第4話 水びたしの図書室

 立ち並ぶ本棚の下部は冷たく透き通った水で覆われている。一歩進むたびににさわさわと微かな流れが生まれ、左右へと波紋を広げていく。水面に映っているのは幾つもの陳列されている書物の映像で、波によって朧げな揺蕩いを見せていた。


 探している一冊は、並んでいる本棚のどこかにある。大まかな場所の見当もつかないはずであったが、ぼくの足取りは何らかの目的を持ってどこかへ着実に進んでいる。


 突き当りまで進んだところで、正面に別の本棚が立ちふさがる。それが横にずうっと続いていて、水上を伝わる冷たい空気の流れが遥か遠くの方から吹いてくる。


 暫しの間、ぼくは逡巡しているかのようにその場に留まっていた。視線が彷徨い、眼前の本の一つ一つに向けられていく。書名は見えない。青白いものや赤っぽいものなど……薄い色彩で統一された背表紙が延々と連なっている。


 どれか一つ……手に取ってみたいという欲求が湧いてくる。でも、早まってはいけないんだ。ここに留まれる時間はそう長くはない。だから、どうしても持ち帰りたい一冊に狙いを絞る必要がある。


 本当は……ここにある本の何れもがかけがえのないものだってわかっている。それら一冊一冊には、一人の人間が書き記した夢の賜物が込められているから。でも、そのすべてを読み取ろうとするには、ぼくに与えられた時間は少なすぎた。


 せせらぎが、足元を緩やかに刺激する。ぼくは導かれるようにして、その流れの出所に向かって歩み始める。


 近づいている。目的の一冊へ向かって。その一冊との出会いさえあれば、この空間にぼくが存在したことに意味があったと胸を張って言えるんだ。


 流れの元へたどり着いた。微妙な色彩の変化意外に代り映えの無い背表紙が並んでいる光景。ぼくはその中から目的の一冊を求めて、手を彷徨わせる。


 無意識に止まる、ぼくの手。ぼくはその手と正面から向き合っている本の天辺に指をかける。そのまま、本棚から取り出した。


 表紙に絵は無いし、文字も無い。ただ、青みがかった薄紫色の布製のカバーの感触が、自分の指にとって心地よいものであると実感できた。


 そっとページを開く。汚すことを恐れているように、慎重な指使いで。


 題名は……リンデ。それははっきりと脳裡に焼きつけられた。でも、更にページをめくると、読むことのできない文字列が並んでいた。


 知らない文字ではない。でも、視界が虚ろで……いや、視界もそんなに悪くない。意識全体が白く染まって、何かを読み取るという能力が急速に失われていっているんだ。


 ああ。間に合わなかったんだ。ぼくはもう、ここに居られない。でも、こうして出会えた事実だけは忘れないよ。


 リンデ。君の名は。

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