第玖拾参章 怒れる冥王の事情・前編

「云うに事欠いて先生を巻き込むたァ穏やかじゃねェなァ」


 月弥の言葉にアンネリーゼは剣呑な空気を醸し出す。

 しかし月弥は鼻で笑うのみだ。


「一々噛み付くない。ゲルダには色々と"貸し”があってな。これくらいしても罰は当たらねェンだよ。なァ?」


「そうであるな。ワシが多くの武術家や治療術師を育ててきたのは皆の知っての通りだと思う。ただソレには弟子からの束脩(そくしゅう:入門時、師に贈る礼金)や指南料だけでは先立つ物が足りなくてのゥ。さりとて星神教の世話になるのは後々面倒な事になるのは分かりきっておったでな。三池家から援助を受けておったのよ。その都度、慈母豊穣会の信徒に剣の手解てほどきをつけてやったり、時には軍師となって知恵を貸してやったりしてな。大神殿で人質交換を持ち掛けられた時も月弥の目を見て察したものよ。こりゃ、何かを手伝えと云うておるとな」


 ゲルダの教育は厳しく、脱落する者も少なくなかったが、無事に印可を受けて巣立っていった者達は例外なく一廉ひとかどの人物となったものだ。

 しなしながら、やはり駆け出しの頃は貧しく、師に払える礼金も滞りがちであったという。

 一人前となった者の中には指南料以上の返礼をした者もいたが清貧を貫いて世の為、人の為に尽くしていった者も数多くいたものだ。

 これはゲルダの教育の賜物であると云えるし何よりゲルダ自身が弟子からの礼金を遠慮している事もあった。

 ゲルダが時折冒険者となるのは旅心に従っての事であるのは嘘ではないものの、やはり弟子を育成する為の資金繰りである事も否めない事実である。


「ちょっと人手が足りなくて困ってる事があってな。バイト代は弾むからちとけちゃァくれねェか」


 そこでゲルダの懐具合を知る月弥は助っ人を頼むていでゲルダの援助をしてきたのだという。

 ゲルダも月弥の気遣いを理解出来ぬような莫迦ではない。

 その申し出を有り難く受け取って月弥の仕事を手伝っていた経緯があった。

 月弥、或いは慈母豊穣会の手伝いをして謝礼を貰う。

 その関係に後腐れは無いはずであったが、その流れで師の縁を頼って弟子の仕事も周旋して貰うようになっていった事でゲルダも"借り”を感じるようになったのは無理からぬ話である。

 月弥とてそれでゲルダに何かを云い付けるような男ではないが、人の機微に聡い月弥はゲルダの心に蟠りがあると感じ取り、おシンとの裏稼業・・・を手伝って貰うようになっていったのだそうな。


「あちらを立てればこちらが立たぬ。こちらを立てればあちらが立たぬ。立たぬ双方を立たせるのがやつがれの生業なりわいでさ」


 今回、おシンはウルリーケの聖都への復讐と月弥の星神教・教皇キルフェの救助という二つの依頼を矛盾させる事無く実行すべく、グレゴールの策謀でキルフェが転生武芸者にされた事を逆に利用したという。

 星神教もウルリーケの復讐対象であり、その教皇であるキルフェも例外ではなかったが、転生武芸者となり人としての尊厳が踏み躙られた事で今後のキルフェの人生は惨めなものになると彼女に囁いたのだ。

 初めこそキルフェの死まで望んでいたウルリーケであったが、慈母豊穣会・教皇ミーケに泣いて死を懇願している映像を見せ、"死を望んでいる者に死を与える事こそ慈悲となるが如何に”と確認を取ったところ考えを改めさせる事に成功する。

 勿論、ウルリーケもおシンに乗せられている事に気付けないような莫迦ではなかったが、僅かな報酬・・・・・で最大限の効果を生み出して聖都をここまで貶めてくれたおシンに報いる心となったのだ。

 こうしてウルリーケを裏切る事なくキルフェを救ってみせた小悪党ならではの手腕に聖女達は唸らざるを得なかった。


 ところが――おシンの背後でが凝縮して渦を成した。


「ところが、折角、助けたキルフェ様をどこぞの神サマが攫っちまったンでさ」


 黒い渦からまず現れたのは地獄の亡者さながらに無惨なまでに焼け爛れた一糸纏わぬ子供であった。


「キーちゃん!」


 一目見てキルフェだと気付いた月弥が駆け寄ろうとするが次の瞬間、見えない衝撃を受けて弾き飛ばされてしまう。

 猫のように身軽に着地した月弥であるが殴られたと思しき右頬は黒く変色し、さながら陶器のようにヒビ割れて皮膚が剥がれ落ちてしまう。

 しかも傷からは臭気を伴う瘴気が黒煙の如く立ち上っているではないか。


『無礼者。神の前である』


「テメェ…」


 皮膚どころか肉まで腐り落ちて骨と歯が剥き出しになっても怯まず、キルフェに続いて渦から現れた人物、否、神を睨みつける。

 少女、いや、童女と呼んでも差し支えない程に小柄で愛くるしいゴシック調の黒いドレスを纏った神は見た目とは裏腹に鋭く冷たい光をたたえる目で一同を見据えたものだ。


「あ、貴方様が何故ここに?」


 ヴァレンティーヌが愕然として漆黒の神に訊ねる。

 驚愕しているのは彼女だけではない。

 アンネリーゼ達、聖女の誰もが顔を強張らせている。

 ゲルダもまた表情を固くしているが、驚いているというより不快なものを見たといった方が正しいのかも知れない。


『我こそは冥王プルーテスである。控えよ』


 紫がかった黒髪を腰まで伸ばした童女は厳かに名乗った。

 神にして冥府の司法官の言葉に聖女達やローデリヒ皇子、ローゼマリーも逆らう事が出来ずに膝を地につけてしまう。


『控えよ、と申し付けたはずだが? ひざまずくのだ』


 しかしゲルダと月弥、そしておシンの三人だけは軽蔑を眼差しを向けるばかりだ。

 本来ならば冥府から動く事のない冥王がここ・・にいる理由は即ちエサ・・に喰い付いた証拠である。

 泰然と流す事が出来なかった以上、プルーテスの心底が浅いものであると彼らが認識してしまったが為に崇拝する心が失せたのだ。


「随分と小さくなったもんだな? 前に会った時は威厳のある大人の姿だったと記憶してるが、そのザマを見るに俺達の作戦は成功したって事だよな」


 ゲルダの治療を受けながら幼い教皇が傲然と見据える。

 神に呪われた傷は治療が不可能であるものの、ゲルダならば話は別だ。

 『水の都』にて魔王の瘴気を長年浄化し続けてきたゲルダは呪いの解除の腕も折り紙付きであり、たとえ神の呪いであろうと問題無く治療する事が出来た。

 勿論、彼らの作戦が効を奏して冥王を弱体化・・・・・・している事も解呪を可能としている理由の一つでもある。


『貴様! 神を愚弄するか! 許さぬぞ!』


 力を削がれてはいるものの神である事に変わりはなく、その怒号に聖女達は本能的に恐怖して竦み上がってしまう。

 だが冥王弱体の仕掛け・・・を施した張本人であるゲルダらは一向におじける気配を見せない。


『約定に従ってキルフェを連れて来たのだ。早く我に施した呪いを解け!』


「呪い? アンタ達、神を呪ったのか? 先生も無茶をする御人だが出鱈目が過ぎるンじゃ御座いやせんか?」


 冥王が弱体化している事実を認識した途端にプルーテスからの威圧が激減したアンネリーゼ達は一息をついた。

 聖女のみならず何事もなく立ち上がる皇子とローゼマリーに冥王プルーテスが歯噛みをして睨みつけたが、最早効果は無いに等しい。


『お、おのれ……神たる我がこのような屈辱を……』


 威厳すら傷つけられた冥王の目尻には涙の粒が浮かぶ始末だ。

 しかし聖女達に目にはプルーテスに対する憐憫は見て取れない。

 また神を呪ったゲルダを非難する気配も無かった。

 ゲルダが冥王を呪ったのなら、そうするだけの理由があるはずであるとの信頼が彼女達にあったからである。


「黙って聞いておれば呪いだ、呪いだと人聞きの悪い事を云うでないわ。ワシらはある事実・・・・を教えただけじゃ。それが人々に浸透されていくごとに勝手に弱っていっただけの話じゃよ。そうよな? 準惑星殿?」


『準惑星と呼ぶな! その認識を慈母豊穣会で広められただけでこの有り様だというのに聖女にまで知らしめおって……』


「どういう事なんだ、兄弟? 凄艶だった冥王がこんなちんまり・・・・しちまった理由がその準惑星? って事なのかい?」


 今の今までこの童女を冥王と認識していたが、思い出してみればプルーテスは妖艶とも呼べるまでの色香を放つ美女であったのだ。

 しかし童女の姿が当たり前と思っていたという事は示す意味はたった一つだ。

 そこまで冥王の力が失われていたという事に他ならない。


「船長、冥王もまたグレゴールことローゼマリーに唆された憐れな駒だったという事よ。早くに生まれたがゆえに太陽から離れてしまい、役職を決める会合に出遅れて冥府の裁判官とされたのは神話の通りじゃ。他の兄弟達・・・・・が天界で華やかな仕事をしているのに比べて自分は地獄で亡者を裁く毎日よ」


 天国行きの判決を受けた魂達が天へと昇るのを見送るたびにプルーテスの心は暗澹とした気持ちがおりのように沈殿していったものだ。

 年に一度の神々の会合に出席すれば冥府の瘴気を身に纏う陰鬱な姿から神々はおろか天使達すらも顔をしかめたのである。

 数億年もこのような事が続けば天界を羨む心は妬みとなり怨みへと変わっていくのは当然の成り行きと云えよう。

 そんなある日、裁判の場に引き摺られてきた亡者は顔から肉を削がれた無惨な姿をしていたではないか。

 彼らはメッセンジャーであると云い、有ろう事か星神教の教皇キルフェが輪廻転生の理を無視して転生武芸者となっていると伝えてきた。

 転生武芸者はキルフェだけではない。未来ある少女を犠牲にして転生した武芸者は数多く存在しており、精神も人間であった頃より凶悪なものとなって若い娘を攫っては縦割りに斬り裂いて生き肝を喰らっているという。

 魂の功罪を見て輪廻の道を示す冥王がないがしろにされている事実にプルーテスは激怒したが、神の身で地上においそれと顕現する訳にはいかぬ。

 そんな冥王にメッセンジャーはこうも続けた。


 ヴァイアーシュトラス公爵がカイゼントーヤ王国と聖都スチューデリアの間で戦争を起こそうと画策している、と。


 もし戦争が勃発してしまえば飢饉で国力が疲弊しているスチューデリアは滅亡する可能性があり、そうなれば星神教の存亡にも関わる。

 世界中に広まっている星神教そのものが滅びる事はないであろうが、星神教の総本山である聖都が滅びれば求心力を失う事は必然であり、弱体化した星神教を長年の敵である慈母豊穣会が見逃すとは思えなかった。

 そうなったら信徒の信仰心により力を得ている我ら神々もどうなるか知れたものではないではないか。

 人々から忘れ去られてしまえば最悪の場合、存在ごと消滅してしまうだろう。

 表に出さずとも内心では愕然とし恐怖さえしていた。

 そこへ畳み掛けるようにメッセンジャーは悪魔の誘惑を囁く。


 まずは泣き所となっているキルフェを獲得せよ、と。


 教皇が転生武芸者なる怪物と化した事が広まればまず致命傷はさけられぬ。

 ならば聖女達に戦争の阻止を指示し、自分はキルフェを冥府にて匿う。

 星神教の危機を救ったとなれば神々からの賞賛は確実であろう。

 もしやすれば冥府から掬い上げられて天界での生活を許される可能性もある。

 否、貴方様ほどの慈悲深い神が冥府にいて良い訳がない。

 この功績をもって天界へと昇られよ。


 憧れの天界に住む事が出来る。

 この甘美な誘惑は数億年という途方も無い時間を鬱屈させてきた冥王の心を難なく掴み、離す事はなかった。

 公爵の言葉を一言一句違える事無く伝えきったメッセンジャー達の魂は数億年ぶりに、否、生まれて初めて晴れやかな気分となった冥王により最大級の幸福を付与されて人間界への転生を許されたのであった。


「そのメッセンジャーが冥府に辿り着いた時はまだキルフェは転生するかしないかって時期だろう? アンタにはキルフェが転生するって確信があったのか?」


「う、うむ、天魔大僧正殿の星見ではキルフェの転生は確実であったそうだ。時期もメッセンジャーとした者達が冥府の河を渡って冥王の間に引き出されるであろうタイミングと合わせていたという。畏るべきは天魔宗、天魔大僧正殿よ」


「お・そ・る・べ・き・はじゃねェよ、バータレ! まんまと天魔宗如きの策に踊らされやがって! 自分の腑甲斐なさを棚に上げてンじゃねェ!!」


「きゅう?!」


 ローゼマリーの言葉に腹を立てた月弥の裸絞めにより落とされた。

 しかも背中を膝で押しているので効果も絶大だ。


『よ、良いのか? その娘は身籠もっているのであろう?』


「構うか。野菜や果物だって過酷な環境で育てる事で美味くなる種類もあるンだ。きっと丈夫な子供が生まれるだろうよ」


『そういう問題か?』


 怒れる冥王すら目を点にさせる月弥こそ恐ろしいと思う一同であった。

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