外伝之弍拾陸 王子殺しにされた令嬢㉕

「ほう、長老殿がヴァレンティーヌを引き取られると」


「うむ、アルフォンス六世、いやさ、敢えてクルトと呼ぼうか。クルトとカンツの成長する様を目の当たりにして若き者達を育てる喜びを思い出してな。聖女こそ引退するがもう少しこの世に留まって若い者を育成してみようと欲が出た。“年寄りの冷や水”と思うか?」


 滅相も、と小さく首を振るゲルダの対面に座るのは妖艶な黒髪の美女だ。

 何を隠そう彼女こそは『狼』の聖女であったミレーヌその人である。

 聖女の資格を神に返して、後は死を待つばかりであったが、若手を再び育成したいという願望を抱いたミレーヌの心を感じ取った神が半世紀の猶予と若さを与えたのだというではないか。

 千年という厖大な時間を滅私の心で世の為、人の為に捧げ、ただの一度も聖女の力を自分の為に用いた事のなかった彼女の人生に報いたのだという。

 星神教において最高神たる太陽神アポスドルファの妻にして夜の世界の守護者・月の女神アルテサクセスが直々にミレーヌの前に降臨して労い、今後は自分の為の人生を送りなさい、と彼女に若さと育成の為に必要な道場及び資金を授けたそうな。


「我が守護神アルテサクセス様に云われて気付いたが、思い返せばわらわはこれまで自分の人生を歩んでこなかった。我から望んだ事ではあるがな。所詮は妾も人間というべきか、気付いた途端に未練が出てきてしまった。故に我が神からの申し出に一も二もなく飛び付いた訳だ。我ながら浅ましい事よ」


「なんの、何が浅ましいものですか。長老殿も今し方云うておられたでしょう。貴方もまた人間でござる。自分の為の人生を生き直して何が悪いと云うのです」


 ゲルダが笑いながら徳利を傾けるとミレーヌも嬉しそうに杯で受けた。

 二人は普段のドレス姿ではなく市井の人々と同じ格好をしている。

 それでも二人の美貌を隠しきれるものではなく周囲の視線を集めてはいた。

 彼女達は今ヨアヒムが養子に入った料理屋での食事会を楽しんでいる。

 事件が終わり、それそれの生活に戻れば再び会う事が難しくなる為にアンネリーゼ発案の元、食事会をしようという話になったのだ。


「場所は焼け落ちた聖サクラコ記念教会の跡地を賜った。そこで桜の手入れをしながら次代を担う若者達を育てて欲しいとの仰せだ。元々聖女櫻子さくらこが植えた桜の近くに星神教が勝手に教会を建てただけのものでな。再建する必要はないとの判断だ」


 千年の時を生きるミレーヌは櫻子という聖女の事も知っていた。

 彼女は悪霊の王を退かせるだけの光の魔力を有していたが、敢えてその力を用いずに死霊達に寄り添う事で彼らの怨念をほぐし、荒御魂あらみたま和魂にぎみたまに変えて救済したという。

 その彼女が自分を称える教会を建てられても感謝こそしても喜ぶ人間では無く、焼け落ちたとしても教会に住む人や周囲の人々の心配こそすれども惜しむようなたちの女性でもなかったのである。

 ならば焼け跡を未来の若者の育成の為に有効活用した方が櫻子も喜ぶであろうと考えが至る程にミレーヌは彼女の事を知っていた。

 

「これは思い切った事をしましたな。だがマリアにとってあの教会は家族との思い出の場所だけではなく忌まわしい事件の記憶でもある。それで良いのかも知れませんな」


「勿論、マリアにも報告してある。今後の聖都スチューデリアを担う若者を育てる道場に生まれ変わるのであれば教会も喜ぶと思います、と云ってくれたぞ。近くに父御ててごと二人の姉、そして既に亡くなっていた母御ははごの墓も立ててな。墓守もしようと云えば喜んでくれたわ」


「ははは、世界最高峰の武道家とその弟子達が守るのですから悪魔も逃げ出しましょう。マリアの家族の安眠は約束されたも同然ですな」


 ゲルダは笑って杯を空けた。

 酒も美味いがヨアヒムは『獅子』の聖女の子とあって光属性の魔法に才覚があったらしく剣こそは弟に後塵を拝したが自らの体を光に変じて一瞬にして思い描いた場所に転移する事が可能であるという。

 内陸故に海の魚が手に入りにくい聖都スチューデリアにあってヨアヒムは転移の魔法を遣う事で故郷フレーンディアから新鮮な魚を仕入れる事ができた。

 加えてゲルダにより食材の細胞を殺さずに凍結する魔法を伝授されているので足の速い魚の保存すら可能であった。その上、魔法を解除すれば一瞬にして解凍される事もあってゲルダは懇切丁寧に凍結魔法を教えたのである。

 御陰でゲルダは久しぶりに料理屋の刺し身を堪能する事が出来たのだ。

 美味い物が食べられるのであれば便利な凍結魔法を編み出し惜しみなく伝授するのであるから不良聖女と呼ばれるのであろう。


「聖女様方、母グレーテの遺したレシピを元に再現した料理を御試し下さい。ゲルダ様はご承知の事と思われますが母はフレーンディアの海産物の中でも牡蛎を好んでおりました」


「善く存じておる。初めて牡蛎を喰わせてやった時はその美味しさの余り一人で十個以上も食いおって夜中に腹を下しておった事まで覚えておるわえ」


「母は意外と食いしん坊でしたからね」


 よもや腹を下すまで牡蛎を食べていたとは思いもよらなかったが、母の食い道楽を知っていたヨアヒムは苦笑を禁じ得ない。

 自ら節制をしているイメージのある聖女であるがグレーテは食べる事が大好きで聖典よりもレシピ本やグルメ紀行本を読んでいた事から、呑ん兵衛の師ゲルダと併せて、“酔いどれ”ゲルダ、“食い倒れ”グレーテと揶揄されたものである。


「その母が遺した牡蛎料理がこちらで御座います」


「なんじゃ? 牡蛎などどこにも無いではないか?」


 出されたのは只のうどんであった。

 蕎麦猪口に注がれたつゆ・・は味噌仕立てではあるものの取り立てて珍しいというものではない。

 しかし、ヨアヒムが笑っている事から自信作であるらしい。

 ゲルダは文句を云うのは後回しにしてうどんをたぐる事にした。


「こ、こいつは……」


 つゆに絡めて啜ったうどんは牡蛎の旨味がしたのである。

 恐らくは蒸した牡蛎を擦り潰して味噌のつゆと混ぜたのであろう。

 しかも丁寧に裏越ししたようで臭みもエグ味も無かった。

 ゲルダは夢中になってうどんを啜っていく。

 その度に口から牡蛎の風味が鼻に抜けていった。


「グレーテのヤツめ……とんでもない物を遺していきおったわえ」


「ゲルダ様のお口に合いましたか?」


「聞かれるまでもない。これは美味いぞ…これはグレーテが考案したものかね?」


「ええ、常に母はゲルダ様を驚かせたいと聖女として多忙の中で合間を縫っては研究しておりました。ゲルダ様の“美味い”の一言とその驚いたご尊顔を母が目にしたならば喜んだ事でしょう」


 そう微笑んだヨアヒムの目には光るものがあった。


「うむ、一本取られたわえ。これ程驚かされたのはハイネスとの結婚を即座に決めてしまった時以来じゃ。いやはや、息子がレシピを再現しただけでこれだけ美味いのだから料理に関してはグレーテの方がワシの上をいっていよう。」


「あ、ありがとうございます」


 グレーテは何か一つでも師ゲルダを超えたいと願っていたが今日、ついに報われたのだ。

 母の望みを知っていたヨアヒムは感極まって男泣きに泣いた。


「うむ、これは確かに美味い。我が子がレシピを受け継いでくれた事、グレーテも天国で喜んでいるに違いない」


 ミレーヌも牡蛎のうどんを褒めそやすとアンネリーゼ達もうどんに手を伸ばす。

 その濃厚な牡蛎の旨味と味噌の風味に聖女達もまたヨアヒムの腕を褒め、グレーテの研究の成果に感心した。


「このうどんは店の新しい看板になるだろうよ。おまけに聖都で刺し身を食えるとあっちゃあ大盛況間違い無しだぜ」


「本当だな。なあ、ヨアヒム? 物は相談だが、たまには俺様の船で出張料理人をやってくれねぇか? 船上娼館でも料理は出すが簡単な料理か豪快な海賊料理しか出してないから、たまにはこういった繊細な料理人の料理ってヤツを出してみたいんだよ」


「確かにアタシも通いたくなっちゃう味ね」


 聖女達がヨアヒムを囲んで笑っている。

 ヨアヒムの顔立ちはグレーテの生き写しである為か、まるで彼女がその場にいるように錯覚してしまいそうになる。


「グレーテ、お前の遺したものは素晴らしいものばかりじゃ。だが、それでも思ってしまうのぅ…」


 ゲルダの持つ杯に雫が落ちて波紋が広がる。


「グレーテ、お主が生きてそばにいて欲しかったと願うのは間違っておるのかのぅ? 教えておくれ、グレーテや」


 たった三年、されど三年、グレーテの言葉であるが、その三年間共に生活していた中でゲルダもまたグレーテを娘のように想っていたのである。

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