5話 トリプルデート3
「桜也、見て! ヒトデがいる! 可愛い」
「綺麗な星形だね。さすがは海の星」
トリプルデートの最中、恋人で別行動をすることになって、私は桜也と水族館にやってきた。大水槽や熱帯魚水槽、イルカプールなどを回って、今は触れ合い水槽でヒトデをツンツンしているところだ。私がヒトデにおっかなびっくり触れるのを半歩後ろで桜也が見ているんだけど、桜也の表情がどことなく硬いのが面白い。桜也は海の生き物に触れることができない。たしか、5歳くらいのときにお父さんの釣りについて行って、釣った魚を触ろうとしたときに、それまでおとなしかった魚が急に跳ね回って、それがものすごく怖く感じて以来、海の生き物に触れなくなったんだって。でも見るのは綺麗だったり面白かったりして好きだから、水族館は好きなんだって。
「おー! ウニさん、美味しそうですなあ」
「今、通りがかった親子連れが蒼い顔でひよを見てたよ」
いくら触れ合いが許可されているとはいえ、ヒトデをツンツンし続けるのは良くないだろうから、ウニやらザリガニやらも順番にツンツンして、ついでに親子に変な人だと思われて、私は大満足。
「次はどこに行く?」
水道で手を洗ってハンカチでふきながら、私は案内板を見ている桜也の隣に立つ。
「ここからだと、トンネル水槽が近いかな」
「トンネル水槽かあ。海の中を歩いているみたいな気持ちになれてわくわくするよね。私、大好き!」
「ひよは、昔からトンネル水槽とか大水槽とか、大きな魚が泳いでいるところを見るのが好きだよね。サメとかエイとか」
「うん! 小さい子たちも可愛かったり綺麗だったりして素敵だけど、やっぱり大型の子たちはかっこよくていいなって思うんだよね」
「そうだね。でも、覚えてる? 始めて水族館に来たとき、ひよがトンネル水槽の中で急に動けなくなって、うちの父さんと母さんと手を繋いで泣きながらトンネルを抜けたの」
「めちゃくちゃはっきり覚えてる…。あのときはなんとなく上を見たら、ちょうど真上にエイがいて、自分が知ってる魚の形と違うし大きいし、自分に覆い被さっているみたいでそのまま落ちてくるんじゃないかって、ものすごく怖くなって動けなくなったんだよね…。桜也のお父さんとお母さんには本当に感謝してるよ…。
まあ、エイっていう魚をちゃんと認識して、水槽がそう簡単に壊れるものじゃないって分かってからは、すっかり大好きになったんだけど」
「ひよも成長したんだね…」
「ちょっと、子供扱いが過ぎるって! あれ私が3歳くらいのときの話でしょ?」
「そうだね。もうすっかり大人だよね」
桜也はそう言うと、私の手に触れてそのまま指を絡めてきた。
「そう、私は大人です」
私は、自分から桜也に身体を寄せて桜也を見る。桜也からも見つめ返されて鼓動が早くなっていく…。
「いて!」
「トンネル水槽はあっちみたいだね。ほら、ひよ行くよ」
「デコピンはないでしょ…。いい雰囲気だったじゃん…」
桜也に手をひかれながら、彼からデコピンを食らったおでこに触れつつ抗議すると、桜也はチラッとこちらを見て笑う。
「ごめん。でも、こんな公共の場でキスなんてしないからね」
「水族館なんだし、軽くチュってするくらいなら許される気がするんだけどなあ。芙佳さんも露木さんもすごく大胆で、ちょっと羨ましかったし…」
芙佳さんのアプローチのかけ方は私も憧れるところはあるけど、私はどちらかというと相手からきてほしいタイプだから、露木さんと翔菜のやり取りにすごく憧れをもった。もちろん、露木さんにキュンとしたとかではなくて、桜也と私に置き換えたときにすごくときめいたのだ。桜也が駅前とか人通りが多いところであからさまなスキンシップを取るタイプじゃないのは分かってるし、私も駅前で肩を抱かれるのは恥ずかしすぎるので遠慮したい。
だけど、せっかく2人きりになったし、デートだし、ちょっと期待したくもなるじゃない? 露木さんは言動から翔菜が大好きっていうのが溢れ出てる人だし、いつきも相手が芙佳さんとはいえ以外とガツガツしてるところがあるし…。桜也のことが大好きだけど、正直、今日他の2組を見ていてその恋人らしいやり取りを羨ましく思ってしまった。
「…ふーん、羨ましかったんだ…」
そう言って立ち止まった桜也の声は、いつもより低い気がした。怒らせちゃったのかな…? 今まで、桜也に注意をされたことは数え切れないくらいあるけど、桜也を怒らせたことなんてないし何かに怒っているところも見たことがないから、背筋が冷たくなる。
「…あの、桜也?」
「何がどう羨ましかったの?」
振り向いた桜也の声はいつもと同じで優しい。だけど、確実に目が笑っていない…。
「肩を抱いたり腕を組んだり、そういうイチャイチャが羨ましくて、2人きりになれたし、水族館なら全体的に薄暗くてさっきは人通りも途絶えてたから…。今なら軽いキスくらいならしてくれるかなって思って…。
他の2組みたいに、私も桜也とイチャイチャしたかったんです…」
こんなことをはっきり伝えるのは恥ずかしいけど、ごまかすのも違うと思って、私は素直に気持ちを白状した。というか、桜也が怖くてごまかすとか無理なんですが…。
「ふう…。羨ましかったとか言うから、章人にときめいたとかなのかと思ったよ…」
桜也は長く息をつくと、自分の前髪をくしゃっとしながら笑った。本気でホッとしている感じだ。
「私が言葉足らずだったのは申し訳なかったけど、私が桜也以外の男性にときめくなんてあり得ないから、ぜーったい!」
「そっか、ありがとう。でも、章人は同性の俺から見てもすごくいいやつだし、長時間ひよと章人が関わったのは今日が初めてだから、反射的に不安になっちゃったんだよね」
そう言って、弱ったように笑う桜也、なんだか胸がチクッとした。
「私がわがままを言ったせいで不安な思いをさせちゃってごめんね」
「ひよが謝ることなんてないよ。確かに、せっかくのデートなのに、今日はちょっとひよを放っておきすぎたからね。ひよが周りを見て羨ましく思うのも仕方がないと思うよ。
ねえ、トンネル水槽はもう少しあとでもいい?」
「え? うん」
「なら、こっちにおいで」
桜也に手を引かれてやってきたのは、クラゲ水槽のエリアだった。他のエリアよりも暗くて、いろんな色のライトで照らされた小さな水槽が並んでいる。どの水槽にも綺麗なクラゲがライトに照らされてほんのり色づき浮かんでいる。水族館の一番奥にあるエリアだからかとても静かで、控えめに流れるBGMも相まってすごくロマンチックだ。人気のエリアだと思うんだけど、今は私たち以外に誰もいない。
「すごく綺麗…」
私がピンクのライトに照らされたクラゲに見とれていると、後ろから桜也に名前を呼ばれた。何の気なしに振り返ると、思ったよりもすぐ側に桜也がいて、そのまま正面から抱きしめられた。ここまでの流れがあるから驚くことはなかったけど、代わりにこの場所の雰囲気にやられたのか頭がほわほわしてしまう。桜也、柔軟剤変えたんだ。この香り、すごく好きなやつだななんて、ぽやっとしながら考える。とても長い間抱きしめられていた気がするけど、しばらくすると桜也は私の身体を解放して、代わりに唇が重なった。それは、軽くチュッなんて可愛いものじゃなくて、こちらもすごく長い時間に思えた。唇が離れて桜也にまっすぐ見つめられたけど、こんなにムードのある場所のせいか目を合わせるのがすごく恥ずかしくて、顔を隠すように彼の胸に額を押し当ててしまう。
「少しは今日の埋め合わせになったかな?」
「はい、充分すぎるほどに…」
「それはよかった。なんならこのまま水族館を出てホテルに行く?」
「へ? …バ、バカ!」
「冗談だよ。でも、牧からペアの宿泊券をもらっちゃったから、今度本当に泊まりに来ようね」
「え、そんなのもらったの? ホテルって、ここに隣接してるホテルのOTOMIYAのことだよね? そこの宿泊券って、芙佳さん何者…」
「あれ、言ってなかったっけ? 牧はそのOTOMIYAを運営しているOTOMIYAグループの社長令嬢なんだよ。
だから、俺たちだけじゃなくて章人と広瀬さんにもペア宿泊券をあげたらしいよ。この間のお礼にって」
私、芙佳さんの驚きの情報に開いた口が塞がらない…。今日のこのトリプルデートもお礼の一環だって話だったのに、更に高級ホテルの宿泊券までプレゼントとなると、もうそれはお礼の域を超えている気がするけど、そんなつっこみも野暮に思えるほどに芙佳さんの正体に驚きが止まらないのだ。
ホテルOTOMIYAといえば、テレビや雑誌で特集を組まれることも多い人気のホテルだ。たしか、OTOMIYAグループはシティホテルを3つ、リゾートホテルを2つ国内に建てて経営している。今私たちがいる水族館を含むアミューズメントパークに隣接するホテルは、そんなOTOMIYAのシティホテルの1つだ。
「え、それって、いつきは知ってるの? 芙佳さんが社長令嬢だってこと。というか、あの2人がこのまま上手くいったら、いつきは逆玉になるってこと?」
「ひよ、とりあえず落ち着いて。いつきがそれを知っているかは分からないし、将来のことも分からないけど、まあ、そこはなるようになるんじゃないかな?」
「そ、そうだよね…。でも、あの品の良い雰囲気は、本物のお嬢様だから醸し出すことができるものだったのね…」
「確かに、立ち振る舞いに育ちの良さが出てるなとは感じるね。
でも、育ちがいいといえば、章人も負けてないよ。章人のご両親は、俳優の露木涼(りょう)二(じ)さんと元アイドルの三輪(みわ)るみさんだからね」
「…っ!?」
「あ、驚きすぎて固まった。ひよ、戻ってこーい」
「は! ちょっと信じられなさすぎて思考がストップしてた…」
「無理もないよ。俺も始めて聞いたときはひよと同じような反応したし」
露木涼二といえば日本人なら知らない人はいないほどのちょう有名俳優で、確か数年前にハリウッドに移り住んだってニュースになってた。奥さんは三輪るみといってアイドルとしていくつもヒットソングを売り出した人で、今でもテレビやラジオで彼女の曲がよく流れている。おしどり夫婦って有名で、奥さんも一緒に渡米しているらしいけど、そんなビッグカップルの息子が、あの露木さん…。たしかにすごくイケメンで、芸能人でも余裕でやっていけそうなオーラがあると思うけど。翔菜、すごい人を恋人にしたんだね…。
「あ、軽い感じで話しておいて悪いんだけど、章人の家族のこと、広瀬さんには言わないでおいてね。章人、別にご両親のことを隠したいと思ってるわけではないらしいんだけど、前にお付き合いしていた人にご両親のことを話したら、そのあと少ししてふられちゃったらしくて。だから、広瀬さんに言うタイミングをつかみかねてるところがあるらしいんだけど、章人本人よりも先に周りからそのことを聞いたら、広瀬さんがどう思うか分からないし。だから、広瀬さんから話題が出るまでは、これでお願いね」
そう言って口元で人差し指を立てて見せた桜也に、私も黙ってうなづき自分の口元に人差し指を立てる。
「でも、そう考えると、今日のメンバーの家族のハイスペック率高くない? 芙佳さんと露木さんもすごいけど、桜也のお父さんは売れっ子の作家さんだし、翔菜のお父さんは有名プロピアニスト…。一般家庭はうちだけか…」
「うちの父さんは、とっくに第一線からは退いて今じゃ気まぐれでマイペースな喫茶店オーナーだけどね。にしても、広瀬さんのお父さんはプロピアニストなんだ。本当にすごいね」
そう言って驚く桜也に、私は苦笑してしまう。
桜也のお父さんは、有名なミステリー作家さんで倉地家久(いえひさ)という本名で活躍している。数年前に人気のシリーズ小説の最終巻を書き上げ、現在は長編小説の執筆から離れて短編小説やコラムを書きながら、夢だった喫茶店をオープンさせている。そんな売れっ子作家の息子である桜也もかなりのお金持ち家庭のお坊ちゃんなわけだけど、倉地家は大きな家に住むわけでも高級車を所有するわけでもなくブランド物にもあまり興味がないお家だから、つい忘れてしまいそうになる。でも、自宅の他に一軒家を購入して1階部分を喫茶店に改装したり、大学生の息子に新車を買ったり、やっぱりお金持ちだなって感じる部分もあるお家だ。
「いや、私から見れば、桜也のお父さんもまだまだ現役の売れっ子作家さんだし、個人で喫茶店を開くのもすごいことだと思うんだけど…。
まあ、いいか。翔菜のお父さんは長谷川(はせがわ)啓一(けいいち)さんっていう、世界的に活躍していたプロのピアニストだったんだって。翔菜が中3のときに交通事故で亡くなられたそうだけど、私、演奏会の動画を見せてもらったことがあって、音楽に詳しくないから月並みな表現になるけど、すごく感動した…」
翔菜のお父さん、長谷川啓一さん。そのピアノの音色は画面越しでも胸に迫るような、引き込まれるような魅力があった。ミュージカルとは違って言葉はない、ピアノの音だけが響いているのに、目の前でお芝居を見ているような、物語性のある世界に包まれたような感覚だった。その演奏を生で聞いたなら、覚える感動はより強くなったのだろう。素人の私が一度聞いただけでこれほどの気持ちになったのだから、本当にすごいピアニストだったのだと思う。
私が感動を思い出して熱い息をつくと、桜也がそっと口を開いた。
「…パスケース」
「え、パスケース?」
「うん、遊園地エリアで広瀬さんが落としたパスケースを拾ったときに、そのパスケースに『Keiichi Hasegawa』って刺繍が入ってたんだ。お父さんの名前だったんだなって」
「ああ、お父さんの片身なんだって。前に気になって聞いたの、パスケースに書いてある名前、誰って」
私と翔菜は、高校1年生のときに仲良くなった。初めて一緒に下校した日、改札でチラッと見た翔菜のパスケースは、女子高生が持つには上等すぎるような黒い皮製の物で目を引いた。素敵だなと思って見せてもらったら、金色の糸で縫われた「Keiichi Hasegawa」という文字を見つけたのだ。「もしかして彼氏?」なんて軽い気持ちでその名前について質問したら、翔菜は少し寂しそうに笑ってお父さんの話をしてくれた。今思えば、あのときはまだ翔菜のお父さんが亡くなられて半年も経っていなかったから、翔菜に無理をさせてしまったなと申し訳なく思う。
「片身か…。とても綺麗に使われているみたいだったし、俺がパスケースを拾ったときに、広瀬さんはものすごくホッとした表情だったし、広瀬さんにとって、あのパスケースは、本当にお父さんの片身として心の支えになっているのかもしれないね」
「そうだね。ほら、これが翔菜のお父さん」
私は、スマホを操作して画像検索でヒットした翔菜のお父さんの写真を見せる。
「広瀬さんはお父さん似なんだね。優しそうな笑顔だ」
スマホの画面を覗き込んだ桜也は、そう言って微笑む。たしかに、翔菜はお父さんに似ていると思うし、写真に写るお父さんは穏やかそうで優しげな微笑みを浮かべている。
だけど、私は画面を覗き込む桜也のほうに思わず見とれてしまった。「優しそうな笑顔だ」と言ってせつなそうに目元を細めた桜也の顔が、翔菜のお父さんに負けないくらい優しげで、こんな会話の流れで不謹慎なようにも感じるけど、ついときめいてしまう。桜也も子どもができたら優しくて素敵なお父さんになるんだろうななんてことが頭をよぎって、桜也の顔をじっと見つめてしまって、桜也とふいに視線が重なる。自然と桜也と小さな子どもと自分が並んだ姿を想像していたので、至近距離から視線が重なったことに必要以上にドキドキしてしまう。
「ひよ?」
桜也が不思議そうな表情で、私の顔を覗き込んできたとき、私たち2人しかいなかったクラゲ水槽エリアに人が近づいてくる足音が聞こえて、私たちは慌てて距離をとる。私は、高鳴る鼓動をそっと落ち着けた。
「そろそろトンネル水槽に行こう」
私が気を取り直して桜也の手を握ると「そうだね」と桜也も手を握り返してくれた。
そうして、私たちはクラゲ水槽エリアを出てトンネル水槽へとやってきた。大型の生物が多く展示されている大型水槽で、優雅に泳ぐウミガメやトラフザメが目を引く。本当の海の中の海底トンネルを歩いているようで、とても心が躍る。
「あ、エイ発見」
桜也が指さした先を見ると、水槽の床の近くに、あの特徴的な大きくて平べったい生き物がいた。
「おお! やっぱり大きいね。このゆったり動く感じも、小さいときは不気味に感じてたんだよね。勝手にびびって号泣しちゃってごめんな、エイさん」
私が謝罪を述べても、当然ながらエイは無反応。相変わらず水槽の床すれすれの場所でゆったりのんびりしているご様子だ。
「あの岩陰に隠れてるのはウツボかな?」
私が大水槽の観察に夢中になっていたとき、ふいにスカートの裾の低い位置を引っ張られた。驚いて見てみると、私の隣でうつむいたまま私のスカートを握りしめている小さな女の子がいた。突然のことで、一瞬その子を幽霊的な何かかと思ってしまって心臓が跳ねたけど、すぐにそんなはずはないと思い直して、スカートを握るその子の手をそっととって、私はその場にしゃがみ込んだ。3歳くらいの女の子の手や身体は小刻みに震えている。
「どうしたのかな? 迷子?」
私は、初めての経験に内心焦りつつも、とにかく女の子に声をかけた。だけど、女の子からの反応はない。私の頭には、先ほど語りかけたエイの姿が浮かんで消える。混乱してどうしようと思ったとき、私がいるのと反対側の女の子の隣に桜也がしゃがみ込んだ。おっと、一瞬とはいえ、桜也の存在を忘れていた。桜也は、女の子の背中をさすりながら、優しくゆっくりとした口調で話しかける。
「お名前、言えるかな?」
「…なつみ」
女の子は、小さく涙声で応える。
「なつみちゃん、今日は誰と一緒に来たのかな?」
「…パパとママとじいじとばあばとにいに」
桜也が更に尋ねると、なつみちゃんは途切れ途切れに応えてくれる。
「そっかあ。今、みんなはどこにいるのかな?」
この桜也の問いかけに、なつみちゃんはフルフルと頭を横に振った。やっぱり迷子のようだ。私と桜也は顔を見合わせてうなずきあうと、桜也は再びなつみちゃんに話しかけた。
「じゃあ、お兄さんたちが、なつみちゃんのパパたちに会えるところに連れて行ってあげるから、ちょっとだけ、ここでお姉さんと待っててくれる?」
なつみちゃんが、コクリとうなずいたのを確認すると、桜也は起ち上がってトンネル水槽を出て行った。たぶん、トンネル水槽を出たところにある案内板で迷子センターの場所を確認するためだろう。手元のパンフレットでも迷子センターの紹介はされているだろうけど、いろんな情報が書かれたパンフレットをめくるよりも案内板を見たほうが早いと思ったんだと思う。
さて、なつみちゃんと2人、トンネル水槽の通路端に残された私は、どうしようかと頭をフル回転させている。相変わらずなつみちゃんはうつむいたままだし、ずっと握っている彼女の手の震えも止まらないままだ。私は、さっきの桜也を思い出しながら、優しくゆっくりした口調で、なおかつできるだけシンプルな質問形式でなつみちゃんに話しかけてみる。
「なつみちゃんは、大きなお魚って好き?」
「…怖い」
なつみちゃんが返事をしてくれたことで、私は心の中でガッツポーズをしたと同時に、自分の予想が当たっていたことにも喜びを覚えた。家族とはぐれて不安ではあるだろうけど、全く顔を上げようとしないうえに震えているなつみちゃんの様子を見て、迷子になったこと以外に何か別の理由があるのではないかと感じたのだ。しかも、このトンネル水槽は一本道で、かりにここではぐれたのなら、親御さんがすぐに見つけられるのではないかと思うし、別の場所で迷子になってここまで歩いてきたけど、大水槽を泳ぐ大きな魚が怖くて、思わず側にいた私のスカートをつかんだのではないかという予想を立てていたのだ。私も、なつみちゃんくらいの歳のころは、大きな魚が怖くてトンネル水槽で動けなくなったことがあるしね。
「そっか、怖いのに泣かずにがんばってえらいね」
私がなつみちゃんの頭を撫でると、なつみちゃんが私に抱きついてきた。本当に怖くて仕方がないんだろうな。号泣してもおかしくないのに、一生懸命に泣くのを我慢しているなつみちゃんは、本当にすごいと思う。私は、通路に完全に膝をついてなつみちゃんを受け止めると、その背中をさすった。
「なつみちゃん、お兄さんが戻ってくるの、ここから出て待っていようか。歩ける?」
「怖い。魚、落ちてくる」
私に身体を押しつけるようにしながら、なつみちゃんが涙声で応える。本当に、小さい頃の私とそっくりだ。大きなエイが頭上を通るのを見た瞬間に「落ちてきたらどうしよう」と急に怖くなって、早くここから出たいのに、怖すぎて動けなくなった私。もしかしたらなつみちゃんも、最初は冒険感覚でこのトンネル水槽に入ったけど、大きな魚が頭上のガラスすれすれを泳ぐ姿を見て、急に怖くなっちゃったのかもしれないな。
私は、自分が小さいときにトンネル水槽からどうやって出たかを思い出しながら、なつみちゃんに語りかける。
「怖いね。でもね、大人には魔法が使えてね、大人と一緒にいたら、絶対にお魚さんは落ちてこないんだよ。だから、今なつみちゃんはお姉さんと一緒にいるから、絶対に大丈夫」
私が明るい声でそう言うと「本当に?」となつみちゃんが初めて顔を上げてくれた。くりっとした目が可愛らしい。涙で濡れた目元と頬を優しく拭ってあげてから、私は満面の笑顔でうなずいて見せた。すると、なつみちゃんもニコッと笑ってくれて、私のむねが暖かくなる。
「お待たせ」
そのとき、桜也がこちらに走って戻ってきた。私たちの様子を見て、桜也もホッとしたように笑顔になる。
「お兄さん戻ってきたから、ここから出ようか。お姉さんとお兄さんでなつみちゃんの手を繋いであげるから、お魚さんは絶対に落ちてこないよ。どう? 行けるかな」
私がなつみちゃんに確認すると「うん」と元気な返事が返ってきた。私がなつみちゃんの左手を、桜也が右手をとって3人並んでトンネル水槽を歩いて行く。クラゲ水槽エリアで頭に浮かんだ桜也と自分の未来の姿がもう一度浮かんできて、ちょっと恥ずかしいななんて思っている間に、無事にトンネル水槽を抜けることができた。私たちは3人でハイタッチをして、そこからはさっきまでが嘘のように元気になったなつみちゃんとお話ししながら迷子センターまで歩いたのだった。
迷子センターにつくと、タイミング良くなつみちゃんの家族に会うことができて、その場ですぐになつみちゃんを引き渡す。どうやら、なつみちゃんは水族館内の遊具スペースで遊んでいたところ、大人が目を離したすきに1人で魚を見に行ってしまって、そのまま迷子になったそうだ。ご家族も今まで必死に探していたのだと思う。なつみちゃんの姿を見つけた途端に全員の顔が安心の色に染まっていた。私たちは何度もお礼を言われながら、なつみちゃんともう一度ハイタッチをして迷子センターをあとにした。
「ふう、最初はすごく焦ったけど、無事に家族と合流できてよかったあ」
私が、達成感と安心感で息をつくと、桜也も笑ってうなずいた。
「ひよのおかげで、なつみちゃんが元気になってくれて安心したよ」
「うーん、私っていうより桜也のお父さんとお母さんのおかげだけどね」
「大人の魔法ってやつ? 懐かしいけど、ひよはあのとき小さかったのによく覚えてたね」
「ものすごく怖い気持ちでいっぱいだったところに、桜也のお父さんとお母さんが『大人の魔法』の話をしてくれて、一気に安心したのをはっきり覚えてるよ。なつみちゃんも私と同じで大きな魚が落ちてくるかもって怖がっていたから、これは使えるって思ったら大正解だった」
私が3歳のころ、桜也といつきと一緒に桜也のご両親に水族館に連れて行ってもらったことがある。初めての水族館にはしゃいでいたけど、トンネル水槽でエイに驚いて号泣しながらその場にうずくまった私に、桜也のご両親が話してくれたのが「大人には魔法が使えてね、今お魚が絶対に落ちてこないように魔法をかけたから、もう大丈夫だよ」という話だった。それを聞いた私は、ものすごく安心したのを覚えている。その後、まだ半べそをかきながら、桜也のご両親に両手を繋いでもらってなんとかトンネル水槽を通り抜けたのだ。こうやって振り返ってみると、私はかなりの大号泣をかましたのに、なつみちゃんはそこに迷子っていう要素が追加されていたにも関わらず、がんばって涙をこらえようとしていたのは、やっぱりすごいと思う。あの子は強い子に育ちそうだなんて、謎目線の推測をしながら、なんだか暖かい気持ちで桜也に腕を絡めてみる。ちょっと、芙佳さんの真似をしてみたのだ。
「ひよ、どうしたの?」
嫌がるかなと思った桜也だけど、やってみると案外まんざらでもなさそうな顔をしている。たまには私からアクションをおこすのも悪くないかもしれない。
「別にー、嫌だ?」
少しイタズラ心をくすぐられて、私は桜也を見る。
「嫌じゃないけど、今のひよの表情、牧にそっくり」
「へへ、なんか、牧さんがいつきにぐいぐいいきたくなる気持ちが分かったかもしれない。桜也がてれて戸惑ってるのを見るの、なんかいい」
「もう…。あ、そろそろ集合時間だから、水族館出よう」
「はーい」
ごまかすように時計を見る桜也に、いつもとは違うときめきを感じて、結局水族館の出口付近まで腕を組んだまま歩いた。なんだか、いろいろあった別行動だったけど、すごく楽しい時間だったな。気持ちが大きくなって大胆に腕を絡めて、こういうのもいいななんて思ったけど、水族館を出て外気にさらされた途端、非日常から日常に戻ったような感覚に包まれて、一気にさっきまでの自分の行動が恥ずかしくなったのは、桜也には内緒の話だ。
また、今度は2人きりでデートに来たいなって、そびえ立つホテルOTOMIYAをチラッと見てから、私たちはみんなとの集合場所へと歩き出したのだった。
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