第13話 車内

 夜の車道を緩やかな速度で静かに走行している。全身が心地よい浮遊感の中にあり、深淵へ伸ばされた足の先の感覚はとても不安定だった。


 空は曇っているのか、星の明かりは見えない。前方を照らしているライトと遠方の白い街明かりだけが、視界を生み出していた。


 少し、肌寒さを感じた。先ほど見かけた気温計には二という数字が浮かんでいたと記憶している。何らかの暖房が欲しい気がした。


 ただ、ぼくはこの車内にどういった設備があるのか、把握していない。ほとんどの構造が曖昧な暗い箱の中という印象だ。そもそも、ぼくの手がハンドルを握っているのかも定かではなかった。


 それでも、車体はぼくの意識に呼応して進行している。直接動かしているというよりも、ぼくの意図が何らかの靄を通過し、僅かな時差が生じたうえで車体に届いているという感覚だった。


 急なカーブが迫ってくる。ぼくはいち早く意識を巡らした。車体はこちらの思考をすぐに受け取ってくれない。ゆっくりと近づいてくるガードレールが不安感をあおってきた。


 遅い……遅い……。異様なほど長く感じた時間は、全身を横倒しにするような圧力によって、中断させられた。


 この暗い箱の動力は、ようやくぼくの意思に従ってくれた。カーブを曲がり、山沿いの車道を下降していく。すぐ横側には奈落へ通じる崖が続いており、もしぼくの意思を遅れていれば車体は闇の中に没していたことだろう。


 だけど、車道の行き先もまた同じ奈落なのかもしれない。今も全身が低速で落下していく感覚に包まれており、浮力が失われる時がくれば、それは悍ましい結末をもたらすだろう。


 雨音。最初は微妙な空気の湿り気だったそれは、徐々に勢力を強めていく。ぽつぽつと、天井を貫通してきた水滴が肌に当たった。


 車道には水たまりが点在し始めた。地上と奈落の境目を流れる川の水が、今にも溢れ出しそうだ。


 今や、視界を遮る豪雨となった天からの調べは、ぼくの意識を遮断してしまっていくようだ。このままでは、転落の恐れもまずばかりだった。


 ぼくは意識を飛ばした。早く……早く、車を止めてくれ、と。


 車体は止まらない。雨水をばしゃばしゃと弾けさせながら、予想できない動きで以て、うねる蛇の道を走り続けている。


 止まってくれ。ぼくはそう願った。でも、止まらない。


 あの黒い影が前方から迫ってきた。このままではぶつかる。ぼくは足元にブレーキの存在を想像し、それを強く踏みつけた。


 効果は……あった。車体が急停止し、世界全体が唐突にその動きを止めた。そして、走行を終えたことで存在する意義を失った車体は、この世から消滅した。


 すべてが漆黒に包まれる。もう、それ以上何も映ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る