第肆拾陸章 桔梗の記憶

「む? ホタテやカキを焼いておる屋台があるぞ。何とも美味そうな…っと?」


 牡蛎を中心に帆立や蛤、新鮮な魚を焼く香ばしい匂いに誘われたゲルダであるが、右腕をエヴァにガッチリと絡められて向かう事が出来ない。


「東区にも美味しい海鮮料理屋はいくらでもあるから我慢なさいな」


「いや、こういうものは料理屋でなく屋台で食べた…方が…」


 エヴァに微笑まれてゲルダは“美味いぞ”と続ける事は叶わなかった。

 ぱっと見れば優しげではあるが、善く善く見ると目だけが笑っていない。

 後ろ髪を引かれる思いであったが後の祟りが怖いので素直に従うしかない。


「おお、大道芸か。器用なものだのおおっ?」


 屋根まで届くほどの竹馬に乗ってジャグリングを披露する道化師に近寄ろうとするゲルダであったが左腕をアンネリーゼにホールドされてしまう。


「演技中のパフォーマ―に近づくのは危険で御座ンすよ」


「いや、何も邪魔はするつもりはないぞ? 御捻りをだな」


「スエズンで通行を妨げる大道芸は御法度で御座ンす。彼らは大道芸人ではなく西区で興行しているサーカスの宣伝をしているンでさ。勿論、黒駒一家に筋を通した上で決められた場所で演技をしているンで御座ンすよ」


 結局、ゲルダはエヴァとアンネリーゼに両脇を抱えられて東区へと強制的に歩かされる仕儀となったのである。

 理由は問われるまでもなく先の路地裏で襲われた事に起因していた。

 天魔宗・十大弟子の一人、イシルとの戦いは奥義『流星三連』を破る事に成功したものの同じく十大弟子の一人である十六夜いざよいの介入により取り逃がしてしまう。

 アンネリーゼが駆け付けた時には敵の姿は既になかったが、肝心のゲルダの様子がどうにもおかしい。話しかけてもずっと上の空であり、しかも頻りに自分の唇に指を触れているのだ。

 遅れてエヴァも到着するとすぐにゲルダの異変に気付いた。

 ゲルダのルージュの色が普段と違うのだ。いつもならエヴァが贈ったピンクのルージュを塗っており、今日も乗り気ではないゲルダに化粧を施してやったのだから分からない方がおかしいというものだ。

 ゲルダの唇が鮮やかな赤に彩られている事にすぐにピンときた。

 塗り直したというよりはどう見ても色が移った・・・・・としか思えない。

 そして半ば自失状態で自分の唇に指を這わせているとくればほぼ確定である。


(ゲルダの唇を奪った女がいる)


 怒り所はそこか、と思われるであろうがレズビアンでありゲルダに懸想しているエヴァからすれば大問題であった。

 アンネリーゼは純粋にゲルダの身を守るつもりではいるが、やはり唇を奪われている事には長年務めてきた目明かしとしての勘により察していた。

 すると不思議なもので心配以上に何故か向かっ腹が立ってきたのである。

 子供がいるどころか、その子供も嫁を迎えたばかりであるゲルダは勿論今更唇を奪われた程度の事で動揺していたのではない。

 前世、仕明しあけ吾郎次郎ごろうじろうの幼名を何故、天魔宗である十六夜が知っていたのかと思案を巡らせていたのだ。

 幼い頃の吾郎次郎、否、吾兵衛は旅役者の子であり、幼いながらもその美貌は既に色香まで備えていたことから決まって少女の役を当てられていた。

 吾兵衛の役者としての名は桔梗といい、特に花魁物において禿かむろに化けた姿は好評で、客の中には吾兵衛を買いたいと申し出る豪の者までいたという。

 幼い頃の吾兵衛が利発な受け答えをして養父・仕明二郎三郎じろうさぶろうに気に入られたのは七歳にして演じてきた厖大な役者の台詞が頭の中に入っている事もあるが何より父に役や舞台の背景までも教育されてきたからである。

 遊郭の仕組み、武家社会の仕組み、農民の生活、商人の営み、職人の事情、そういった背景を知る事で役に深みが出るのだという父親の信念に依るものだ。

 父の一座の演目は芝居のみならず芸や舞いもあり、何故か神楽までもあった。

 これは食い詰めた孤児を父親が見捨てられずに拾って一座に加えたからであるが、縁であるのか一座に拾われた子供達の親に芸者や芸人が多く、様々な理由で親を失ってはいるものの、それまでは芸事を仕込まれていたからだそうな。


(いや、まさかな)


 一座の中には神職の娘であった者がいたが吾兵衛より十も年上である。

 幼い頃から女役をしていた吾兵衛は時折り自分が男なのか女なのか分からなくなる瞬間が訪れていたものであったが、彼女が役者名である桔梗と呼ばずに吾兵衛と呼び続けてくれていた事で自分は男であるのだと確信する事が出来た。

 今では顔も善く思い出せないが優しく微笑んでくれていたのは覚えている。

 自分も彼女に懐いていた記憶はあるのだが最早名前すら出てこない。

 ただ鮮烈に覚えている事があり、彼女は吾兵衛の前にだけ見せてくれたものだ。

 十六夜は額、両の掌、足の裏に光を宿して不思議な術を遣った。

 宙を自在に飛び、火の玉を浮かべたり、水を一瞬にして凍らせる事が出来た。

 半ば幼い頃に見た夢と思っていたが、十六夜との遭遇は幼き頃、しかも前世の記憶に色を与えたのである。


(彼女はどうしたか…確か一座が山賊に襲われて……ああ、そうだ)


 座長である父が盾となって座員や子供達を逃がしてくれたが、山中にあって山賊からの追跡を振りきれるものではなく、一人また一人と捕らわれ、殺されていく中で自分と彼女は蔓で出来た吊り橋を渡っていた。

 ところが先回りしていた山賊と追跡してきた山賊に挟み撃ちにされてしまう。

 山賊は“こいつらは高く売れる”と舌嘗めずりをしながら距離を縮めてくる。

 絶体絶命の危機の中で彼女は笑っていた。“信じて”と云っていたような気もする。

 すると彼女は吾兵衛を抱えて吊り橋から身を投じたのだ。

 後の事は善く覚えていない。抱きかかえられた時に良い匂いがした。

 それだけが彼女との最後の記憶であった…ように思う。

 その後は山中にて木の実や野草を食べて命を繋ぎ、どうにか越前のとある街へと流れ着いて養父・二郎三郎に救われたのだ。


(彼女の名は…駄目だ。思い出せぬ。記憶に引っ掛かりすらない。完全に忘却しているのだ。顔さえも覚えていない。薄情なものよ)


 ゲルダは山賊から救ってくれた彼女を覚えていない自分の情の無さを悔いているが、当時から暴れ馬に蹴り殺されるまで半世紀以上も経過している上に記憶を受け継いで転生するという特殊な状況を乗り越えて三百年も生きてきたのだ。忘れていたとしても責めるのは酷と云うものであろう。


(十六夜といったな。本人も云っておったが、また会わねばなるまい)


 記憶に幽かに残る彼女と十六夜とは繋がりがあるのかは分からないがゲルダの心は十六夜に強く引き付けられていたのだ。


『これは拾い物よ。この美しさ、才覚、いずれも磨けば役に立つであろう』


(何だ、今の声は?)


 ゲルダの脳裏に聞いた事の無い言葉が響く。

 非道く嗄れた老人の声であった。


『桔梗といったかえ。この器量なら女だけではなく男すらも虜に出来ような』


 脂の乗った女の声もする。


『この体も見よ。あの男・・・に鍛えられたと見えて七歳の子供とも思えぬ』


 凜々しい青年の声が吾兵衛の体に触れる。


『あやつが何を思い我らを裏切って旅回りとなったかは分からぬ。だがあの男が鍛えた子供は皆、それとは知らずに隠密の技を仕込まれておったわ』


 野卑な男の声が仲間の事について云っている。


『子供を鍛え、どこかの大名に売り込もうとした? どの道、あの男が死んだ今、我らが大事に使ってあげれば良い』


 鈴を転がした声の少女が父の死を告げた。


『差し当たっては桔梗には相手を魅了する技を仕込むとしよう。まずは男の味・・・を覚えさせるか』


 衣摺れの音が聞こえる。


『桔梗よ。美を磨け。技を磨け。使えるなら生かしてやろうぞ』


 何かが覆い被さってくる。


『何をするか?!』


 鉄錆に似た匂いがするものが顔にかかる。


『吾兵衛、逃げて』


「お姉ちゃん?!」


「ゲルダ?!」


 脇を抱えられながらも思案げにしていたゲルダであったが急に叫んでしゃがみ込んでしまったのでエヴァとアンネリーゼは面喰らう。


「先生、如何しやした?」


「あ、ああ、親分…いや、何でもない」


「何でもないって顔じゃないわよ? 顔色も悪いし非道い汗じゃない」


「大丈夫じゃ。どうやら暑気中りでも起こしていたらしい。心配はいらぬ。東区に着いたら茶でも飲んで休めば落ち着くであろう」


「いやでも…」


「大丈夫と云うとろう。我らがすべき事はまず東区にあるというイルゼの生家へと赴く事。さあ、急ぐぞ」


 ゲルダは頭を振ると戸惑う二人に構わず中央区と東区を隔てる門へと向かう。

 明らかに無理をしているのは分かるが、ゲルダが一度こうと云い出したら梃子でも動かない事を知る二人はせめてゲルダをしっかりと支えようと追いかける。

 ゲルダが叫んだ“お姉ちゃん”も気になるが、ゲルダの安全が第一だった。


「先生、分かりやしたから一人で行かないでおくンなせェ」


「そうよ。いつどこで天魔宗や尾張柳生が襲ってくるか分からないんだから」


「それと神をなんたらとかいう半グレもであるな。いや、モテる女はツラいわえ」


 振り返って笑うゲルダの顔色はまだ悪かった。

 強がっている事は明白であった。二人は揃って溜め息をつくと再びゲルダの両脇を抱えたものである。


「はいはい、じゃあ行くわよ」


「観光名所の無い東区にわざわざ行こうってンです。外国人が行くには面倒な手続きが必要ではありやすがね。あっしがいれば顔で通してくれるので大船にのった気でいなせェ」


「おお、流石は親分であるな。頼もしいわえ」


 女三人寄ればなんとやらとあるように賑々しく東区に向かう三人を見詰めている者がいた。


「残念ながらどれもハズレよ。桔梗、今は聖女ゲルダか。あやつは我らが頂く」


 高竹馬の上で道化師が滑稽な化粧の下でニヤリと笑った。

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