第玖拾陸章 怨念が落ちた地獄
「エラい大掛かりだが、どうやって工事したンだよ、お前?」
おシンの秘密基地に案内された一行は扉に入っていきなり動き出した床に仰天させられたものだ。
令和日本に滞在していたゲルダらはエレベーターの存在を知っていたし何度も利用していたので騒ぎはしなかったが、初体験のアンネリーゼ達は“地震だ”“冥王に追い付かれた”だと大騒ぎをしていた。
騒ぎすぎと思わないでもないが、初めてエレベーターに乗った時は自分達も大騒ぎをしていた為にベアトリクスは何も云う事が出来なかった。
しかもゲルダは動力こそ電力ではなく魔力であったものの『水の都』の居城の中にもエレベーターがあったので慣れたものであった。
「どうやってって云われやしても洞窟の形に合わせて基礎を作って施設を作っただけで御座ンすよゥ。大昔に刺客を送ってきた代議士がいたのを覚えておりやすかい?」
「ああ、いたなァ…お前に弱みを握られたか、借金をしたかで
「ええ、そうでやすよ。思えばあの殺し屋も運が悪い。やつがれだけならまだしも三池の若先生がいる時に襲ってきたのが運の尽きでさ。で、落とし前に野郎の一族が運営していた会社を根刮ぎ頂いたンでやすがね。その一つが建築会社だったンでやすなァ。だからこうして遠慮無くこんな秘密基地を拵える事が出来たンでさ」
洞窟の最奥と云ってもまだ続きがあったらしい。
だが、それはおシンの秘密基地で埋まってしまっていたのだろう。
「工事していた連中は怨念だらけの現場でさぞや
「人聞きの悪い。工事に携わっていた連中にはちゃんと怨霊避けの護符を配ってやりやしたし口止めも兼ねて特別ボーナスも出してやったからむしろ喜ンでやしたぜ」
「そうだとしても善くもまァ誰も辞めなかったな。意外と胆が据わった連中だったンだな。土木作業をやってると度胸もつくもんかね」
するとおシンが意地の悪い笑みを浮かべたではないか。
「若先生はやつがれの特技を忘れていなさるようでやすね」
「あん?」
「勿論、怨念を怖がらねェように
錫杖の輪を鳴らすおシンに月弥は顔をしかめたものだ。
「なんだ? 怨念共を美女かなんかに見せたのかよ」
「それもテメェ好みの女にね」
「った! それじゃ逆に気が散って事故でも起こしたンじゃねェのかよ」
聖女達は屈強な作業員達から好色の目で見られたであろう怨念達に同情した。
よもや恨みつらみを聞かせたり取り憑こうと思って近づいた相手が鼻息荒く自分を見てこようとは怨念とて想定していなかったに違いない。
「無駄に生命力を発揮されちゃァ怨念も近付くに近付けなかったか」
「むしろ休憩時間にゃァ作業員達に追いかけ回されてやしたぜ」
「何とも気の毒な話だな。中には男の怨念もいただろうに」
莫迦な会話をしている間も彼らは施設の中を進んで行く。
途中、何度も悲鳴を聞こえてきたが、おシンの話では誰かが怨念に襲われているのではないという。
「ありゃ何をやってンだい?」
ある部屋を覗いてみると、なんと冥王が暴れている状況でも頓着する事なく白衣を着た男女が淡々と作業をしているではないか。
「ま、一種の実験でやすな。ヴァルプルギス家を犠牲にせずに怨念を封じようってのがコンセプトなんでやすが、これがまた面白くってねェ」
そう白衣と一口にいっても医者や科学者が着る白衣の事ではなく、神職や巫女の装束であった。
「いや、だからってなァ…さっきからの悲鳴はこれだったンかい」
なんと彼らは怨念を掴むと壁一面に描かれた地獄絵図に押し込んでいたのだ。
地獄絵に押し付けられた怨念はするりと絵の中に入っていってしまったのだが、描かれているのが針の山なら怨念達は鋭い針や刃が無数に生えた山を足や体を傷つけながら登らされ、墨壺を持った鬼が描かれている場所に押し込められた怨念は体に墨壺で幾十、幾百もの線を引かれ、その後は線に沿って斧や鋸で切り刻まれた。
木の上で絶世の美女が手招きしている場所に入れられた怨念は誘惑されて木を登っていく事になる。しかし、その木の枝には生い茂る葉の様に無数の刃があって怨念達を切り刻むのだ。だがやっとの事で登りきっても美女の姿はない。すると木の下で女が“こちらに来て”と手招きしているではないか。こうして怨念達は刃の葉に苦しめられながら延々と木を上り下りさせられるのである。
聖女達が聞かされていた悲鳴は地獄絵図に封じられ、本物さながらに容赦無い
「こうやって怨念共は地獄の責め苦で気力を萎えさせていって最期には消滅するって寸法で御座ンすよゥ」
ニンマリと笑うおシンにアンネリーゼは頬を引き攣らせたものだ。
「い、いや、非業の死を遂げた連中にそれはちょっとあんまりじゃないのか?」
するとおシンの顔が弛緩したものとなったではないか。
「いやいや、アンネリーゼ様、アンタはさっき聞いた話をもう忘れちまったンですかい? 怨念とは非業の死を遂げた者の無念、怨みつらみがこの世に遺されただけの残留思念にすぎやせんぜ。当人の魂は死神によってとっくに回収されているンで御座いやすよゥ。悪鬼に生まれ変わってでも復讐したいというドス黒い執念だけがこの世に留まって厄災を振り巻いているンでさ。それをヴァルプルギス家が引き受けて我が身に取り込む事で聖都、否、世界は守られてきたンですぜ」
「そういや、そういう話だったな。怨念の叫びが生々しくって忘れていたぜ。じゃあ当人達は苦しむ事は無いンだな?」
「まあ、怨念と云っても様々でやす。生前の悪事で地獄に落とされた魂の事までは知った話じゃありやせんが、怨念の主が極楽にいようと生まれ変わってようと苦しむ事がない事だけは請け負いやすぜ」
「そうか、それを聞いて安心したが……」
云い澱むアンネリーゼにおシンが訝しむ。
「何かありやすかい?」
「怨念を萎えさせる。それは分かるし、今まで怨念を取り込んできたウルリーケの負担を減らしたいってアンタの心意気は
「心配には及びやせんよ」
おシンが神職姿の男の耳に指を近付けると何やら機械を摘まみ取った。
「ほれ、こうして耳栓変わりに音楽なりASMRなり楽しんでいるので問題ありやせんや。試してみますかい?」
促されたアンネリーゼが機械を耳に近付けると息を吹きかけるように艶かしい囁きが聞こえてきたではないか。
実際に耳元で話しかけられた訳ではないがアンネリーゼは本当に吐息がかかったかのような錯覚を起こして悪寒とも快感ともつかぬ震えが背中を駆け登り、思わず機械を放り投げた。
「うおっ?! 何だこりゃっ?!」
「うおお?! 俺の推しが?!」
投げ捨てられた機械を追って神職姿が慌てて追っていってしまった。
「ASMR、autonomous sensory meridian responseの略でやすな。特定の音や刺客情報、触覚的な刺激によって引き起こされる、リラクゼーションや心地よい感覚を伴う体験を指しやす。この感覚は大抵の人には非常に心地良くって“ブレインオルガズム”とも形容されることがありやすね。ASMRを感じる刺激は人によって異なりやすが、一般的には水の流れる音や風の音、囁き声なんかがそうでやすなァ」
「ワシも眠れぬ夜は酒を杯に注ぐ音で癒やされておる」
「先生、あーたの場合、余計に眠れなくなるンじゃ御座いやせんか?」
いずれにせよ、アンネリーゼには縁のない事であろう。
「異世界ってェのはけったいもんが流行っているンで御座んスね」
そんなアンネリーゼにゲルダはニコニコと耳元で囁いた。
先のASMRではないがゲルダの吐息が耳にかかり、コロンなのか元々の体臭なのか甘い匂いが鼻腔をくすぐり、またもアンネリーゼの背筋を振るわせたものだ。
「今度、サイコロを転がす音やカードをシャッフルする音で編集して進ぜよう。こう見えてワシの提供するASMRは中々の評判であるのだぞ。確か若者の言葉で…そうそう、
「先生、バズりでやす、バズり」
ゲルダの間違いを聞き咎めたおシンが訂正する。
「そうであったかの?」
ゲルダは惚けてみせたものだ。
どうやらゲルダは教皇ミーケに攫われてから随分と楽しんでいた様子だ。
流石にこっちの心配や苦労も知らないで、と思う事はないが、もう少し緊張感を持っても罰は当たるまい。
「ASMRと申せば怨念共の叫びを延々と聞かせられておるヤツがいたな。
「気になりやすかい? なら通り道でやす。そっちも覗いていきやしょうよ」
どうやらゲルダのいう
一行は機械を見つけて戻って来た神職姿と入れ違いに怨念にとっての地獄から出たのだった。
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