先輩と、この舞台で
立川マナ
第1話
眩い光の中、白く視界が霞む。全ての輪郭が曖昧になって、そこに一人佇む先輩の凛とした後ろ姿だけがぼんやりと浮かんで見えた。
まるで、天国にいるみたい――そんな喩えが浮かんだ。
なんて陳腐な……て、自分でも思うけど。でも、いいんだ。だって、ぴったりなんだもん。ここは、私の天国。至福の場所で、終着点。この舞台は、先輩と二人きりになれる最後の場所なんだから。
先輩が構えるアルトサックスがキラリと黄金色の光を放ち、先輩がこちらに振り返る。
白んだ視界の中、ふっとわずかに先輩が笑むのが分かった。この広い会場で、私にだけ分かるように。それだけで、胸がきゅうっと締め付けられる。ぶわっと一気に幾万もの花が咲き誇るような――そんな、溢れんばかりの幸福感がどこからともなくこみ上げてくる。
二つ上の先輩は、吹奏楽部の部長で、帰宅部の私とは接点なんて無いはずの人だった。
ただ、入学式とか、甲子園の予選とか、そういう場面で、アルトサックスを吹く先輩の姿を見かけて。自信に満ち満ちて、誇らしげで、堂々として……そして、楽しそうにサックスを吹くその姿は、一人だけ、スポットライトを浴びているかのように輝いて見えて――憧れた。
そう、『憧れ』だったんだ。
自分とは全く違うその姿に、私は憧れたんだ。
私は『嫌い』だったから。
子供の頃から親にやらされていたピアノも。『ピアノを習っていたから』という理由だけで、合唱祭の伴奏を押し付けられて『嫌だ』と言えない自分も。舞台の上で、人前でピアノを弾くことも。全部全部、嫌いだった。
でも、あるとき、先輩が突然、私のクラスに現れて、『ソロコンの伴奏をお願いできないかな』、て遠慮がちに笑って私に言った。合唱祭で聞いた私の伴奏に惚れたんだ、て……気恥ずかしそうに付け足して。
夢かと思った。
だって、そんなことある?
私なんて……地味で根暗な奴で。そんな自分が大嫌いで。目立ちたくない、と思うから、自然と背中は丸まって、姿勢が悪い、と親にずっと言われてきた。ピアノを弾く姿だって、きっと自信無げで格好悪かったに決まってる。
でも、そんな私の演奏を、先輩はちゃんと聞いててくれた。そんな私に先輩は声をかけてくれた。
そして、今、私は先輩と一緒に舞台に立っている――。
広々とした会場を、身に突き刺さるような静寂が包み込んでいた。空気は張り詰め、逆光で姿も見えない観客の息遣いさえ伝わってくるようだった。
指先が震える。暗譜が飛びそうになる。
でも、そのたびに、思い出すんだ。初めての舞台のこと。ソロコンの地区予選。舞台袖で先輩に言われた一言。
『大丈夫。僕を見て、僕の音を聞いて。いつも通りに』
緊張でパニックになって、泣きそうになった私の手をぎゅっと握って、先輩はそう優しく言ってくれた。アルトサックスというよりは、テナーサックスに近い、朗朗とした低い声で。
先輩を見て、先輩の音を聞く。それだけでいい。そう思うだけで、すっと体から力が抜け、指先に自由が戻る。自然と、笑みが溢れる。
だって、それは私には簡単なことだから。ずっと、してきたことだから。こうして、先輩の伴奏をするようになる前から。吹部の演奏があるたび、私は先輩の姿を遠くから見つめ、幾重にも重なる音色の中から、その音を……先輩が奏でるアルトサックスの音を探してきたんだ。
先輩が顔を前に向き直し、すっと息を吸う――その音に耳を澄まし、私も息を吸う。先輩と呼吸を合わせ、そして、まずは一つ、力強く鍵盤を指先で叩いた。
ソロコンテスト全国大会――泣いても笑っても、これが先輩との最後の舞台だ。
背筋を伸ばそう。誇らしく顔を上げよう。堂々と、楽しく弾くんだ。ずっと憧れだった先輩みたいに……。
今は、私も『好き』になれたから。ピアノを弾くこと。舞台の上に立つこと。そして、先輩のこと――。
先輩と、この舞台で 立川マナ @Tachikawa
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