本編再開

第陸拾弍章 直心影流対薩摩示現流

「あの…ゲルダ先生じゃなかった。仕明しあけ先生、それは僕達の仕事ですので…」


「何を云うか。朝稽古の邪魔をするのだ。これくらいやらせてくれ。否、日頃世話になっておきながら遅すぎるくらいだわえ」


 早朝の三池流道場にて床を雑巾掛けしている仕明吾郎次郎に住み込みの弟子達、特に白虎衆が恐縮している。

 彼らが稽古前の掃除をしようと道場に行くと何者かの気配がするではないか。

 まさか泥棒ではあるまいと中に入れば道場の床を磨く吾郎次郎の姿があった。

 客人に掃除をさせたとあっては三池流宗家である月弥にどのような咎めを受けるか知れたものではないと慌てて道場に入っていく。

 しかし何度も上座にて待って欲しいと頼んでも吾郎次郎は莞爾として笑いながら道場の掃除を続けるのであった。

 ならば自分達もすぐに掃除を始めて吾郎次郎の負担を減らすべきだと考えるに至った白虎衆と朱雀衆もまた掃除に加わる。


「しかし仕明先生の雑巾をかける速さを見たか? 老いを全く感じさせないぞ」


「ああ、むしろ遅れているのは我々の方だ。達人ともなれば老境に達していようと足腰が衰えるものではないらしい」


 若く、日頃から山野を走らされている朱雀衆が道場を二往復している間に吾郎次郎は既に三往復もしており唸らされたものだ。

 感心している彼らの頭上に竹刀が振り下ろされる。


「莫迦者! 仕明先生が早いのもあるが貴様達が遅いのだ。しかも汚れがまったく落ちとらんではないか。もっと腰を入れて磨かんか!」


「ヒッ! すみません、師範代!」


 師範代を努める青龍衆に叱られて若い門人達は掃除を再開する。

 やれやれと呆れる師範代であったが、更にその頭を竹刀で叩く者がいた。


「誰だ?! って、師範、お早う御座います」


 彼が振り返ると玄武衆の一人がジト目で睨んでいるではないか。


「ふむ、師範代となって随分と偉くなったではないか。その上、背後をたやすく取られた挙げ句に頭を叩かれるか。日頃の鍛錬が知れるというものだな?」


「あ、いや、その…」


「何が汚れが落ちとらんだ。ならば自分で磨けばよかろうよ。三池先生も常に云っておられたであろう。下を動かしたければ上が率先して動けとな」


「ウイッス!」


 けつまろびつのていで師範代も雑巾を手に掃除を始めた。


「勿論、お前も掃除に参加してくれて良いンだぜ?」


「これは三池先生、おはようございます」


 云った舌の根が渇かぬ内に自分も背後を取られた動揺をおくびにも出さずに挨拶をするが返ってきたのは凄みのある三白眼である。


「良い事を云ってたな。下を動かしたかったら何だったっけ?」


「あ、あははは…」


「バータレ、さっさと行け」


 月弥が呆れて手を振ると彼もまた慌てて掃除に勤しむのであった。

 そして月弥はフローリング用の洗剤を撒きながらモップで磨き始める。


「あ、若先生、ズルい」


「何がズルいものかよ。コイツは道場の備品だぜ。それを使って何が悪いンだよ? つーか、お前らこそ、雑巾なんて疲れるだろ。何でこっちを使わねェンだ?」


「えっ? 使って良いんですか?」


「あん? 良いも悪いも掃除用具入れに入ってンだから使や良かンべ」


「修行にならないんじゃ」


「掃除が何の修行になるンだよ? それより、さっさと終わらせて素振りでも始めた方がよっぽど修行になると思わねェか?」


 道場主が呆れて云えば門下生は“それもそうですね”と返すよりない。


「どうせ、師範代あたりが適当に云ってたってところだろ」


「て、適当だなんて! 俺も先輩からそう教わったからであって」


 聞き咎めた青龍衆が反論するが月弥の無言の圧力に屈して言葉を窮してしまう。

 それを見て月弥は鼻を鳴らした。


「お前、首から上にあるのは何だ? 西瓜か南瓜か? 頭ってのは生きてる内に使うもんだぜ。備品庫にあるンだから使え。使わせろ。そもそも俺は掃除なんて早く終わらせて稽古しろって教えたはずだぜ。それを先輩にそう云われたからって後輩に雑巾掛けをさせるのかよ。それとも何か? 俺の指示より先輩の教えの方が大事だってか? あん?」


「い、いえ、そんな事は」


「そもそもお前にそんなアホを教えた莫迦は誰だよ? 玄武衆か?」


「あ、あうう…」


 道場主には逆らえず、かと云って先輩を売る訳にもいかない師範代は意味有る言葉を出せなくなってしまった。

 そこへ助け船を出してくれた人物が現れる。


「そう苛めてやるな。宗家と先輩との板挟みになって可哀想ではないか」


「ゴロさん、そうは云うがな。板挟みになってるって事は俺と先輩を天秤にかけてるって事じゃねェぁ。その時点で俺がナメられてるって話になんだろ。違うか?」


 老人の姿になっている為か、月弥はゲルダと同一人物であると理解しつつも吾郎次郎を呼び捨てにはしない。

 偉大なる師にして好きだった祖父に重ねているのもあるだろう。

 その月弥に対して吾郎次郎は諭すように云う。


「それはちと心得違いではあるまいかの?」


「あ゛? どういう意味だ?」


 月弥がドスの利いた声を出す。

 しかし吾郎次郎はそんな声を受け流してしまう。


「早くに掃除を終えて稽古を始める。それもまた正しい考えじゃ。だが日頃世話になっておる道場に愛情を込めて掃除する事もまた健全な精神を養う修行になるという考えもまた正しいとは思わぬか? 勿論、床用洗剤を使った掃除に愛情が無いとは云わぬわえ。じゃが懸命に雑巾で拭き掃除をする心意気を無下にするというのも道場主として如何なものかな」


 現に門下生達は協力し合って掃除をする事で一体となっていた。

 何より道場に対する愛着にも繋がっている。

 それは月弥も理解しているので唸らざるを得ない。


「お主のこれまでの人生を考えれば嘗められたくないという反骨心も分からぬではない。だが、それとこれとは話は違うであろう。この者の先輩とやらとて道場を大切に思っているからこそ丹念に掃除していたのであろうし、その想いを後輩達に伝えたかったのではあるまいかな」


「うぅむ、それも一理あるか。ああ、そうだな。効率化も大切だが道場は心身を鍛える神聖な場だ。心持ち次第で何でも修行になるし何をしたって意味を為さなくなる時もある。これは確かに俺の心得違いか。すまなかったな」


「い、いえ、頭を上げて下さい、若先生!」


 日頃から反骨あふれる態度を取っているゆえに誤解されがちであるが自らの過ちを認めない頑迷な人間ではない。

 自分に非があれば門下生が相手でも頭を下げる事ができるのが三池月弥だ。


「先程、仕明先生がおっしゃったように洗剤を使おうと心を込めて掃除する事はできるでしょう。俺も手で掃除をする事にこだわり過ぎていたように思います」


 師範代もまた月弥に頭を下げる。

 和解し歩み寄る師弟を吾郎次郎は微笑ましく見ていた。


「お待たせし申した!」


 そんな折り、早朝の道場に胴間声が響き渡る。


「おはようごぜもす」


「お、おはようございます」


 イルメラを伴って姿を見せたのはイルゼであったが、なんとこちらもゲルダと同じくして前世の姿に変身していた。


「天魔宗・十大弟子が一人、薩摩示現流、青葉武左衛門こと桐野利秋、推参!」


「気が合うな。考える事は一緒かえ」


 武左衛門の登場に吾郎次郎がニヤリと笑う。


直心影流じきしんかげりゅう免許皆伝、仕明吾郎次郎、お相手仕る」


 吾郎次郎と武左衛門は奇しくも同じ結論に達していた。

 互いに信用が揺らぎ疑念を抱いている今、全力で戦う以外に信頼を取り戻す方法は無いであろう。

 それには小柄で可憐な聖女ではいけない。

 尾張からの刺客や策謀を退けてきた徳川八代最後の盾、仕明吾郎次郎。

 激動の幕末を生き抜き、西南戦争で死力を尽くした桐野利秋。

 各々にとっての最強の姿で戦ってこそ意味があると考えるに至ったのだ。


「ワシの前で天魔宗を名乗るとは覚悟は出来ているようじゃな」


「そん方がお主も戦いやしじゃろ」


「違いない」


 両者は不敵に笑い合った。

 何より剣客として強敵と戦える喜びが聖女の姿で戦うという選択肢を除外していたのである。


「では早速始めるとするかの」


「望んところじゃ」


 吾郎次郎が正眼に構える。

 利秋は当然ながらトンボの構えだ。


「ま、待って下さい! お二人とも真剣じゃないですか?!」


 イルメラが悲鳴に近い声を上げた。

 しかし二人には最早その声は届いてはいない。

 既に精神が修羅の領域に達しているのだ。

 なおも止めようとするイルメラの肩を掴んで月弥は首を横に振った。

 それでイルメラはこの勝負は止められない。否、止めようとすれば二人に斬られるだけだと察した。

 この勝負に審判はいない。必要ないとも云える。

 両者にとって開始の合図ですら無粋であった。

 やがて二人の全身を剣気、即ち相手を斬る気迫が満ちてくる。

 満たされた時こそが勝負の始まりとなるであろう。

 門下生達も令和の日本ではまず体験するどころか、本来なら見る事すら無かったであろう真剣勝負に固唾を飲んでいる。

 呼吸さえも忘れる程の緊張感の中、二人は動こうとはしない。

 いや、違う。いつの間にか、吾郎次郎の切っ先が下を向いて下段の構えに移行していた。


「はうう…」


 二人の剣気に呑まれた少女が気を失って倒れてしまったではないか。

 それを機に均衡は破られ、二人はするすると間合いを詰め始めた。


「ちぇええええええええええええすとぉ!!」


 ニの太刀要らずの薩摩御留流の剣が振り下ろされた。

 その凄まじい勢いは切っ先に真空の楔が生じさせて驚異的な截断力を齎す。

 対して吾郎次郎は動こうとはしない。

 怒濤のように利秋が吾郎次郎に迫る。

 誰もが真っ二つにされる吾郎次郎を思い浮かべてしまう。

 その刹那、銀光が閃いて両者が擦れ違った。

 どう・・という音を立てて利秋の体が腰砕けに倒れる。

 立っていたのは剣を振り上げた恰好の吾郎次郎であった。

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