第玖拾肆章 怒れる冥王の事情・後編

「った! 俺達に戦争の阻止を命じて自分はキルフェを匿うだけで高みの見物を決め込ンでたときたか。それでテメェだけの功績にしようってンだから神サマってのも楽な商売だな? アンタの神話を聞くたびに同情していたが今後は付き合い方を考えさせてもらう事にするぜ」


『ぐっ! よ、よせ! 我を蔑むな! そんな事をすれば……』


 アンネリーゼに軽蔑の眼差しを向けられた冥王が胸を押さえると身に纏っていた黒いゴシックドレスが色褪せていく。

 信仰により力を得ている神ではあるが流石に崇拝の心を一人分失った程度で存在を左右される事はない。

 しかし、聖女の心が離れてしまったのでは話が違ってくる。

 神に愛され、自身も信徒から崇敬されている聖女の信仰心は常人と比べものにならない力を与えてくれるが、その信仰心が失われたとなっては影響は尋常なものではないのである。

 元々星神教に熱心ではなく転生して尚八幡信仰、不動信仰を続けているゲルダでさえ冥王を軽蔑した途端に力を大幅に失ってしまう。

 そこへアンネリーゼからも失望された事で身に纏う衣服にまで影響が現れてしまったのだ。


「悪いが俺様も頭に来ているぜ。責任を持ってキルフェを預かり、天魔宗にも慈母豊穣会にも手出しをさせぬ、ってアンタの言葉を信じてたのにキルフェの有り様はどうだ? 誰がキルフェを地獄に堕とせと云ったよ? しかもキルフェを苦しめていた動機はツキヤへの意趣返しなんだろ、どうせよ? アンタがそんなちっぽけなヤツだったとは思わなかったぜ」


『やめろ! やめてくれ! そんな目で我を見るな!』


 ベアトリクスにまで見限られた冥王の服は垢染みたボロ布へと成り下がり、肌艶も失われていってしまう。

 今のプルーテスは誰の目にも見窄らしい子供にしか見えず、つい半月前まで威厳ある冥府の裁判官であった面影はどこにも無かった。

 地獄は生前に悪の道を進んだ魂の穢れを浄化する為の場所であって冥王が腹いせで人質をなぶる為に使われて良いはずがない。

 確かにキルフェは輪廻の理を踏み躙るような転生したが、それは天魔宗とグレゴール=ユルゲン=ヴァイアーシュトラス公爵の罠による所が大きい。

 地獄の裁きにも情状を酌量する余地はあるはずであり、ましてやキルフェは生きている・・・・・のだ。

 明確な裁判を受けさせずにキルフェを地獄で甚振いたぶった冥王による地獄の私的使用であるといっても過言ではない。

 勿論、明らかなルール違反であり、あってはならない過ちである。

 この事は既に月弥が魔界を通じて天界に抗議を入れていた。

 当然ながら戦争を回避した功績は立ち消えとなり、そればかりかプルーテスへ罰を与えるべきである、との声が神々の間で既に上がっているそうな。


『な、何だと? いつの間に?』


「こちとらスマホがあるンだ。しかも電波じゃなくて大魔王サマの魔力で繋がってるから、こんな地下深くだろうと通信障害の恐れはェ。リアルタイムで魔界に報告出来るって事を覚えておけ。今後があればだけどな」


 全てを焼き尽くすまで消えないとされている地獄の炎は云い換えれば邪悪なる者の魂を浄化する神の炎である。

 確かに誘惑に負けて転生武芸者となったとがはあるが罪はそれだけであり、枢機卿によって御飾りの教皇に据えられていた事は罪ではなかった。

 ましてや正式な裁判を受けての地獄行きではなかった為に炎で焼かれた痛みや傷はあるもののキルフェを焼き尽くすまでには至っていない。

 その御陰でゲルダも治療が可能であり、既にキルフェは愛くるしい少年の姿を取り戻していたばかりか、地獄の炎で浄化された事により黒かった強膜は白に戻り、瞳も綺麗な蒼を取り戻していた。

 そればかりは地獄の業火に叩き落とされた事を不幸中の幸い、もしくは怪我の功名と思うべきであろうか。


「これで良かろう。服は…今はすまぬがカンツのお下がりを着ておくれ」


 ゲルダが養母セイラから貰い受けた収納空間『塵塚ちりづか』から子供用の服を取り出してキルフェに着せていく。

 『塵塚』の中は時間が止まっているそうで服を何十年入れていようと劣化する事もなければ極端な話、出来たての料理を入れておけば百年経とうと腐る事無く、その上温かいまま保存する事が可能であるそうな。

 キルフェはズボンとジャケットの触り心地の良さと生地の光沢を一目見て一級品であると知った。


「聖女ゲルダ殿、有り難く拝借致す。貴方に感謝を」


「なんの、知らぬ事とはいえ長年青瓢箪と罵っておった事を思えば足りぬくらいよ。星神教を嫌うあまり正当な評価を出来なかったのはゲルダの不徳、お詫びする。どうか、お許しあれ」


 頭を下げるゲルダにキルフェは慌てた。

 むしろ聖女からの評価が低かったからこそ枢機卿達から怪しまれる事なくスパイ活動ができたのだ。

 キルフェにとって青瓢箪は都合の良い隠れ蓑であったと笑う。

 本人が望まぬ以上、これ以上の謝罪は煩わしい思いをさせるだけの自己満足となると判断したゲルダは代わりに右手を差し出した。

 和解の握手の意味もあるが利き手を差し出す事で誠意を示したのだ。

 キルフェもその意図に気付いておりニコリと笑って彼女の手を取った。

 この瞬間、二人のわだかまりが解けて絆が結ばれたのである。


「ほれ、冥王殿はワシのお下がりをくれてやろう」


『ぐっ…情けは要らぬ!』


「見苦しいと云うておるのじゃ。ついでに顔も拭え」


 ゲルダは垢にまみれた顔に蒸しタオルを当てる。

 擦るのではなく暫く当てて肌を蒸らすのがコツで熱と蒸気で汚れや皮脂を浮かせてから拭いてやると簡単に綺麗する事が出来、血行も促進させてるのだ。


「ふぅん、衣裳垢膩(えしょうこうじ:衣服が垢と埃で汚れる)、身体臭穢(しんたいしゅうわい:体が汚れて臭い出す)、腋下汗出(えきがかんしゅつ:腋から汗が流れ出る)、頭上の輪が色褪せているのはさながら頭上華萎ずじょうかいに似た症状か。随分と五衰・・が進ンできてるじゃねェか。これで不楽本座(ふらくほんざ:自分の席に戻るのを嫌がり楽しみを見出せなくなる)があらわれたらアンタはもう終わりだな。神としての生涯は閉じられて輪廻の旅に出る事になる。地獄の仕来りを破ったテメェの来世がどうなるか楽しみってもんだぜ」


『うぐぐぐ……』


 自分の本体である冥王星が月よりも小さな準惑星である事を広められ、聖女からの信仰を失ったプルーテスは神として終わりつつあった。

 仏教では五衰の苦しみは地獄で受ける呵責すら比べものにならないとしており、天界の住人でさえ寿命を免れないと説いて、速やかに涅槃(ねはん:煩悩を滅して悟りを完成させた境地)へと至って六道輪廻から解脱すべきとしている。


「神を殺すにゃ刃物は要らぬってか? まあ、覚悟しておけ。テメェは俺が直々に引導を渡してやっからよ」


 天界への執着を捨てる事が出来ず、私怨でキルフェをさいなんだ冥王を許せない月弥はプルーテスを六道の輪の中に叩き落とすつもりだ。

 これは何も神殺しを目論んでいるのではなく、冥府の裁判官としてもっと人間の事を知るべきだという考えからきている。

 暫く己が身を蝕む激痛いたみや臭気に苦しんでいた冥王であったが、不意に嗤って月弥を見据えたではないか。


『ふふふ、不楽本座か。それが顕れるとしたら初めから。我は太陽神と月の女神の二柱が生み出した最初の子。それが地下深い冥府の王など受け入れられぬと何度も陳情したが聞き入れて下さらなかった。それどころか弟神や妹神がやりたがらぬ仕事を引き受けてきたのに天界の会合に顔を出せば蔑まされる始末だ。どうして冥王に誇りを持つ事ができようか』


 五衰の苦痛を受け、神としての死が迫る中で冥王は豁然かつぜんとして数億年続いた懊悩から解放されたのだ。


『ああ、そうだ。そうであった。漸く冥王から解放されるのだ。考えようによっては、これはこれで我が救いとなろう。冥王プルーテスが浄罪の果てに死すとして再び冥王として生まれる事はあるまい。次なる冥王に誰がなるのか戦々恐々とする弟妹神きょうだいを想像するだけでも愉悦である。ああ、こんなにも愉快な気持ちで死を受け入れられるとは思わなんだ。五衰の苦しみも救いの序章と思えば耐えられる。否、法悦である』


 哄笑と共に冥王の全身は漆黒に染まっていく。

 プルーテスの肉体を構成している神気は泥のように変貌し臭気が一段と増して一同は顔をしかめる。


『あれだけ苦しかったのが嘘のようだ。いや、この苦しみこそが我に更なる力を与えてくれている。まさに創造の前の破壊、否、これこそが祝福と云っても良い!』


 さながら垢で作られた人形と化したプルーテスは最早神でも冥府の裁判官でもなくなってしまっていると云えよう。

 プルーテスが嗤うごとに力が増していき洞窟全体が震えていく。

 五衰を経て死に近付いていっているのは確実であるが、ここにきて何かを悟ったのか、別物・・に成り変わって力を得てしまったようだ。


「垢人形が力を得るって昔話の力太郎じゃねェンだぞ」


「或いは伊弉諾尊いざなぎのみことが鼻をすすいで産まれた洗鼻神素戔男尊すさのおのみことさながらじゃな」


 予想外の強化を果たしたプルーテスに呆れるゲルダと月弥をおシンが責っ付く。


「暢気な事を云ってる場合じゃねェですぜ。ひとまず奥へ逃げやすよ。弱らせるはずが開き直りやがった。あの様子じゃ何をしでかすか知れたもんじゃねェ」


「おシンさんよ。奥に逃げるのは良いが袋小路で逃げ場はありませんでしたは勘弁だぜ。ちゃんと何か考えがあっての提案なんだろうな?」


「少なくともここに居るよりは安全で御座ンすよ。この奥こそウルリーケが居る領域なんでさ。岩盤の補強をしてあるからここと比べて落盤の心配はありやせんし、怨念の侵入を防ぐ結界を張っているので時間稼ぎにはなりやす」


 いよいよ事件最大の黒幕であるウルリーケとの対面であると聞いて聖女達に緊張が走る。


『はははは、漲る! 力が漲ってくるぼっ?!』


 暴走するプルーテスの力の影響で天井から巨大な岩盤が落ちてきて彼女(?)を押し潰してしまう。


「つ、潰れてしまいました。これでは冥王様も御隠れになられてしまったのではありませんか?」


 イルメラが呟いた次の瞬間、プルーテスを潰していた岩盤にヒビが入って砕けてしまったではないか。


『痛い! 痛いぞ! だがそれが良い! 我が身が砕ければ砕けるほど力となっていく。かつては五衰の訪れを畏れていたが、このような恩恵・・があるのならばもっと早くに望むべきであったわ!』


 ぺしゃんこになっていたプルーテスの体が膨らみ、再び人型を成した。

 全身が垢の塊となった冥王は岩盤に押し潰された程度では然してダメージを受けてはいないように見受けられる。

 否、ダメージこそあるが痛手を受ければ受けるほど力が増す厄介な怪物へと成り果ててしまったようだ。


『力が漲りすぎて有り余っているぞ! 素晴らしきかな、滅びの力!』


 プルーテスの体のあちこちが弾けて垢が飛び散っていく。

 すると散った垢が膨らんで人型へと変じていった。


「おいおい、分裂してるぞ。あれが神の成れの果てかよ」


「云ってる場合ではありませんわ。対策が無い今、おシンさんのおっしゃる通り、ここは撤退しましょう」


「だな、逃げるぞ」


 いずれは滅びるであろうが今の所は暴走が収まる気配は無い。

 外への道を塞がれている以上、彼らはおシンの導きにより奥へと避難するのであった。

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