第㯃拾伍章 戦争を止めろ・慈母豊穣会・其の壱
「知らないは通らねぇってのは分かってるよな?」
「う、うむ、しかし
“火”と“生命”を司る『不死鳥』の聖女ベアトリクスはカイゼントーヤ王国国王と謁見していた。
流石に普段の水着姿ではなく謁見に相応しい礼装で臨んでいる。
しかもパーソナルカラーである赤を避けて白を基調としているところにベアトリクスの本気が窺えた。
ただ、いくら聖女といえども一国の王との面談にはアポイントと手続きが必要なのであるが、ベアトリクスは
玉座に座るカイゼントーヤ王は赤銅色に灼けた肌に筋骨逞しい偉丈夫である。
立派な口髭を蓄えた精悍な顔には汗が浮かんでいた。
赤道直下の常夏の国という事もあるが、その汗のほとんどは冷や汗であり、表情も国王とは思えぬ程に冴えない。
「そこが分からねぇ。確かにヴァイアーシュトラス公爵はアンタの正室の兄貴なんだろう。だが他国の公爵だぞ。リスクを冒してまで運河に艦隊を並べてやる義理は無いと思うんだがなぁ?」
仮にヴァイアーシュトラス公爵に弱みを握られていたとしても同盟国を脅かすように艦隊を差し向ける道理は無いであろう。
最悪、隠居してヴァイアーシュトラス家を遠ざける事もできたはずだ。
嫡男は既に成人しているし人格面にも問題は無い。
文武に優れた人物であり、矛を振るえば一度に三人の敵を薙ぎ払う怪力も然る事ながら政治にも明るく、領民にも慕われているし元老院議員の大半も支持していると聞く。
「聖女殿、余が退いて終わる話ならとっくに隠居しておる。しかし今、隠居する訳にもいかぬ事情もあるのだ。その上」
「その上?」
「今、カイゼントーヤ王国は慈母豊穣会と巨大な商談の真っ最中なのだ。下手に義兄上を切って彼らの機嫌を損ねる訳にはいかぬのだよ」
「商談て……下手を打つと云えば、それこそ聖都スチューデリアと戦争になりかねねぇ状況だってのに善くそんな悠長な事を云ってられるな、おい」
ベアトリクスは呆れながら頬を掻いた。
意外にもベアトリクスは怒鳴りつけるようなマネはしない。
“火”を司り、海賊上がりの経歴も相俟って短気のような印象を受けるが本人は至って穏やかな気性の持ち主である。
両性具有のベアトリクスは世界各国に現地妻や現地夫がいる上に、生ませた子供、自らが生んだ子供は合わせて三十を超えるほどの好色であるし、海上娼館を拠点とし、日々、荒くれ者の海賊を相手にしている。
しかし、大いなる海での生活は毎日のように人間の小ささを再認識させ、健気な娼婦達を見ていると守ってやらねばという使命感も再確認させられては短慮を起こす訳にもいかないのだろう。
「いや、危機感はある。現にスエズンに派遣した艦隊には内密に一揆勢に国境を越えさせるな、と厳命しておるし、国境警備隊にも巡回を強化させている」
仮に一揆勢が悪事を働いたとしても生かして捕らえるよう命じているという。
少なくともカイゼントーヤ王に戦争の意思が無いという事だけは分かった。
この機に乗じて聖都に攻め入って領地を切り取ってやろうなんて考えていないと知れただけでも僥倖である。
「そういえばローデリヒ皇子からの宣戦布告は出されたのか?」
「各国に書簡は届いたらしいがな。聖帝本人ならまだしもローデリヒ皇子によるものだ。本気にした国はまず無いであろうよ。しかも書簡を携えてきたのは下級貴族の三男、四男のような使者として値打ちの無い者ばかりだったと聞く。面会すら許されずに門前払いを喰らったそうだ。書簡を受け取った
「何だ? “太陽神の名の元に我が声に応えよ。褒賞は思いのままぞ”とでも書かれていたのか?」
「
思わずカイゼントーヤ訛りが出てしまったが何とか取り繕う。
それだけで、公爵との付き合いは疲れるのだろうと同情した。
「思うに各国を呆れさせてスチューデリアを孤立させようという意味もあったのかも知れぬな」
「流石に真に受けて兵を出すようなとんだ
「よほどの間抜けでない限りはあり得ぬであろう。それが分からぬ義兄上ではなかろうに……いや、本当に分からぬのかも知れんな」
カイゼントーヤ王は心当たりがあるのか、そんな事を口走る。
「どういうこったい?」
「考えてみれば、おかしな点が多すぎてな。母君の仇を討ちたい気持ちは分かる。聖帝を聖都ごと滅ぼしてやりたいと怨むのも分からなくもない。だが、いくらなんでも罪の無い者を苦しめて良い道理は無いではないか。勿論、余も幾度か諫言はしている。目的の為に無辜の民を犠牲するなど人倫に
ヴァイアーシュトラス公爵の怒りは当然の事であろう。
だが生者、死者を問わずに怨嗟の声を聞いているというのに全く心に響いていないというのも異常だとカイゼントーヤ王は云う。
それにはベアトリクスも同意である。
「云われてみれば公爵の遣り口には容赦というものが全然ないな。怨みに我を忘れていると云えなくもないが、それにしたって躊躇いというものが全く見えねぇ。ここ十年の飢饉で犠牲になったのは子供も含まれている。勿論、赤ん坊だって、いや、赤ん坊だからこそ犠牲は少なくない。栄養不足で母親から乳が出ないんだからな」
母乳の代わりに小麦粉を溶いた水を飲ませる親もいたが当然栄養が足りるはずもなく、為す術も無く我が子が死んでいくのを見守る事しか出来なかった親の無念を思うと遣る瀬無くなってくる。
だがヴァイアーシュトラス公爵はこのように壮絶な光景を何度も目にしていながら薄く嗤っていたのだという。
これはもう聖都憎しの怨念だけで動いているとは思えない。
しかも公爵家は代々地母神の信徒であり、特にグレゴールは教皇ミーケから目をかけられている愛弟子でもあるのだ。
その慈母豊穣会の教えを受けた男が転生武芸者という人ならざる者に身をやつしたとはいえ、子供の命を平然と奪う怪物に成り果てるであろうか。
しかもグレゴールは聖都の中にあって慈母豊穣会の教えに殉ずる敬虔な信徒を守護する為にスチューデリア支部の枢機卿に任命されている。
これは公爵家の人間だからとか、三池流の高弟だからといった理由ではない。
教皇ミーケに
事実、聖都に隠れ潜む多くの信徒がグレゴールによって救われている。
だからこそ二人はその点が引っ掛かって仕方が無いのだ。
「おい、アンタは慈母豊穣会と大きな商談があると云っていたな?」
「うむ、我がカイゼントーヤ王国は貿易で莫大な財を為したが海に面している地域が広くてな。塩害で作物が育ちにくく、食糧も貿易に頼らざるを得ぬのだ。だが近年では慈母豊穣会の指導の元、塩害に強い品種の育成に力を入れておる最中なのだよ。それに元々彼らからは大量の食糧を輸入していたからな。これからも質の良い野菜を安く仕入れる為にもマメな交渉が必要なのだ」
それが何か――カイゼントーヤ王は意図が読めず聖女に問う。
ベアトリクスはニンマリと笑って答えたものだ。
「何、慈母豊穣会なら公爵の残忍な行動の裏にある事情を知っているかと思ってな。ちょっと力を貸して欲しい、そういう話さね」
「そなた、正気か?」
星神教に認定されている聖女が慈母豊穣会に乗り込もうとしている。
カイゼントーヤ王が呆気に取られるのも当然であった。
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