5話 トリプルデート4

トリプルデートの最中、女性陣からの提案で恋人での別行動をすることになった。俺と芙佳さんは、遊園地エリアを出てショッピングモールにやってきた。服屋 や雑貨屋を回って、こういう買い物をするデートは初めてだななんて思って嬉しくなったり、いろいろな商品に目を輝かせる芙佳さんを可愛く思ったりして、すごく楽しい時間を過ごしていた。

しかし、1時間ほど経った頃に大型の雑貨屋で大きなぬいぐるみを見ていたときに、はしゃいでいた芙佳さんの動きが急に止まった。彼女は、ある一点を見つめたまま片手で口元を覆っている。

「あの、芙佳さん?」

「…村松(むらまつ)さんです…。いっ君、村松さんがいるんです!」

芙佳さんは、一度こちらに振り向いて、またすぐに視線を戻す。村松さん、芙佳さんに執着していた大学の後輩女性。芙佳さんの目の前で自傷行為をした人。たしか、あの騒動の後は芙佳さんと村松さんは直接会わないまま、村松さんは大学に来ていないと聞いた。そんな村松さんが、今同じ店内にいるってことか?

「芙佳さん、行きましょう」

俺は、咄嗟に芙佳さんの手をとって店から出ようとした。あの騒動のことは、芙佳さんから教えてもらった簡単な経過しか知らない。芙佳さんがどう思っているのか、はっきりとしたことは分からないが、あまり詳しく話そうとはしないし、俺から話題をふって芙佳さんの心を傷つけてしまうかもしれないのが嫌で、気になりつつも聞けずにいた。

だけど、せめて今は芙佳さんを守りたい。あの騒動のときには電話越しに見守ることしかできなかったし、その後も芙佳さんを支えることすら満足にできていない。

でも、今は芙佳さんの隣にいる。今度こそ、俺が芙佳さんを守る。

「待って、いっ君。私、村松さんのところに行ってきます。どうしても、直接お話したいことがあるんです」

ところが、芙佳さんの反応は予想外のものだった。驚いて、思わずつかんでいた芙佳さんの手を離してしまう。

「…大丈夫なんですか? 直接話して、また何かあったら…」

「そうですね。でも、大丈夫です。今の村松さんは、きっともう大丈夫だから…。それに、本当にちょっとお話するだけですから、デート中に申し訳ないんですけど、いっ君は少しの間、この辺りの商品を見て待っていてくれませんか?」

芙佳さんの言っている意味が分からない。わざわざ危険に自分から近づいていってほしくないけど、俺を見る芙佳さんの表情はすごく落ち着いていて大人のオーラを纏っている。その笑顔の前に、俺はうなずくほかなかった。いつも上品な微笑みを浮かべている人だけど、今の笑顔はいつものような可愛らしいものや圧をかけるような含みのある笑顔ではなく、これまでに見たことがない、本当に大人びた表情だ。

「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってきますね」

そう言って、もう一度にっこり微笑むと、芙佳さんは村松さんがいるであろう方向に向かって早足で歩き出した。

芙佳さんにおされる形でうなずいてしまったけど、やっぱり心配だ。俺は、おとなしく待っていることができなくて、芙佳さんの後をそっと追いかける。

芙佳さんは、アロマオイルが並べられた商品棚の前に1人でいた女性に声をかけた。俺は芙佳さんたちに気づかれないように、彼女たちがいる通路と商品棚1つ挟んだ隣の通路で商品を見るフリをしながら、棚の向こうの会話に聞き耳をたてる。

「…先輩! あの…すみませんでした!」

そう言った声は、電話越しに聞き覚えのある声、村松さんの声だ。とても驚いて焦っているのが声だけで分かる。さっきチラッと見た村松さんは、小柄で焦げ茶のショートボブにパーマをかけた可愛らしい雰囲気の女性だった。正直に言うと、抱いていたイメージではもっと暗そうな人を想像していたので、勝手ながら驚いた。

村松さんは、慌てて謝罪するとこの場から離れようとしたようで、ヒールの音が聞こえてきた。

「待って、村松さん! いや、空(そら)ちゃん!」

「え!? …先輩、その呼び方は…」

「いいじゃないですか、ここには私たちしかいないんですから。空ちゃん、もう手首は大丈夫ですか?」

「えっと、はい…。もう治りました。あの、芙佳さん。今まで本当にすみませんでした! 私、本当は芙佳さんに直接会っちゃいけないのに、こんなところで会ってしまって…。だけど、直接謝ることができてよかったです…。その、では、私はこれで…」

「待ってください! もう気にしなくていいんですよ。もう全部、知っていますから。空ちゃんが私にやったこと、空ちゃんの意思じゃなくて、第三者に脅されてやらざるを得なかったってこと。清(きよ)仁(と)さん経由で説明してもらいましたし、爽(そう)太(た)さんともお話したんです」

「爽太さんとも!? …だけど、芙佳さんの目の前で手首を切るなんてことをしたのは、完全に私の意思です。露木さんや倉地さんにも迷惑をかけて、サークルの皆やあのときの居酒屋さんにも迷惑をかけました。あれは指示されたことじゃない、完全に私の責任です」

2人の話に聞き耳をたてているが、話の内容には全くついていけない。知らない人の名前が出てくるし、かろうじて理解できたのは、村松さんの下の名前が空さんだということだけだ。だけど、今は気づかれないように話を聞き続けるほかない。

「たしかに、あそこでリストカットしたのは、いろんな人に迷惑をかける結果になりました。他にもっとやり方はあったかもしれませんが、結果として空ちゃんがリストカットをしたおかげで裏で悪いことしていた大人たちの悪巧みが明るみになりましたし、空ちゃん自身もあの人たちから開放されましたし。それに、爽太さんも帰ってきてくれたんでしょう? 結果往来ですよ」

「…芙佳さん」

「だけど、これからは、もう二度と自分を傷つけるようなことはしないでくださいね。空ちゃんに何かあったら、爽太さん、今度こそ自分を責めて再起不能になっちゃいますから。香坂(こうさか)グループの貿易部門、期待の切れ者若社長ともあろうお方が、仕事が手につかない状態になったら、笑いごとでは済まされないほどの大騒ぎになるでしょうし。それに、空ちゃんに何かあったら、私も心配で胸が張り裂けそうになります。

きっと、もう分かっているとは思いますけど、空ちゃんはもっと自分を大切にしてくださいね。空ちゃんが手を伸ばしたらその手を握り返してくれる人は、周りにたくさんいますから。もちろん、私もね」

「…芙佳さん…。ありがとうございます。だけど、芙佳さんは被害者なのに、これからも、私と関わってくれるんですか?」

「当然です。たしかに私は被害者なんでしょうけど、噂を広められたくらいで、私自身が直接何か危害を加えられたとかはありませんでしたし。それでいったら、空ちゃんのほうがよっぽど被害者じゃないですか。まあ、大企業香坂グループの派閥争い絡みの話ですし、露木君や倉地君に話すわけにはいきませんから、表だって大学内で仲良くすることは難しいですけど、大学の外とか、清仁さんに頼めば大学の理事長室でお話することだってできますからね。」

「本当に、ありがとうございます。嬉しいです。私、しばらくは大学から離れて爽太さんの側にいることにしたんです。騒動の後処理は清仁さんや香坂の大人たちがなんとかしてくれるので、私は少し環境に甘えさせてもらって、これからのことをゆっくり考えていこうかなって。

だから、芙佳さんのスマホに連絡とかしてもいいですか? 電話とかメッセージとかでお話させてもらえたら嬉しいんですけど」

「もちろん!

でも、そっかあ。たしかに、今は爽太さんと一緒にいるのが一番いいかもしれませんね。爽太さんにたくさん甘えて、たくさん甘やかされる時間が、2人には必要なんですよ。あ、もしかして、今日も爽太さんとここに?」

「は、はい…。

そういえば、芙佳さんは、今日どなたとここに?」

「私は恋人と。空ちゃんと一緒です」

「例の彼氏さんですよね? 芙佳さんが幸せそうで安心しました。私、彼氏さんのことでもいろいろやらかしてしまいましたから、お2人の関係に悪影響を与えてしまったんじゃないかって、すごく心配だったので」

「フフ、私たちはそう簡単に別れたりしませんよ。とってもラブラブですからね」

結局、どこまでいっても理解できない会話の中で、いきなり芙佳さんがお茶目な調子で「ラブラブ」なんて言うものだから、思わず手に持っていた商品を落としそうになった。

「芙佳さんは、本当に彼氏さんのことが大好きなんですね。あの人たちも私も、本当にどうかしていました。企業の利益とか企業内の権力のために芙佳さんを縛り付けて気持ちをコントロールしようとするなんて…。

何度言っても足りないことですが、本当に申し訳ありませんでした!」

「本当に、行き過ぎた自己中心的な利益追求に捕らわれた大人たちには呆れますね。

私がいくら言っても、空ちゃんは自分を責めてしまうのかもしれませんけど、私は本当に空ちゃんのこと、怒っていませんからね。私が空ちゃんに望むのはただ1つ、自分を大切にしてほしいってことだけです」

「…はい」

「泣かないで、空ちゃん。今日は偶然でも、空ちゃんに会えてお話できてよかったです。

ほら、爽太さんのお迎えですよ。爽太さんとのデート、楽しんでくださいね。それと、いつでも連絡してきてください。私からも連絡しますから、今度またゆっくりお話しましょう」

「…はい! 本当にありがとうございます! それじゃあ、その、芙佳さんもデートを楽しんでください」

「当然です。またね、空ちゃん」

「はい、また」

1人分のヒールの音が遠ざかっていって、芙佳さんが軽く息をついたのが聞こえた。

「いっ君、近くにいますよね?」

「え!?」

俺は、また手から商品を落としそうになった。盗み聞きしていたの、バレてたのか?

「フフ、やっぱりね。みーつけた!」

俺が動揺している間に商品棚を回り込んでいた芙佳さんに背後から抱きつかれる。

「すみません、盗み聞きなんかして…。俺、どうしても心配で、気になって…」

「うん、いっ君が側にいてくれて、とっても心強かったですよ」

「それで、さっきの話って」

俺がこらえきれずに村松さんとの会話の内容に突っ込もうとすると、芙佳さんは俺から離れて視線をそらした。

「…俺には、言えませんか」

ずるい聞き方だと分かっているけど、つい落胆の感情を隠すことなく尋ねてしまった。「言えない」と言いづらくさせる空気を作ってしまった。芙佳さんは、視線をそらしたまま一度目を閉じて、再び目を開くと今度は俺をまっすぐに見つめた。真剣な表情で見つめられて、なんだか緊張してくる。

「そうですよね。ここまできて、いっ君には内緒だなんて、絶対によくありませんよね。その、ここで話すのはちょっとまずいので、今から私についてきてくれますか?」

変わらず真剣な表情の芙佳さんに問われて、俺は何がなんだか分からないままにうなずいた。

「じゃあ、行きましょう」

そう言った芙佳さんについて行って辿り着いたのは、ショッピングモールに隣接するホテルOTOMIYAのエントランスホールだった。2階までの吹き抜けになっている天井から巨大なシャンデリアがぶら下がり、床一面には赤茶色の絨毯が敷かれていて、見るからに高級ホテルの品格を空間全体で醸し出している。芙佳さんは、慣れた様子でフロントまで行くと、そこにいた受付の女性に声をかけた。

「突然ごめんなさい。支配人さんを呼んでいただけますか?」

「かしこまりました。少々お待ちください」

急に支配人を呼び出すなんて、芙佳さんは何をしようとしているんだろうとひやひやしたが、受付の女性は一切動揺することなく奥にかけて行った。

1分も経たずに先ほどの女性が初老の男性を連れて戻ってきた。男性は、芙佳さんの姿を見つけると表情をほころばせて、そのままカウンターの内側から出てきた。

「芙佳お嬢様、お久しぶりでございます」

「ええ、突然訪ねてしまってごめんなさいね」

「いえいえ、それで、本日はどのようなご用件で?」

「1501号室を午後の6時まで使わせてほしいんですけど、いいですか?」

男性は、芙佳さんの言葉を聞いて驚きの表情を浮かべた後に、俺のほうを見て何かを察したような顔になった。よく分からないが、よからぬ誤解をされているような気がする。いや、俺も芙佳さんの目的がよく分からなくなっているので、あながち誤解ではないのかも? って、何を考えてんだ、俺は。

「承知しました。ですが、お嬢様があの部屋をお使いになるだなんて初めてのことですね。お父上には秘密になさいますか?」

「別に秘密にしなくても大丈夫ですよ。私からも父には話そうと思っていますから」

芙佳さんがそう言って笑うと、男性はどこかホッとしたようにうなずいた。

「安心いたしました。では、お部屋までご案内しますね」

「ありがとう。いっ君、ついてきてください」

ひたすらに、まるで空気のようにやり取りを見守っていた俺は、急に芙佳さんが振り向いたことに驚きつつ、再び芙佳さんについておとなしく移動する。

「それでは、ごゆっくり」

部屋まで案内してくれた支配人さんが、頭を下げて部屋を出て行って、高級ホテルの広くて豪華な部屋に芙佳さんと2人きりになる。

この部屋、いわゆるスイートルームというやつではないだろうか。上等そうな家具が並ぶ部屋の中、奥にベッドルームが見えて、俺はドキッとする。呆然と立ち尽くしていると、芙佳さんがベッドルームの手前から声をかけてきた。

「いっ君、こっちです」

「は、はい」

状況を理解することを中半放棄した俺は、とにかく芙佳さんに言われるまま、リビングルームのL字型のソファに腰を下ろした。ソファの前にはローテーブル、目の前の壁にはレースのカーテンがかけられた窓、横の壁には大型の液晶テレビがかけられている。芙佳さんは、部屋の隅に置かれた小型冷蔵庫を開けながら俺に尋ねる。

「コーヒーか紅茶かオレンジジュース、どれがいいですか? ちなみにコーヒーと紅茶はホッとです」

「じ、じゃあ、オレンジジュースで」

「了解です」

芙佳さんは、ガラスのコップを2つとジュースが入った瓶をローテーブルまで持ってきて、ジュースをコップに注いでくれた。ジュースの瓶のラベルは見たことがないもので、なんとなく上等そうに見える。

「ありがとうございます」

そう言ってジュースを一口飲むと、それはみかんの味が濃くてとても美味しいジュースだった。普段飲んでいる安いジュースが薄味に感じるレベルだ。

気づかないうちに随分と喉が渇いていたらしく、ジュースが喉を潤すと同時にすっと身体の熱が冷めていく。同じようにジュースを飲んで息をついた芙佳さんが、覚悟を決めたような顔で口を開いた。

「さて、何から話しましょう…。空ちゃんとのお話の前に、私の家の話からですかね。聞いてくれますか?」

「もちろんです」

俺は、ここまできたら、もう全部聞かせてもらうつもりでうなずいた。

「えっとね、私の父は、このホテルを運営しているOTOMIYAグループの社長なんです」

「はあ」

その話は、たしかに驚く話なのだが、この部屋に来るまでの出来事でなんとなく想像がついていたので、ちょっと薄い反応になってしまう。芙佳さんは、拍子抜けしたように笑った。

「いっ君、今まで私がこの話を打ち明けた人の中でダントツに薄い反応ですよ」

「いや、驚いてはいるんですけど、さっき、支配人さんから『お嬢様』って呼ばれてましたし、こんな部屋にすぐに通してもらえるって絶対に何か特別な理由があるんだろうなって思ってたので…」

「まあ、そうか。明らかに一般のお客さんじゃなかったですもんね。ちなみにこの部屋は、一般のお客様には開放されていないOTOMIYAのVip専用の部屋なんです。あまりないですけど、一応牧の家の人間がプライベートで使うこともある部屋なので、簡単に通してもらえたんです」

「なるほど」

「それで、ここからが本題といいますか、ショッピングモールではお話しできないことなんですけど…」

芙佳さんは、もう一度ジュースを飲むと、内容を整理するようにゆっくりと語り出した。

「私と空ちゃんとの騒動は、ただの個人間のトラブルではなかったんです。このお話は、大企業の香坂グループとOTOMIYAグループ、そして雲琉(うんりゅう)製薬が関わる、ちょっと表には出せないお話なんですよ。だから、助けてくれた露木君や倉地君にも、迷惑をかけた人たちにも本当のことは話せなくて」

「ちょっと待ってください。それって、俺にも話せないことじゃないですか。俺が、興味本位で村松さんとの会話を聞いてしまった上に踏み込もうとしたせいで…。すみません。ここまで連れてきてもらっておいてあれですけど、本当に話せない内容なら、俺、追求しませんから、無理に話さなくても大丈夫ですよ」

香坂グループといえば、日本有数の総合商社だ。多岐にわたる事業を転回しているらしいが、正直一般人の俺には何をしている会社なのかはよく分からない。だけど、たしか芙佳さんたちが通う緑青(りょくせい)学院の運営を行っているのも香坂だった気がする。雲琉製薬は、これこそ日本人なら知らない人はいないくらいに有名な製薬会社だ。そこにOTOMIYAグループまで加わった裏話となると、そういう事情を一切知らない俺のような高校生でも、無関係の一般人が不用意に首を突っ込んでいい話ではないことだと理解できる。

「気を使ってくれてありがとう。でも、いっ君には聞いてほしいんです。

それでも、大企業の一族絡みの面倒な事情と、私がその大企業の社長の娘だってことを知ったら、いっ君が私から離れていくんじゃないかって、ちょっと怖くて、なかなか言い出せなかったんですけど」

そう言って、弱ったように微笑む芙佳さんを見て、俺の胸が痛んだ。俺は、きっとこれから普通に暮らしていたら一生触れることのない世界の話を聞くことになる。更に先のことまで考えたら、芙佳さんとこの先もずっと一緒にいるとすれば、俺自身がその世界に関わることにもなるだろう。それは、普通の高校生にとっては少し重たい話かもしれない。芙佳さんは、俺がその話を聞いて、芙佳さんといることを負担に感じたりプレッシャーに感じたりして離れていくかもしれないと、ずっと悩んでいたのだろう。だけど、そうやって俺が離れていくかもしれないと不安になって悩んでくれたことは、それだけ俺を好きでいてくれているのだと変換することができて、すごく嬉しいことだと思う。

「簡単に言うなって思われるかもしれないですけど、ここまでの流れで俺なりに覚悟は決めました。これから芙佳さんがどんな話をしても、俺は芙佳さんから離れたりしませんから、安心して話してほしいです」

だから、俺は今の自分に言える精一杯の言葉で、芙佳さんの不安を拭えるように彼女の目を見つめた。

「いっ君、ありがとう。それじゃあ、お話しますね。

まず、この話の中心は、香坂グループの世代交代に関わる派閥問題です。2年前、香坂グループの社長が亡くなられました。香坂グループは、その方が創り、大企業まで育てた企業で、そのカリスマ性をもってグループ全体を統括していた、実力も人望も申し分ない方でした。そんな初代社長が亡くなられて、新たなトップに就いた方は、初代社長の2人いる息子さんのうちの長男にあたる方でした。それ事態はなんの問題もなかったんですけど、その息子さんは身体が弱くて、いつ持病が悪化してもおかしくない状況なんです。そこで、現トップに万が一のことがあった際にスムーズに世代交代ができるように、3代目社長を決めておこうという話になりました。現在、香坂の社長候補に名前が挙がっているのは、現社長の息子である香坂爽太さんと現社長の弟さんの息子にあたる香坂清仁さん、初代社長の秘書を長年勤めていた男性の3名です。ただ、秘書の男性に関しては本人にその意思がないことから、ほとんど爽太さんと清仁さんの2択になっているわけですが、その2人をそれぞれ支持する派閥が、香坂グループ内でうまれているようで、その派閥争いの一環として、私と空ちゃんの騒動が発生してしまったんです。

ここまで、ついてこられてますか?」

眉尻を下げて苦笑する芙佳さんに、俺も苦笑しながらうなずく。とりあえず、香坂グループの3代目社長の座を巡って派閥争いが勃発していることは理解した。

「空ちゃんは、雲琉製薬の社長令嬢で、香坂爽太さんの許嫁なんです」

「許嫁!?」

もはや、村松さんが社長令嬢であることにはさほど驚かなくなった俺だが、許嫁という単語には過剰に反応してしまう。許嫁なんて、それこそ自分とは無縁の言葉だったからだ。

「わりとよくある話ですよ。

爽太さんと空ちゃんが結婚すれば、香坂は雲琉製薬との強いパイプを得ることになります。それは、企業全体としては良いことなんですが、清仁さん派の人間からすれば、爽太さんのグループ内での力が強まることに繋がるということで、なんとか対策を取りたかった。それで、雲琉製薬と同等かそれ以上の利益を香坂にもたらすような企業とのパイプを清仁さんにもつけようと考えた。そこで、目をつけられたのがOTOMIYAグループです。

OTOMIYAグループの社長の娘である私と妹のどちらかを清仁さんの許嫁にして、将来的にOTOMIYAとのパイプを強くしようと考えて、おそらく既に成人していることから、許嫁候補は私に絞られました。この話が私の父経由で私の耳に入ったのが1年前のことです。父は企業間のあれこれのためだけに私を香坂に嫁がせるようなことはしたくないと言い、私が清仁さんと本当に恋に落ちない限り、許嫁という縛りも認めないと言いました。私もその意見に賛成しましたし、清仁さんも賛成してくれました。清仁さん自身はあまり社長の座に興味がないようで、ただ自分の祖父が残した会社を守りたいと考えている人で、私との許嫁の話も完全に回りの人間が強引に進めた話だったんです。お互いに本気で許嫁だとか結婚だとか考えていない私たちでしたけど、一応香坂の人間の目を考えて2人で会って話をしたり出かけたりするようになりました。会えば会うほど、私たちは仲良くなって距離を縮めていきました。でも、どこまでいっても恋愛ではなく友情が深まるばかりで、いつまでも関係をはっきりさせないままでいたら、清仁さんの周りの人間たちが黙っていないだろうと、許嫁の関係を断るための理由作りに2人で必死になりました。『良いお友だちだけど、恋愛対象としては見られないから』って正直に言うだけでいいなら簡単なんですけど、OTOMIYA側はともかく、香坂がそんな個人的な感情論だけでは納得してくれない人たちが確実に出てきますから、それはもう必死に話し合いを重ねていったんです。

そんなときに、この状況から脱出できる、私にとっての運命的な出会いがあったんです」

まだ半分ほどジュースが入ったコップに目を落としていた芙佳さんが、ここで俺の顔を見た。俺は、ずっと芙佳さんを見ていたので、自然と視線が重なる。

「いっ君との出会いです。いっ君と初めて会った学祭の日、一目惚れしたんです。ああ、これが恋なんだなって、自然と感じられて。これは、もう理由作りとかどうでもいいから、早く清仁さんとの関係を公式にフラットにしないとなって、あの日、いっ君と別れてすぐに清仁さんに話をして、香坂の文句を言ってくる人間についてはわりと強引に寄与仁さんとうちの父が黙らせて、私が清仁さんの許嫁になるという話はなかったことになりました」

俺が芙佳さんに一目惚れしたあのとき、芙佳さんも俺に一目惚れしてくれたという事実が、芙佳さんと清仁さんとの話で締め付けられていた俺の心を解いていく。だけど、俺が芽生えたばかりの恋心に浮かれていたあの日の夜、芙佳さんはそんな大きな話に勢いのままに決着をつけていたなんて、本当に驚きだ。

「でも、香坂の人間には諦めの悪い人がいたようで、とにかく私と清仁さんをくっつけようと必死になったようなんです。清仁さんは、香坂が運営する緑青学院の理事長を勤めているんですけど、私が緑青学院大学の学生であることをいいことに、理事会室やら理事長室やら、やたらと呼び出されるようになって、何度も香坂の人間に囲まれていろいろとお話を聞かされました。『社長令嬢としての立場を』だとか『うちが本気を出せばOTOMIYAを追い込むことも』だとか。皆さん、かなり切羽詰まった形相でしたから、けっこう焦っていたんでしょうね。何しろ、清仁さんが緑青学院の理事長を続けている間に、爽太さんは香坂の中心事業の1つである貿易事業のトップに昇格して、香坂内の空気は3代目は爽太さんで決まりといった感じになってきていましたから。

何度呼び出されても講義の時間がありますから、さほど長く拘束されることもないし、大して気にしていなかったんですけど、毎回毎回清仁さんが不在の時間を狙って呼び出してくる卑怯な感じと姑息なさまが気にくわなかったので、清仁さんにご報告さしあげて、理事会から解任された人も出て、もう安心だろうと私も清仁さんも思っていたんですけどね。あの人たちは、どこまでも執念深くて、ついに空ちゃんまで巻き込んで利用しようとしたんです」

話ながら気が高ぶったのか、芙佳さんは自分のスカートをぎゅっと握って、ジュースをグイッと飲み干した。

「爽太さんが長期の海外出張に出ているすきに、空ちゃんに接触して『香坂のために、どうしても清仁さんとOTOMIYAのご令嬢には一緒になっていただく必要がある。香坂の嫁になるのだから、貴女も協力しなさい』と、これまた大勢の大人で囲んで脅しをかけたそうです。それで、空ちゃんが命じられたのが、私の周囲に男を近づけるなというもので、近づいて仲良くなって、あわよくば清仁さんとの仲を取り持てと指示されたそうです。

空ちゃんは、そもそも私と同じサークルに所属していましたから、接触するのは簡単なことで、私は清仁さんの許嫁になる件を『好きな人ができたから』という理由で断っていたので、とにかく私の周りにいる男性をなんとか排除しようと、あることないこと噂を言いふらして、私の恋が上手くいかなくなれば、おとなしく清仁さんと一緒になるだろうと思って動いていたそうなんです」

ここまでは、とにかくおとなしく芙佳さんの話を聞いていた俺だが、ここでつい口を挟んでしまう。

「いくら、大勢の大人に囲まれたからって、村松さんがそんな人たちの言うことを素直に聞く必要はないんじゃ」

「そうですね。でも、空ちゃんは、ずっと企業のために生きることを、それが自分の役割であり存在理由であるとすり込まれて生きてきたから、『香坂のため』と言われて小さいころからの刷り込みがフラッシュバックしてしまったんだと思うんです。まあ、これは爽太さんから聞いた話ですけど、空ちゃんのご実家である雲琉製薬は、香坂以上に企業としての利益追求に貪欲で、現社長と副社長である空ちゃんのご両親は跡取りではない空ちゃんには目もくれず、弟ばかりに愛情を注ぐ人たちだそうで、空ちゃんがご両親から注目してもらえるのは、コンクールで入賞するとか、対外的な場で良い成績を収めるとか、とにかく外の人間に雲琉の社長令嬢として良い意味で印象を残せたときだけだったそうなんです。『うちの約にたつことだけがお前の存在理由だ』なんて、面と向かって言われたこともあるそうです。そんな状況で香坂の令息の許嫁になるということは、空ちゃんにとって最大の雲琉の役に立つ役割が与えられたということです。そんな香坂の人間から脅しをかけられたら、断って香坂から見放されてしまって自分の存在理由が失われてしまうかもしれないことが恐ろしくてたまらなかったんだと思います。

でも、空ちゃんのがんばりもむなしくと言いますか、私はいっ君とお付き合いをしているフリを始めたわけです。香坂の悪い大人たちは、今度は私と恋人をなんとか別れさせろと空ちゃんに命じました。ここまでくると、もう作力を巡らせているというよりも、ただの迷惑な暴走ですよね。空ちゃんも無理な話だと分かってはいたものの、動かないわけにもいかずにいろいろと考えたそうですけど、同じ大学内の人間が相手ならともかく、一切の面識がないいっ君が相手では、当然どうすることもできなくて、あの日、サークルの飲み会の席で我慢の限界に達してしまって、全部から解放されたくて、勢いのままに手首を切ってしまったんだそうです」

ただ、後輩女性から行き過ぎた感情を向けられたために起こった騒動だと思っていた出来事の裏で、想像もつかないほどの大きな話が繰り広げられていたなんて、未だに信じられない部分もあるけど、こうやって順序立てて説明されては受け入れて納得するほかない。

ずっと、危ない人だと思っていた村松さんは、小さなころから大きなプレッシャーに晒され続けて、必死に周りの望みに応えようとがんばって、かみ合わなくなった歯車に耐えきれなくなった女性だった。あの日の行動は、完璧な身勝手からきたものではなくて、限界を超えた彼女の精一杯のSOSだったわけだ。

「でも、村松さんは、手首を切る前に芙佳さんに執着しているような発言をしていましたよね? 『初めて見たときから』みたいな」

俺がふと引っかかったことについて触れると、芙佳さんは呆れたような顔になって教えてくれた。

「それも、吹き込まれていたらしいですよ。空ちゃんが『自分が裏でいろいろしていることがバレたらどうしたらいいんだ』って聞いたら、こういう経緯だったんだと言えって。あくまでも空ちゃんが個人的にやったことで、自分たちは関係ないって逃げ道を作っていたわけです。空ちゃんは本当のことを言う勇気なんてないだろうってたかをくくっていたんでしょうね。本当に嫌な人たちです。

実際、私も清仁さんに説明されるまで気が付きませんでしたし、空ちゃんも清仁さんと爽太さんに何度も聞かれてやっと本当のことを話してくれたそうですから、本当に悪い人たちの思惑通りに上手く逃げられてしまうところでしたし」

腕を組んでムッとした表情の芙佳さんに、俺はとにかく「なるほど」とつぶやくことしかできなかった。

「とはいえ、空ちゃんが本当のことを話してくれましたし、空ちゃんのメールボックスに証拠になるメールのやり取りが残っていましたし、私が何度も呼び出されていたときのメールやら会話の録音やらもありますし、首謀者の割り出しが進んで、一気に叩く計画が現在進行中だそうですから、もう少ししたら、本当に騒動が終わりを迎えることになると思いますよ」

「芙佳さん、がんばったんですね」

「え?」

俺は、自然と口をついて出た言葉に我ながら驚く。とはいえ、発した言葉は俺が心から思ったことだ。

一番大変だったのは村松さんだったのかもしれないし、後始末に動いているのはおそらく清仁さんたちだろうけど、芙佳さんだって振り回された被害者だろう。それでも、ずっと毅然とした態度を貫いて、会話の録音までして、たいしたことないという雰囲気で話していた。だけど、ストレスを貯めていたのはたしかだと思う。村松さんは全部を話してここから心のケアをしていくことができるけど、芙佳さんは側にいる人間には本当のことを言えずに1人で抱え込んでいた中で、「いっ君には聞いてほしい」とこの話を俺にしたのは、やっぱり心のどこかで限界を感じていたからではないかと思ったのだ。

「芙佳さんは、すごくかっこいいと思います。でも、これからはいつでもどんなことでも俺が話を聞きますから、俺が離れていくかもだとか気にせずに話してくれたら嬉しいです。俺は、絶対に芙佳さんから離れたりしませんから」

俺は、そう言って芙佳さんのすぐ隣に移動すると、彼女の頬に触れてその目を覗き込んだ。驚いて丸く見開かれた芙佳さんの瞳が潤んで、涙が頬をつたう。それを拭って、そのまま彼女の唇に自分の唇を重ねた。

「…いっ君、ありがとう。大好き」

「俺も、芙佳さんのことが大好きです」

何度も唇を重ねて、少し離れて芙佳さんの顔を見ると、まだ潤んだままの瞳で上目遣いに見つめられて、人生で初めて理性がとびそうになった。でも、ちょうどそのタイミングで芙佳さんのスマホのアラームが鳴って、俺たちは我に返ってお互いの身体を離す。

「あ、そろそろ出ないと、集合時間の15分前です」

芙佳さんがスマホを確認して、俺も失いかけていた冷静さをなんとか取り戻して、少し不自然かもしれないくらいの笑顔でうなずいた。ところが、俺が起ち上がろうとしたとき、急に芙佳さんに抱きつかれて、そのまま首に腕を回される。

「芙佳さん? 早く行かないと、みんなを待たせちゃいますよ…」

言いながらも抵抗する意思なんて沸いてこなくて、俺はただ芙佳さんにされるがままになってしまう。

「…分かってます」

芙佳さんは、俺の頬に軽く口付けてから、耳元で囁いてくる。

「今度は、2人で遊びにきましょうね」

そうして、パッと俺から離れた芙佳さんは起ち上がると、もういつもの様子で笑っている。俺は「そうですね」とだけ応えてソファから起ち上がると同時に芙佳さんを抱き寄せて、今までで一番深いキスをしてから、荷物をまとめて、真っ赤になって呆然としている芙佳さんをからかっていつもの調子に戻して部屋を出た。

全く想像していなかった方向で濃い時間になった別行動だったけど、芙佳さんの家の話や、芙佳さんが巻き込まれていた騒動の真実を聞くことができて、やっぱり嬉しいと感じる。一層、芙佳さんとの距離が縮まった気がするからだろうか。

ホテルではなく、ショッピングモールの建物から外に出て、外気に触れるとしっかり身体も感情も落ち着いていって、みんなと合流するころには、俺も芙佳さんも本当にいつも通りのテンションに戻っていた。俺は、一度ホテルOTOMIYAの外観を眺めて、隣にいる芙佳さんを見て、さっきの芙佳さんの言葉を思い出す。

「今度は2人で」か…。そのときは、自分の理性が保つのかかなり心配だ。紳士的に振る舞えるように修行がひつようだな、なんのとは言わないが…。

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