものなのだろうか。

「ふふ、また難しい顔してる。まあ、昨日私がやらかしちゃったもんね、信用ないか……。よし、じゃあ、まず私にかけるからそれ見て安心してよ」

 一瞬落ち込んだような顔をしていたが、良いアイデアが出てすぐに嬉しそうな顔に戻った。ころころ変わる表情に、何か眩しいものを感じるが、元の世界の同年代の女子も似たようなものだったのだろうか。信憑性のあるサンプルは数人しか覚えていないからよくわからない。少なくとも、‟彼女”はこんな風じゃなかったはずだが。


「強化魔法『フィジカルアップ:レッグ』」

 ふと昔のことを考えていると、リリィが何やら怪しい動きをしていた。いつもの短杖の玉やらなんやらが付いた上部を自分の足に当て、変な言葉を口走っている。奇行、としか見えなかったが、よく考えてみれば思い当たる節がある。

 これが魔法か。効果に関しては、全くわからないが、会話の文脈やリリィの言葉について考えればそうと考えるのが一番自然だろう。あまり記憶に残ってないが、昨日魔法をかけられた時も似たような感じだったはずだ。

「ほら、できたできた」

 ニコニコと自慢げに笑う顔が、あまりに無邪気で可愛らしく、つられて笑ってしまった。彼女には色々教えてもらったり、世話になったりしている分、本来の年齢よりも上なイメージを持っていたが、今の彼女の姿は、幼女やそこらのそれだった。中学の時の保育実習が思い出される。

「ほら、ほら」

 更に笑いながら、リリィは跳んだり駆けたりした。一体何がそんなに楽しいのか、と不思議に思っていたが、彼女の動きを眺めている内にその理由がわかった。

 明らかに、速い。鍛えているようならともかく、リリィはどう見ても華奢な少女としか思えない。それなのに、今の彼女はトップアスリートもかくや、といった様子だった。汗一つ掻かず、楽しそうに動いていてなおそんな感じだから、本気を出したらもっとすごいのだろう。

 さっき彼女は、フィジカルアップ、とか言っていたな。相変わらずの雑な英語は置いといて、字面から考えるに身体能力の向上が効果なのだろうか。それに続いて、レッグという単語もあった。足の強化?だから走力や跳躍力が上がっている?短絡的というか、なんというか。頭の悪そうな理屈ではあるが、納得はできる。土台、魔法とかいう科学や前の世界の常識が全く通用しないものを、理解するというのが無理な話だ。それっぽい理屈があるだけ、まだマシだろう。

「強化魔法『フィジカルアップ:レッグ』」

 とかなんとか色々考えていたら、忍び寄る影に気付くのが遅れた。気付けたとしても、その影のスピードからは、逃げることはできなかっただろうが。

「はい、あなたにも掛けたわよ。大丈夫だろうけど、効果が出てるか一応確認しといて」

 急に冷静さを取り戻した影の正体––––リリィにそう言われて、軽く跳んでみる。

「オ、オォォオ……」

 自分の体の使用感のあまりの違いに、変な声が出てしまった。リリィに倣って軽めを心掛けたのだが、どうも加減を間違えた。着地の瞬間に少しふらつく。ちょっと恥ずかしい。

「慣れてないと難しいよね。ちょっと走る?」

 彼女からの提案は、普段なら断る類のものだけど、今回は違った。なかなか便利そうな魔法だし、余裕のあるときに慣れておきたい。


「どう?楽しいでしょ」

 福音荘の周りを軽く回ってから、リリィはそう言った。

「うん」

 素直に頷く。実際、かなり楽しかった。普段より遥かに性能の良くなった体だと、簡単な運動でも気持ちいい。リリィのあの感じも、納得できる。それなりの速さで走ったのに、ちっとも疲れてないのも地味に嬉しい。今の状態で体育とか受けたいな。

「たまにやると気持ちいいのよね~。それはそれとして、体のスピードに慣れたかしら?」

 本題を忘れそうになった僕に、リリィは尋ねた。

「結構慣れたと思う。初めは力加減も分からなかったけど、今じゃ自分で速さを調節できるし。街中を走っても、多分人にぶつからないよ」

 整理体操のように体をほぐしながら、確認しつつそう呟く。うん、イケそうだ。


「あ」

「ん?どうかした?」

「ああ、いや、何でもない」

 あることに気付いて、思わず声を上げてしまった。リリィから怪訝そうな顔で見られたが、何もないように答える。彼女には関係のないことだし。

 気付いたことも、大したことじゃない。ただ、今回の『フィジカルアップ:レッグ』と、以前使ったシャーペンの‟俊足”が、似てるなあと思っただけ。どっちも足が速くなる効果。くだらないことだし、自分でも重要なことだとは思わなかった。本当に、ただ気付いただけ。

 比べてみると、結果は同じでも内容がかなり違うし。

 前者の魔法は、身体能力の強化が根幹。体の性能が良くなったと実感できるし、違和感もない。

 後者の文字は、ただただ速くなるだけ。自分としてはいつも通り動いてるはずなのに何故か速くなっている。動画の早送りって表現は、かなり的を得ている気がする。違和感満載の動きだった。 

 同じようなものでも、使用している側としては結構違うように感じる。だからどうした、って感想しか出てこないが、こんなよくわからない世界では些細なことにも一応気にしておいた方が良いだろう。あの神が設計したような世界だ、きっと変なところで罠を張っているに違いない。


「ねえ、もういい?」

 痺れを切らしたような声が、真横から響いた。リリィのものだ。意識の外から近づいてくるの、好きなんだろうか。

「君ってさ、なんか急に考え込むことがあるよね。オータルさんと学問魔導士やるのも、別にいやってわけじゃなさそうだったし。色々と考えたりするタイプ?」

「ああ、そうかも」

「ふうん。ま、何も考えないよりはマシよね。それより、準備はいいわね。さあ、走りましょう。ちょっと遠い店に行くけど、遅れないようにね」

「勿論」


 やけに時間がかかったけど、ようやく出掛けれそうだ。

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