第8話 多面体の部屋

 長方形の板を時計回りに繋ぎ合わせたような側面が周囲をぐるりと囲んでいる。天井の形状は五角形のようにも見えるし、六角形か、あるいはもっと無数の角度があるかもしれない。


 壁面には何も映っていない。ただ、朧げな鉛色の色彩の上に靄がかかっているのみ。空気の淀みは時間の流れの停滞をまとっていた。


 壁面の一つに近づく。己の姿を映し出しはしないかとじっと佇み、目を凝らすが、何の変化も生じる気配はなかった。


 時の流れを望む。普段であれば、そのような願いを抱くことはないけれど、密閉空間に閉じ込められた怠惰な時間の浪費を思えば、一刻も早い転機を望むのは自明の理だ。


 ようやく、壁面に変化が生じた。刹那、長身の黒ずくめの人物のシルエットが浮かび上がり、不敵な笑みを浮かべた。


 人物の影が掻き消え、遠い蒼穹の情景が広がる。遠近感が明瞭となり、緑色の平原が延々と続いている。暖かい空気が流れ込んでくる。自分の内なる体温がとくとくと脈打っているのをはっきりと感じた。


 別の壁面へ視線を動かす。そちらでは既に異なる情景が映し出されていた。


 高く連なる山々。ゆったりとした風の流れによって、上空の雲がその形状を徐々に変えていく。まるで吸い込まれるかのような感覚に、暫しの間、釘付けになる。


 背中に冷たい気の反流が奔った。ぞっとなり、振り返る。一瞬、あの黒い人影が横切った。


 あの人影は何者だろう。この部屋の中で幾つもの情景を観察するのはとても興味深いものであるけど、あの人影の正体がつかめない以上、あまり良い気持ちになれない。何だか、こちらの動きをつぶさに監視されている気がする。


 また、異なる壁面へ目を向ける。そこに移るのは濃い藍色。微かに灰色の気泡がこぽこぽと舞っており、深い海の底である気がしてならない。


 すいすいと水をかき分けながら前進する、ひし形の魚の姿。一匹、二匹、三匹と連なり、円周を描くような軌道で海中を優雅に及んでいる。


 また他の壁面。それは荒涼とした岩だらけの光景だった。所々に動物の骨らしきものが転がっている。遠くの方には天に向かって屹立している火山から、黒く重い質量を伴っていると思しき火山煙がぼこぼことキノコのように立ち込めている。


 焦げ臭い。不意の危機感。周囲の壁面をさっと見回す。すると、あの黒い人影がこちらの視線から逃げるように高速で通り過ぎていった。


 部屋全体が軋む。そして、あっという間にすべての壁面が砕け散り、あらゆる情景がいっぺんに消え去った。


 あとには、何も残らない。虚無だった。


 

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