第9話 階段昇降機

 幾つもの溝が彫られた黒い段差。ぼくはその一つを踏みしめている。段差は音も立てずにゆっくりと下っていた。


 右隣には白色の壁が一面に広がっており、灰色の天井が段差と平行線状の構造を維持したまま下方へと続いている。天井には灰色の染みが浮き出ていて、張り紙の切れ端らしきものとセロハンテープの一部がくっついていた。


 段差の移動する速度は遅く、既に視界に映っている階下の陳列棚が近いようでいて遠く感じられた。商品である小瓶は揃っているが、人影は見当たらず、手入れの行き届いていない壁面を見ても、この建物全体が寂れている印象があった。


 ぼんやりと上を見ていたら、不意にバランスが崩れそうになり、壁面に手を添えて自らの身体を支えた。壁の質感はあまり固くなく、内側にある空洞が感じられた。少し強く押すとぼこっと凹んでしまいそうだった。


 段差の移動は着実に終着点へ向かっている。それでいて、一向に終わりがやってこないのが不思議でならない。そんなことを考えていると、背後でガタゴトと物音が響いた。


 振り返る。一瞬、視界の隅で黒い何かが動いた。その黒い影を追おうと視線を巡らしたけど、もう気配をうかがい知ることもできない。


 ぼくはずっとつけられているのだろうか。得体の知れない何者かの追跡を受けているとしたら、あまり良い気持ちになれない。相手の思惑がぼくにとって何をもたらすのか、不安を覚えてしまう。


 ぼくはじっとしていられなくなった。何となくだけど、周囲の状況をぼくに対して急かしている気がしたから。名残惜しいけど、足を前に踏み出す。


 いざ自らの意思で階段を降りてしまうと、あっさりと終点に達した。動かない足場を踏みしめる感覚は、確かな安定感をもたらしてくれる。それにより、自分が今までいかにアンバランスな土台の上にいたのか、思い知らされた。


 もう一度、背後へ振り返る。背筋がゾッとした。幾つもの人物のシルエットを模した造形がそれぞれに与えられた段差の上に棒立ちになっていた。


 不鮮明な実体がゆらゆらと揺れていて、どす黒い虹の色が段差の溝をなぞるように上から下へ流動体となって蠢いている。表情は読み取れないが、生気のまるで感じられない虚ろな眼孔だけは、ぼくの網膜に突き入ってくるように、痛いほど伝わってきた。


 視線を店内へ戻す。あれは見ていては駄目だ。ぼくの内部に悍ましい物が幾つも押し入ってくる。足早に、陳列棚の合間へ進む。目ぼしい商品は見当たらないけど、自分をこれらの中へ埋没させれば、不気味な追手から遠のける。


 そう、思った。

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