第㯃拾肆章 戦争を止めろ・聖都軍・後編
『とある墓守の記憶(古今東西の怪談を集めた短編集の一節)』より抜粋。
この街の墓守がその子供を見かけたのはいつの頃からだろう。
ぼさぼさの長い髪、垢染みた顔、背丈から判断すると四、五歳か。
子供が誰の子か、どこに住んでいるのか、誰も知らない。知ろうともしない。
時折、荷物を背負って街にやってきては、街の人間に物々交換を持ちかけていた。
それは木の実だったり、川魚であったり、時には獣の肉の時もあった。
このような小さな子供がどうやってそれらを用意しているのかは分からない。
初めは街の人達も子供を気味悪がって追い払っていたが、物好きはいるもので、街の墓守が試しにお菓子と川魚を交換した。
さて、交換したものの食べるかどうか悩んでいると、なんと墓守の女房が躊躇いなく川魚を焼いて食べてしまったではないか。
どこから見ても取れたて新鮮の川魚だという女房の言葉を信じて食べてみると、確かに香ばしく焼かれた魚は大変美味しく、気付けば墓守は骨や頭、挙げ句には
明くる日、墓守が街を散策していると、悪童達が何かを囲んでいるのが見えた。
さてはまた野良犬か何かを苛めているのか、と囲みの中を覗いて驚いた。
あの子供が悪童達に四方八方から石をぶつけられて血を流していたのだ。
足下には子供が愛用している籠があり、木の実や魚が地面に散乱していた。
「お前、どこから木の実を盗んだんだ? 素直に白状したら石を投げるのをやめてやるぞ」
悪童達の問いに子供は何も答えない。元々殆ど口を利かない子ではあった。
「おい! 何とか云えよ、この泥棒野郎!」
悪童のリーダー格が木剣を振り上げたのを見て流石に墓守は慌てて悪童を追い払った。
「大丈夫か? 酷いことをするものじゃ」
墓守は子供を見てぎょっとした。
子供の割られた眉間がもう既に塞がっていたのだ。
「大丈夫」
一言呟いて子供は籠を背負い直すと、まだ無事な木の実を拾い集める。
「のう、坊主はこの木の実をどこで拾ったんじゃ?」
すると子供は手を止めて墓守を見上げた。
「ボクは泥棒じゃない」
「そ、そういう意味ではないのじゃ! 小さい坊主にこれだけの数を集めるのは大変ではないかと思うてのう」
子供の三白眼に気圧されながらも墓守はなんとか弁明した。
「オジサンとオニイチャンが穫ってくれる。ボクはまだ高い木には登れないから」
墓守は少なからず驚いた。
まさかこの子供に仲間がいるとは思わなかったのだ。
それにしては身形や体裁には頓着していないように見える。
「お魚はオバサンが獲ってくれる。お肉は知らない」
「そうかそうか。坊主はそれを預かって街に売りに来ておったのじゃな」
どう見ても籠は大人でも背負うのに苦労しそうな大きさだったのだが、墓守は気にしないことにした。
「よし、儂からお前さんの持ってくる物はちゃんとした物だと街の者に云っておく。だから、お前さんも今度来る時はもう少し綺麗な恰好をしてきなさい。仮にも食べ物を扱っておるのじゃからのう」
子供は一瞬だけ目を見開くが、ペコリと頭を下げて墓守の前から立ち去った。
墓守の手には、美味しそうに熟れた柿の実があった。
子供がお礼だと置いていったのだ。
墓守は空を見上げる。ギラギラとした
それから三日経ち、街の一角に大きな人だかりができているのを見た。
興味を覚えた墓守が覗いてみて驚くこととなる。
綺麗な娘がそこにいた。
陽光を反射する銀色の髪はまるで川の水面を連想させ、夏の日差しを受けて尚白い肌は白雪のように繊細だった。
そして何より驚いたのは、その娘が背負っているのは、あの子供が愛用している大きな籠だったのだ。
子供は困惑した面持ちで首を傾げていた。
籠の中には木の実も川魚も無かったが、代わりに金貨や銀貨が沢山入っている。
「お、おい、まさかお嬢ちゃんはあの時の坊主か?」
躊躇いがちに墓守が声をかけると、子供は駆け寄ってきて墓守の脚に抱きついてきた。
「ど、どうした?」
「お爺さんの云う通り体を洗って綺麗な服を着た」
「うむ?」
「お爺さんの云う通りみんな交換してくれた。でも…」
「どうしたな?」
墓守は子供の頭を撫でながら先を促す。
周囲からの嫉妬混じりの目線に若干たじろぎながらではあったが……
「みんな食べ物くれない。キラキラ綺麗だけど食べられない」
「そうかそうか。これはお金というてな…」
墓守はお金のことを子供になるべく分かりやすく説明してやると、そのお金で何が買えるか教え、必要だという食料品を用意する。
「これで良かろう。肉がやや多すぎるような気もしないでもないが、大所帯なんじゃろ。これからは物々交換ではなく、木の実を売って、そのお金で欲しい物を買うと良い」
子供は墓守に大きく頭を下げると、風のように街から去っていった。
気付くと墓守は街の人間に取り囲まれていた。
「ご老体! あの少女はどこの子だ? 是非とも吾輩のものにしたい!」
「爺さん! アンタの孫かい? 将来が楽しみだねぃ!」
墓守は貴族や普段子供を苛めていた悪童達も混じった街の衆から這々の体で逃げ出した。
やがて街の人間に受け入れられるようになった子供は毎日街に現われるようになった。
幼いながらも誰もが目も見張る美貌は時には素行の宜しくない連中の恰好の的となったが、意外にも身のこなしは素早く、この間のように囲まれでもしない限りは巧く逃げおおせていた。
そこで噂になるのが、やはり子供がどこに住んでいるのかであった。
ある時、一人の悪童が子供を尾行したことがあったが、行けども行けども子供の住処に辿り着くことができず、街から五サトール(約二十キロメートル)のところで力尽きてしまい、それ以上の尾行はできなかったという。
またしばらくして悪童に再び囲まれ石を投げつけられる場面に遭遇した墓守は、子供を助けようとして違う意味で驚かされた。
なんと子供は棒きれを両手に持って襲いかかる石礫の悉くを弾き返していたのだ。
これには悪童達も泡を食って逃げ出した。
「坊主。いつの間にそのような芸当を?」
「
子供の説明は拙く、とりあえず、ししょーとやらが剣の達人であることだけは分かった。
また違う日には、物が早く売れて暇なのか子供がステップを踏んでいるのを見かけた。
まるで社交場のダンスのように華麗でまったくブレのないステップに墓守は日が暮れるまで見とれたものだった。
気付けば闇の中に自分を含めた大勢の男達が呆然と立ち尽くしていたが、子供の姿は既に無かった。
街中総出で鼠の駆除を行った際には、その子供は誰よりも多く鼠を捕まえた。
墓守が、コツのようなものがあるのか、と訊くと、オネエチャンから教わった。
目で見るんじゃなくて、熱を感じるの、と理解しがたい答えが返ってきた。
そんなある日、武者修行をしているという触れ込みで街に立ち寄ったことがある大男が血相を変えて街に逃げ帰ってきた。
「先生よ。アンタ、確かこの街から十サトール(約四十キロメートル)離れた山に籠もるって三日前に出て行かなかったか? 随分と早いご帰還だな?」
街の人間が笑いながら出迎えるが、男は怒るでも弁解するでもなく、ただブルブルと震えるだけだった。
気になった墓守は
初めは何も云いたがらない男だったが、与えられた温かいミルクと墓守の優しい言葉に絆されて少しずつ事情を話し始めた。
「拙者が修行に出掛けた山は牙狼月光剣の創始者・ケグルネク様の霊廟があってな。まずは山を騒がす非礼を詫びに霊廟を詣でることにしたのだが、そこで見てしまったのだ!」
何でもこの街に木の実を持ってくるあの子供が一人の老人を相手に棒きれを振り回していたらしい。
「子供の方はまだ拙かったが将来は拙者では到底及ばぬほどの剣客になるであろう資質を感じたものよ。だが、問題はあの子に剣術を手解きしていた老人だ。二人が稽古を終えると老人はあろうことかケグルネク様の霊廟に入っていくではないか」
偉大なる先人が眠る霊廟を
とうとう最奥まで来てしまった男は絶叫をあげた。
「こ、ここここここ子供、あ、あの子供に稽古をつけていた老人は霊廟に祀られているケグルネク様の肖像と瓜二つだったのだ!」
その時は男の見間違いとしてお開きとなった。
次の日、街に沢山の川魚を持ってきた子供に墓守は声をかける。
「坊主。お前さん、ここから北にある山に住んでおるのかね?」
子供が素直に頷くのを確認した墓守は師の名前を訊いてみる。
「ケグルネク」
ぽつりと答えた子供に墓守は背中に氷塊を突っ込まれたような感覚に襲われた。
更に月日は流れ、山の麓にある集落に嫁いだ娘が子供を産んだという報せを受けた墓守は出産祝いを持って娘のもとに向かった。
何事もなく娘の家に着いた墓守は歓待を受けた。
次の日、その集落式のお祝いに必要な猪の胆を穫るため、猪狩りに同行した墓守はいつしか仲間とはぐれてしまい、仕方なく山で夜明かしすることとなった。
飲み水を確保するため、夕方に見つけた泉に水を汲みに行った墓守は見た。
月明かりに照らされながらあの子供が軽やかにステップを踏んでいた。
子供は一人ではなかった。黒い燕尾服にシルクハットを被った紳士がダンスの指導をしているのだ。
「な、何故、こんな山の中に…」
墓守はあり得ない光景に恐怖を覚えていた。
「今日ハココマデニシテオキマショウ」
「ありがとう」
「イエイエ、貴方ハ野晒シニナッテイタ私ヲ手篤ク埋葬シテクレマシタカラネ。コノクライハオ安イ御用デスヨ」
燕尾服の男が振り返る。
生者ではなかった。シルクハットを被った骸骨が陽気に笑う様に墓守はとうとう気を失ってしまった。
気が付くと墓守はベッドの上の人であり、娘に顔を覗き込まれていた。
「お父さん。良かった。もう歳を考えずに狩りに行くからよ!」
聞けば墓守は山の入り口で倒れていたという。
「お父さんの服は泥だらけだし獣の毛もついてたから、熊か何かに襲われたのかと思ったわ」
墓守はハッと思い出す。
気を失った後、朧気ながらあの子供の声を聞いたような気がした。
「大丈夫。麓まで送っていく」
墓守は居ても立っていられず、止める娘を振り切って山へと向かう。
「化け物…あの子はやはり化け物だったのか!」
無数の山猿に囲まれ、愛用の大きな籠に彼らが穫ってきたであろう木の実を入れている子供に墓守の恐怖は頂点に達した。
転がるように山を下りた墓守は馬を借りると、一目散に街を目指した。
「化け物だ! あの子は山の獣や死霊を操る妖魔だったのだ!」
その噂は街中に広がり、子供を捕まえようという流れとなった。
「近々、月の
誰が云いだしたのか、子供に身寄りがないこともあって、そんな提案をした。
墓守含めて誰も反対しなかったのでその案はあっさりと通ってしまう。
そしてすぐさま山狩りは敢行されたのであった。
山の獣達は子供の危機を察知し、大挙して押しかけてきた人間に襲いかかるが、街の人間が雇った傭兵達の前に為す術もなく逆に狩られていく。
無論、獣達は神に振る舞う御馳走となるのだ。
何度か山狩りが繰り返され、ついに子供が捕らえられたという報告があがった。
縛られている子供は墓守が初めて会ったときのように垢にまみれた姿だった。
街中の人々から罵声を浴びせられている子供の姿に墓守は、自分はもしかしたら取り返しの付かないことをしてしまったのではないか、という思いに駆られた。
「ぼ…坊主?」
恐る恐る声をかけると、子供は墓守をじっと見据える、あの三白眼で。
「みんな死んじゃった…」
「坊主?」
「木の実を穫ってくれたお猿のオジサンも、お魚をくれた熊のオバサンも、鼠の捕まえ方を教えてくれた蛇のオネエチャンも…お爺さん…ボク達、何か悪いことした?」
墓守は何も云えない。
云えようはずがなかった。
「許さない…」
「坊主…」
「ボク達を
その後、子供は連行され生け贄として月の化身と崇められている大神の胃の腑へと落ちていった。
三ヶ月後。
墓守夫婦は街の人間から隔離されていた。
あの生け贄の儀式の後、自分達の崇める神こそが化け物であると知れ、信仰心を失った魔神が自ら命を絶ってしまう。
あの日、子供から呪いの言葉を直接浴びせられた墓守は、魔神をも滅ぼした子供の祟りを恐れた街の人間から疎んじられるようになったのだ。
絶望と失意の中にいた墓守夫婦の住む小屋の戸を叩く音がする。
墓守が投げやりに許しを出すと、戸が開き思いも掛けない人物が入ってきた。
魔神に仕える神官達が身に纏っていた法衣を着たその人物は綺麗な銀髪を三つ編みにして左肩から前に垂らしている。
墓守は白皙の美貌に見覚えがあった。
「ま、まさか…お前さん、あの坊主か!」
美しい大人の姿へと成長していたが、正しく街に木の実や川魚を売りに来ていた子供と同一人物であった。
「お前さん…生きておったのか?」
子供は首を横に振ると墓守の前に立つ。
「ボクは神様に食べられた。けど、気付いたらこの姿で誰も居ない神殿の中にいた」
墓守は動けない。
だが、何故か恐怖の感情だけは湧いてこない。
「ボクは云ったよね? お爺さんは許さないって」
「ああ、云ったな」
墓守はこのまま取り殺されても構わないと思っている。
村八分にされた現状が辛いこともあるが、何より子供への罪悪感が強かった。
「お爺さんのせいでオジサンもオバサンも死んじゃった…だから…」
子供は指で下の瞼を引っ張り舌を出した。
「お爺さんなんか大っ嫌い! アッカンベーだ!」
初めて見せた子供の幼い激情には墓守も呆気に取られた。
「嫌い嫌い大っ嫌いだ!」
子供は身を翻すと、戸を開けて風のように小屋から飛び出した。
「ふふ…ふふふふ…なんと無邪気な、それでいて何とも堪える祟りだったな…坊主に嫌われるのがこんなにも辛いものとはなぁ…」
墓守は妻と抱き合いながら静かに泣いた。
「最期に名前すら教えてくれんとはな…」
数日後、墓守の様子を見に来た娘が、先が輪になったロープが二本、梁からぶら下がっているのを見つけた。
ロープの真下は人の糞尿と血で汚れており悪臭が小屋に充満していた。
吐き気を堪えて両親を捜すが見つからず、代わりに遺書と思しき手紙を見つけた。
『儂らを哀れに思うのであれば、死体を坊主の山の麓に埋めておくれ』
遺書の文字は涙が落ちたのか、文字が滲んでいた上に手紙はまだ乾いていなかったそうな。
「おーっほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほっ!」
何故か高笑いをしながら神速の連続突きを繰り出すヴァレンティーヌであったが、大将軍は逆手に持った小刀でその悉くを捌いている。
牙狼月光剣は大剣を太陽、小刀を月に見立てた秘剣であるという。
小刀で防御、牽制を行い、大剣で攻撃する攻防一体の流儀である事までは僅かに残された古い資料によって解明されている。
何故、防御に盾を用いないのかと長年、武芸者の間で謎とされてきたが、実際に戦ってみて嫌という程に思い知らされる事となった。
防御力で云えば盾の方が信頼性はあるのだが動きが大きく制限されてしまう。
しかし小刀で受け流すという技術は隙が少なく、何より小回りが利く上に防御から攻撃へ流れるように移行する事が可能であった。
しかもヴァレンティーヌが高速の連続突きによってスタミナが消耗しているのに対して大将軍の防御は最小限の動きなので余力があった。
「くっ!」
「せいっ」
ヴァレンティーヌの突きに乱れを見た大将軍の大剣が襲いかかる。
間一髪のところであったがバックステップする事でなんとか躱す。
直前までヴァレンティーヌがいた場所を大剣が通り過ぎて地面を斬り裂いた。
大将軍の斬撃の威力はイルゼの薩摩示現流にも劣らないように見える。
いや、膂力も凄まじいが、斬れ味なら三池流の『
「魔力で構築されているとは思えない名刀ですわね」
「大剣『
「それが『無刀将軍』の由来でもあるのですね」
不敗を誇る大将軍は戦場であろうと武器を持たない事から『無刀将軍』とも呼ばれている。
聖都スチューデリアに過ぎたる宝二つありき、大神殿と『無刀将軍』。
このように戯れ歌にもあるように、絢爛な大神殿と並び称される程に大将軍の武威は知れ渡っていた。
「ふふふ、今日は面白い日ですわ」
「面白い?」
いきなり笑い始めたヴァレンティーヌに大将軍が訝しむ。
ヴァレンティーヌは、失礼、と咳払いをして笑い声を止めるも微笑んだままだ。
「ええ、誰も知らない閣下の秘密を今、私だけが独占している。そう思っただけで笑いが込み上げてきましてね。閣下の正体、ティンダロス騎士団の真実、そして今まさに『無刀将軍』の由来を知る事ができましたもの。このような愉快な日はこれまでありませんでしたわ」
「では今日が笑い納めだね。残念ながら今日、知った秘密は誰かと共有する事はできないよ。何故なら君はこれからボクの腹の中に入るのだからね」
大将軍が一瞬で間合いを詰めてきた。
二刀を操る難易度の高い技術もそうであるが餓えた狼のような速い寄り身も牙狼月光剣の極意である。
「速いだけでは私を討てません事よ!」
二刀による波状攻撃を今度はヴァレンティーヌが護拳を使って捌いていく。
この泰然と攻撃を受け止める様はまさに百獣の王を冠する聖女に相応しい貫禄があった。
「けど、いつまでも持ち堪えられるものではないよ」
なんと大将軍はヴァレンティーヌの周りを円で囲うように移動しながら攻撃をし始めたではないか。
「この星を公転する月のように全包囲から攻撃をされては防ぎきれないよ」
「動きながらも攻撃の手を緩む事がないとは、流石は大将軍閣下ですわ」
しかしヴァレンティーヌも回転しながらなんとか攻撃に喰らいつく。
「では緩めてあげるよ」
「えっ?」
大将軍が身の運びと攻撃のスピードを僅かに緩めた為に防御の拍子が崩れてヴァレンティーヌの腕を大刀がかすめた。
スタミナが切れたのではない。明らかに狙って速度を緩めたのだ。
しかも次の瞬間にはヴァレンティーヌの背後に回っていた。
先程までの円運動も速かったが今の動きは倍どころではなかった。
ヴァレンティーヌほどの遣い手が一瞬、大将軍を見失った程である。
隙だらけの背中を大剣が襲う。
「なんの!」
ヴァレンティーヌも
大剣が掠めるが皮膚を浅く裂いただけで致命傷には至っていない。
加えてヴァレンティーヌの筋肉は斬撃のダメージを最小限に留めていたのだ。
ヴァレンティーヌが鎧を再構築しなかった真の理由は人の目が無かった事でも攻撃に全能力を遣う為でもなかった。
鍛え込まれた筋肉と皮膚を呼吸法によって硬質化する事で鎧と化していたからだ。
これも獅子王聖光剣の極意で『
「はっ!」
この呼吸法は身体を鎧にするだけではなく身体能力も向上させており、後ろへ回転しながら跳んで、攻撃直後で隙ができた大将軍目掛けて蹴りを放つ身軽さまでも発揮していた。いわゆるオーバーヘッドキックと呼ばれる技である。
しかし大将軍はまたもスピードを緩めて拍子を外し、ヴァレンティーヌのしなやかな足は予測していた地点を空振りする事となった。
「よもや緩急が自在とは厄介な」
「牙狼月光剣の極意『月齢』、夜毎に姿を変える月のようにスピード、威力、気配までも変える事が出来る。勿論、相手を斬る気迫、剣気もね」
「私の知るどの流儀にも無い発想ですわね」
「誇ると良いよ。熟達者ほど『月齢』に惑わされるものだからね」
「剣を知れば知るほど惑わされる…ならばこうするまでですわ」
ヴァレンティーヌは右手を絞るように引き締めて半身となる。
獅子王聖光剣・奥義『獅子王閃爪剣』の構えだ。
「行きますわよ!」
全身のバネを遣って飛び出す。
同時に捻った腕を回転させながら突き出して威力を上げる。
「策も無く勝てるとでも?」
緩急をつけながら大将軍の体が左右に揺れる。
突進の間の拍子を外して反撃に繋げるつもりなのだ。
「せいっ!!」
ゆらゆら揺れていた大将軍が飛ぶように前に打って出た
突き出された右腕が伸びきる前にサーベルをやり過ごして威力が最も乗るタイミングを潰す策である。
「せりゃあっ!!」
「何?」
初めて大将軍の目が見開かれた。
無表情を保っていた大将軍が驚くワケだ。
なんとヴァレンティーヌは左手で大剣を掴んでいたのである。
「動かない」
「獅子王聖光剣・真奥義『獅子王剣爪閃』! 鎧と化した手で敵の剣を掴み攻撃を封じる秘中の秘ですわ。そして剣士にとって剣は命、武器を封じることは動きを封じる事、相手の心の虚を突く事に極意がありますの!」
勝利を確信したヴェレンティーヌであったが、次の瞬間、彼女の口から予想だにしない言葉が飛び出した。
「ま、参りました」
「虚を突くのは兵法の妙。牙狼月光剣もまた然り」
降参したヴァレンティーヌの喉元には順手に持ち変えられた小刀が突き付けられていたのだった。
「牙狼月光剣・奥義『月食』。我が流儀の極意は大剣にあらず。小刀こそが極意」
大剣を太陽、小刀を月に見立てた剣法であるが、流儀の名が牙狼月光剣とあるように、小刀ことが極意であり技の要であった。
月は単独では輝かず太陽の光を受ける事により夜空でその優しい光を放つ。
だが太陽の光が地球に遮られる事で月が隠されて月食が起こる。
つまり『月食』とは大剣の攻撃に目がいってしまい、小刀が防御、牽制のみという思い込みを持って『月』を隠す事に極意があった。
それこそが牙狼月光剣の奥義『月食』なのである。
「私の負けです。牙狼月光剣、千年以上前に一度淘汰されたとは思えませんわ」
「淘汰されたからこそ秘やかに継承する事ができた。千年の間に牙狼月光剣の詳細な資料は失われ、奥義を看破する手掛かりも残されてはいない。むしろ敗北した敵の文化を抹消する排他的な星神教には感謝しているくらいだよ」
その言葉にヴァレンティーヌは大将軍が戦争回避に消極的な理由を悟る。
「閣下は牙狼月光剣を継承する一族の末裔とおっしゃった。そして聖都を守護するのはレティシア帝との契約であるとも」
「そうだね」
ヴァレンティーヌが何かしらの推論を出した事を察した大将軍は興味が湧いたのか、攻撃の手を止めて続きを促す。
「もしや閣下もまた星神教延いては聖都スチューデリアに怨みをお持ちなのでは? 流儀を滅ぼした星神教を憎み、聖都を滅ぼす事で自由の身になる事を望んでおられるのではありませんか?」
だからヴァイアーシュトラス公爵の行動を見逃していたのではないのかとヴァレンティーヌは推論をだしたのだ。
しかし大将軍は首を横に振って否定した。
「聖都を滅ぼすなら機会はこの二百年でいくらでもあったよ。それなのに今更ユルゲンに呼応しようなんて思わないよ」
公爵をミドルネーム、即ち幼名で呼ぶという事は彼を認めていない証拠である。
大将軍は公爵の聖都滅亡作戦に乗るつもりはないと云い切ったのだ。
「では何故スエズンに軍を派遣して下さらないのです?」
「意味が無いからだよ」
「意味が無いとはどういう意味ですの?」
「言葉の通りだよ。良い? 運河はスチューデリアとカイゼントーヤの国境を兼ねている。それは分かるね?」
「ええ、ですからカイゼントーヤ艦隊が聖都に入らないように牽制をお願いしているのではありませんか」
ヴァレンティーヌは意図が分からず子供のように唇を尖らせる。
それを見て大将軍は上目遣い、否、三白眼になった。
教皇ミーケにも劣らぬ眼光にヴァレンティーヌは思わずたじろいだ。
「逆に云えばスエズンにいる艦隊は一揆勢がカイゼントーヤ王国へ侵入するのを防ぐ牽制になっているんだよ? もし王国に武装した一団を入れようものなら艦隊にいる将校の何人かの首が飛ぶ事案となる。これも分かるね?」
「そうですわね」
カイゼントーヤ軍としてもそのような不祥事は避けたいはずだ。
仮に貴族が農夫に化けるなりして正統な手続きを踏まずにカイゼントーヤ王国に侵入しようとするのなら、それこそ疚しい事をしている証拠である。
ローデリヒ皇子がカイゼントーヤ王国に宣戦布告をするにしても堂々と艦隊を指揮する将と名乗り合うのが戦場の倣いだ。
こそこそ侵入して畑や商家を襲ったとしても、いきなり戦争の火種にはならない。
もしローデリヒ皇子が捕らわれたとしても、まずは戦争を避ける為に水面下で交渉を行うはずだ。
何故なら戦争など勝とうが負けようが国力を大きく損なう最も愚かな政治判断であるからだ。
仮に勝って敗戦国に賠償を命じたとしても、それで失った命は返らないし消費した物資も戻ってこないのである。
もっと云えばカイゼントーヤ王国にはデメリットしかない。
聖都スチューデリアは資源に乏しく、これといった名産があるでもなし。
国家として旨味のある侵略地ではないのだ。
その上、聖都を敵に回すという事は星神教を敵に回すと同義である。
もし星神教にカイゼントーヤ王国が悪と定められ、討伐するよう世界中に発令なんぞされたら、如何に強大な水軍を誇るカイゼントーヤとて只では済まない。
「ユルゲンは聖都を滅ぼせればそれで良いのかも知れないし、カイゼントーヤとどのような密約を交わしたのか知った事じゃないけどね。あの小心者のカイゼントーヤ王に星神教を向こうに回す度胸があるとは思えない」
「そ、それは確かに」
カイゼントーヤ王の正室は公爵の妹であるが、だからといって彼の捨て鉢な作戦に乗る義理はないはずだ。
運河の使用料などの利権も絡んでくるが運河の維持費用も莫迦にならない。
一国で利益を独占できるが裏を返せば一国で大陸を横断する巨大な運河を維持しなければならず、それを思えばスチューデリアと協力、分担した方が利口だ。
「で、では慈母豊穣会はどうなのです? 公爵は慈母豊穣会の枢機卿でもあるのですよ? それが星神教への牽制には」
「ならないよ」
被せるように否定されてしまう。
「慈母豊穣会はヴァイアーシュトラスを破門にしている。教皇ミーケがボクにだけ通達してきたんだ。つまり慈母豊穣会はこの案件と関わりは無いって云ってるんだ」
「では今回の事件は公爵の独り相撲であると?」
「そういう事だね」
あっさりと云う大将軍にヴァレンティーヌが喰ってかかる。
「では、何故早く、その事を。軍を出す必要は無いと。戦争は起こらないと、おっしゃって下さらなかったのですか?」
「一つは意味が無いから。これは本当だ」
「一つは?」
「うん、ユルゲンは完全に捨て鉢だ。だけど決して莫迦ではない。艦隊を出してはいるけどカイゼントーヤ王が乗り気で無い事は察しているはず。もしかすると艦隊の兵達を『
道理である。
もしカイゼントーヤ軍と聖都軍が一度衝突してしまったら、如何なる理由があるにせよ戦争は止まらないだろう。
しかも公爵は蝗害が起こった際に周辺の領主達を吸血鬼に襲わせて操り、餓えた農民から搾取ように命じている。
何を仕出かすか分からない怖さがある以上、下手に軍を動かさない方が良いという判断は評価すべきか。
「まあ、スエズンの近くの町や村に正規軍を分けて駐留させてはいるけどね」
「それならそうと教えて下されば戦う必要など無かったではありませんか」
「うん、だからこそ二つ目の理由になる」
「二つ目の理由とは?」
「君達、聖女の本気と実力を見たかった」
「ヴァイアーシュトラス公爵を止める為ですわね?」
「うん、その通り」
大将軍は敢えてヴァレンティーヌと戦う事で実力と覚悟を試していたのだ。
あまり気持ちの良い話ではないが、国の平穏を守る者として確かめる必要があった事は理解を示すしかあるまい。
「ユルゲンはもう人間じゃない。転生ナンタラになったって事じゃないよ? あの子はボクと同じ存在となってしまっている」
「閣下と同じ存在…ですか?」
「怨念の集合体という意味でね。あの子は政治、宗教を問わず政争に敗れ、散っていった者達の怨念に取り憑かれている。特に政敵になりそうな子供、つまり側室の子供だ。中には生まれる前に母親諸共殺された水子もいるよ」
覚えはないかな――大将軍に問われて恐怖が甦る。
山伏の格好に変えられて殺されたインゴの死に様は彼の視点で追体験している事も相俟って痛みまでも覚えている。
そのインゴを殺したのは多くの赤ん坊の肉を磨り潰して無理矢理巨人の姿にしたかのような醜悪な怪物であった。
あれは水子に取り憑かれたヴァイアーシュトラス公爵であったのか。
そこでローゼマリーから聞いた単語を思い出す。
「七人ミサキ……あの時、公爵に知っているかと訊かれましたが、もう既にご自分の正体について語られていたのですね」
会話に脈絡もなく聞かされた名前であったが公爵はヒントを出していたのだ。
常に七人で行動する怨霊であり、出会った者を取り殺す恐ろしい話だ。
そして新たな犠牲者が仲間となり、その代わりに元いた七人の内の一人が成仏するのだという。
「七人ミサキどころじゃない。政争なんてくだらない理由でこの世に生まれる事すら出来なかった水子の怨念は聖都スチューデリア千二百年の歴史の中でどれだけいると思う? 勿論、帝位継承に敗れて無念の内に死んだ者、咎も無いのに幼くして暗殺された皇子や皇女、いや、帝室に限らない。貴族に豪商、豪農、名家名士、どれだけの人間が拳を握り締めて悶絶しながら死んでいったか分かるかい?」
まさに星の数ほどの怨念が聖都スチューデリアには渦巻いているのだろう。
貧しさ故に餓えて死んだ者もいるだろう。搾取されて首を括った者もいるだろう。
それらの中には無縁仏として葬られた者も少なくない。
「閣下、貴方は公爵の正体をご存知だったのですね?」
「だからあの子はボクと同じだって云ったでしょう? ボクが聖都に災いが降り懸からないよう怨念を取り込んだのなら、ユルゲンは聖都を滅ぼす為に怨念を取り込んだ、いや、怨念に取り憑かれたんだよ」
「それがヴァイアーシュトラス公爵の正体…あの方は聖帝陛下に母君を奪われた怨みで動いていたのではなく、その怨みに付け込まれて怨念の核にされてしまったのですね」
「そう、今のユルゲンは謂わば聖都を蝕む怨念そのものだ。あの子に挑もうとしている君達を試そうと思ったボクの気持ちも分かるでしょう?」
「ええ、十二分に理解出来ましたわ。それで私は、いえ、私達は合格ですか?」
ヴァレンティーヌの問いに大将軍はニコリと笑った。
「うん、今の君達ならユルゲンと
「そ、そこは勝てるとおっしゃるべきではなくて?」
「下手な事を云って油断されても困るからね。ここは厳しく云わせて貰うよ」
大将軍の言葉にヴァレンティーヌは思わず苦笑いを浮かべたものだ。
「報告ではアンネリーゼがローデリヒの確保に成功したってさ。今は一揆勢を止める為にスエズンに向かっているそうだよ」
「そうですか。流石はアンネリーゼさんですわ。では私もスエズンに向かい、ローデリヒ皇子と合流致しますわ」
「うん、ボクは散らばっている聖都軍を纏めてカイゼントーヤ軍や一揆勢の動きを警戒しておくよ」
「ありがとうございます、閣下」
ヴァレンティーヌが下げた頭を上げると、難しい顔をした大将軍と目が合った。
「閣下? 如何なさいました?」
「ただ、気を付けてね? ベアトリクスが白旗を上げてカイゼントーヤ艦隊に降ったって報告があったから」
「何ですって?!」
大将軍の合格を得て聖都軍の協力を約束されたヴァレンティーヌであったが、まだまだ行く手には暗雲が立ち込めているようだ。
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