第百章 母の顔

「ここにウルリーケがおりやす。心して下せェ」


「う、うむ、心得た」


 一行はおシンの秘密基地の最奥へと続く扉の前に立っていた。

 途中、怨念を浄化する実験を行っている部屋はいくつもあり、先程のような地獄絵図に封じる試みだけでなく、逆に極楽図に入れて菩薩に癒やされる事で無念を消し去ろうとしたり、あらゆる欲情を満たす事で満足させて怨念を消滅させようとするなと様々な試行錯誤が繰り返されていた。

 かつては仮想空間にて怨みの対象の幻を見せて擬似的な復讐をさせる試みもされたそうであるが、怨敵を目の当たりにした事で力を増してしまって危うく惨事にまで発展しかけた事例もあったそうで、今ではその実験は行われていないそうな。


「いよいよ会えますぞ、母上。さあ、開けてくれ」


 扉を開けるように促すローゼマリーであったが、覗き込むようにじっとおシンに見詰められている事に気付くとたじろいだ。

 おシンの瞳は墨汁のように真っ黒であり、虹彩と瞳孔の境が分からない事もあって不気味さに加えて妙な迫力がある。


「な、何だ?」


「アンタ、自分がウルリーケに怨まれているのをまさか忘れたワケじゃないでやすよね? アンタにとって瞼の母がどんな女性ひとかは知ったこっちゃ御座ンせんが、ウルリーケにとってアンタは恩人を騙し討ちにした憎い相手だ。その事を忘れて“おっさん”なんて口走ろうものなら、たちまち祟り殺されやすぜ。それで善く“心得た”なんて云ったもんだ」


 ローゼマリーことグレゴール=ユルゲン=ヴァイアーシュトラスは先代当主によりヴァルプルギス家の生贄にされかかったところを救われていた。

 しかし当時の次期聖帝が重き病に罹り生還が絶望的だと思われた時、聖帝が先代当主に“我が子を返せ”と迫るという事件が起こる。

 実は先代当主の嫡男は当主とは血が繋がってはおらず、なんと彼の妻を聖帝に寝取られた時の胤で生まれた隠し子であったのだ。

 聖帝は生まれてしまった我が子を認知せずに有ろう事か先代当主に押し付けてしまったという。

 妻を寝取られただけでも一大事であるのに生まれた子供を、我が子とせい、と聖帝に云われた屈辱は相当なものであったが、彼は耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、赤ん坊を嫡男として大切に育ててきたのだ。

 多少のわだかまりはあったものの愛する妻が生んだ子でもある事から先代も次第に聖帝の子を愛するようになり、元服を迎える頃には次期当主として跡を継がせる事を強く望むようになっていた。

 それを今更返せなどと云われて、怒りもしたし呆れもしたが、然りとて聖帝の命に逆らう事もできずに思い悩む日々を過ごしていた。

 そんな折り、嫡男と同い年であり背恰好も似ていたユルゲンは自分が代わって聖帝に差し出されると進言し、元服まで育ててくれた恩を返させて欲しいと願い出たのである。

 養子とはいえユルゲンも我が子として愛していた先代当主は反対していたが、なんとユルゲンが床に額を擦りつけてまで願った事でついに折れて、ユルゲンの手を取って頭を上げさせると涙ながらに感謝したという。

 こうして次期聖帝として宮殿にあがったユルゲンであったが、思いも寄らぬ事態が出来しゅったいしてしまう。

 死病にあった皇子が奇跡的に生還して帝位継承者に返り咲いてしまったのだ。

 この事を知った先代当主は後継者争い敗れたものが如何なる未来を辿るのかを案じて、あらゆる手段を講じてユルゲンをヴァイアーシュトラス家に呼び戻した。

 ユルゲンは、まだ早い、と抗議したが聞き入れる事はなく、抵抗虚しくヴァイアーシュトラス家に戻される事となってしまう。

 ユルゲンの主張は間違っておらず、皇子は再び死病に取り憑かれてついには夭折してしまったそうな。

 ユルゲンは今度こそ次期聖帝にと意気込んだものの、一度ケチのついたユルゲンを再び後継者にする気にはならなかった聖帝は、本人も老いて益々盛んであった事から貴族達に姫を差し出すように命じて新たな後継者を設けたという。

 その事に激昂したユルゲンは連れ戻した先代を惨殺すると、今度はヴァイアーシュトラス家の家督を狙って嫡男までも謀殺して家督を継いでしまったのだ。

 色々と疑わしいところもあったが、ヴァイアーシュトラス家が公爵であった事と星神教として後ろめたい事もあった事実、そしてユルゲンが聖都の怨念を引き受けてきたヴァルプルギス家の血を引いている事も相俟って帝室も星神教も口を閉ざすしかなく、家督が認められるとグレゴールと名を改めた。

 死人に口無しとほくそ笑むグレゴールであったが、その身にながれるヴァルプルギス家の血が身を滅ぼそうとしている事までは気が回らなかったらしい。

 先代当主と嫡男の無念はウルリーケに引き寄せられ、我が子を救ってくれた大恩あるヴァイアーシュトラス家に、その我が子が災いをもたらしてしまったと後悔する事となった。

 その悔いは怒りとなり、怒りは怨みと化してウルリーケを生きた怨霊としてしまったのである。

 その怨みを感じ取ったおシンがウルリーケの元へと現れ、彼女の願いを叶える為にグレゴール=ユルゲン=ヴァイアーシュトラスにあだなす怨念の代弁者として暗躍する事となったのは知っての通りだ。


「それを忘れたとは云わせやせん。もっとも拒ンだとしてもウルリーケの前に引き摺っていくつもりでやすがね。さあ、改めて云いやすぜ。心して下せェ」


 おシンが扉の横にあるパネルに手を翳し、女性に似た機械の声が指紋を認証したと告げると、白い扉は空気の抜けるような音がしてあっさりと開いた。

 しかし、ここまで明るかった館内にあって扉の先は真っ暗であった。


「な、何故、灯りを灯しておらぬのだ? もしや母上は御寝ぎょしんなされているのではないか?」


 ローゼマリーの戸惑う声におシンは無表情になって顎で中に入るよう示した。

 その態度に思う所がない訳ではなかったが、逆らっても意味は無いとも思い、恐る恐る歩を進めていく。

 目を凝らしても何も見えないし、何かが潜んでいるような気配も無い。

 どういう事かと振り返った途端に扉が閉まってしまいローゼマリーは闇の中に一人で取り残される格好となった。


「お、おい」


『ユル…ゲン…』


「っ?!」


 割る巫山戯はよせ、と続けようとしたその時、女の声に言葉が引っ込んだ。

 全身が強張り、汗がどっと噴き出してきた。


『ユルゲン…私のユルゲン…』


 ああ、分かる。この声の主こそが私の母だ。

 だが、何故、彼女は灯りの無い部屋に一人でいるのだろう。


「はい……」


 喉はからからに乾き、上手く声が出ない。

 やっとの思いでそれだけが出た。


『ユルゲン…顔を見せて……』


 死んだと思っていた母が後ろにいる。

 振り返れば母がいるのに振り返る事が出来ない。


「は…」


 “母上”と呼ぶ事が出来ない。

 祟り殺されるというおシンの言葉で怖じけた訳ではあるまい。

 動かない体を叱咤して振り返ろうとしても叶わない。

 ふと室内であるにも拘わらずマントが揺れた。

 風ではない。空気は動いていなかったが、背後の存在から発せられる思念のようなものがマントを動かしたのだ。


(マント…ローデリヒのマントが)


 素肌に直接纏っているマントが勇気を与えてくれた気持ちになる。

 あれだけ嫌っていた男をよすが・・・にするとは、と妙な可笑しみが湧いてきて、強張って体からすっと力が抜けていくのを感じた。

 動く。先程まで固まっていた体が軽くなっているではないか。

 母はきっと不出来な子を嘆き、怨んでいるに違いない。

 それでも、この夜でたった一人の母だ。子だ。

 今のローゼマリーの心は恐怖より勇気が勝っていた。

 嗚呼、ついに長年憧れて母に会えるのに恐れる方がおかしいのだ。


「はい、ユルゲンで御座います。お会いしとう御座いました。母上」


 振り返ったローゼマリは母を見た。


『ユルゲン…』


 闇の中、真っ白な顔が浮かんでいた。

 元は美しかったであろうかんばせを怨念で歪ませた少女がいた。

 生気を感じさせない白い白い幽鬼の顔がじっとローゼマリーを見詰めていた。

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