短編1 Let's share food. 翔菜&章人の場合
自宅のダイニングルームで、私、広瀬(ひろせ)翔(か)菜(な)は、現在、かなり究極の選択を迫られている。
ただいま、ゴールデンウィーク直前の土曜日の午後3時。家族は皆出かけていて、恋人である露木(つゆき)さんと二人きり。とはいっても、お家デートというわけではなく、家庭教師と生徒だったときと同じように、露木さんに勉強をみてもらっているだけ。
家族には、露木さんとお付き合いを始めたことは報告済みで、今日、露木さんを自宅に招くことも承諾を得ている。抜かりは無い。
露木さんは、2年間私の家庭教師だったことで、うちの家族全員と顔なじみであり、「露木君なら、翔菜と二人きりになっても安心できる」という謎の信頼を得ているので、今回の件も、二つ返事でOKが出た。8歳上のお姉ちゃんだけは、ちょっと渋い顔をしていたけれど、
「まーね、2年間、翔菜と二人きりっていう何でもできちゃう状況にあって、一度もやましいことしなかったのは褒めてやるけど、彼氏になっってリミッター外れちゃうかもしれないじゃない。
いい?翔菜。男は皆狼!姉の明言、しかと胸に刻みなさい!
あんたはぽやっとしたところがあるから…。まぁそこが可愛さでもあるけど、いくら彼氏でも油断しちゃダメよぉ」
と、缶ビール片手に熱弁してきたので、酔っ払いのだる絡みとして受け流しておいた。
露木さんは、意地悪なところのある人だけれど、人が本当に嫌がることはしない人だし、付き合って約1ヶ月、手を繋ぐ以上のことはしていないから、いきなりどうにかなることはない…はず?
と、思考がちょっと恥ずかしい方向にそれ始めたので、私は改めて、今、自分の目の前にある物に視線を向ける。
ショートケーキ、ガトーショコラ、ティラミス、ロールケーキ、タルト、バームクーヘン。
そこには、露木さんが買ってきてくれたケーキ屋さんの箱があり、6種の美味しそうな洋菓子たちが綺麗に収まっている。私の家は、私とお姉ちゃん、お母さん、母方のおじいちゃんとおばあちゃんの5人家族なので、露木さんが気を使って家族の分まで買ってきてくれたのだ。
私は、箱の中に並ぶ6種の洋菓子を前に、小さなうなり声をあげる。
箱を挟んで対面に座る露木さんが片肘をついてにこりと微笑んだ。
「そこまで必死に選んでくれると、買ってきた者としては、結構嬉しいな」
「だって、どれも美味しそうなんですもん…。でも…。決めました!バームクーヘンにします…」
「苦悩の表情が消えてないけど、他にどれと迷ったんだ?」
「…ティラミス…」
私は、思い切って決断したはずなのに、ティラミスを見て心が揺れる。元々優柔不断な性格なのだけれど、食に関しては特に一つに絞ることが苦手だ。だって、どれも美味しそうで、できることなら全部食べたいのに、そこから1つに絞るというのは、かなり大変だ。
ティラミスは、そのほろ苦い味が大好きで、普段からよく買って食べている。だけど、今回は、季節限定の桜風味のバームクーヘンが魅力的に見えて、そちらを選んだ。
「ふーん、本当にバームクーヘンでいいのか?ここのティラミスは美味しくて人気らしいぞ」
「もう、決意が揺らぐようなこと言わないでくださいよ…。いいんです。季節限定物を逃すわけにはいかないですから」
私は、悪魔のささやきを振り切り、バームクーヘンを箱から取り出す。ほんのり桜色で、見た目の軽やかさに反してずっしりとした重量感がある。とても美味しそう。
「なら、ティラミスは俺が貰おうかな」
そう言って、露木さんも箱からティラミスの入った容器を取り出す。
これも露木さんの意地悪だろうか?家族の誰かが食べるなら、その時一口貰えばいいかという私の計画を見透かしての行動か?露木さんなら、それくらいの知恵ははたらきそうな気がする…。おのれ、食べ物の恨みは怖いんですからね。
透明なプラスチック容器に入ったティラミスは、綺麗な層を描いていて、これまた美味しそうである。つい凝視してしまいそうになるのをこらえて、私は洋菓子の箱の蓋を閉じ、冷蔵庫に入れに向かう。ついでにバームクーヘン用にフォークと、ティラミス用にスプーンを持って、ダイニングに戻った。
「ありがとう。広瀬」
露木さんにスプーンをわたして、私も席に着き直し、ティラミスのことは一旦忘れて、わくわくでバームクーヘンにフォークを入れる。そうして食べたバームクーヘンは、予想以上に美味しいものだった。
「このバームクーヘン、すごく美味しいです!」
「お、良かった。桜風味のお菓子は好き嫌いが分かれるから、買うかどうか迷ったんだけどな。選んで正解だったか」
嬉しそうに笑う露木さんに、私は何度もうなずいた。
確かに、桜の塩漬けとか桜餅とか、苦手な人もいるけれど、元々私は好きな味だ。春のイチゴや秋の栗など、季節ごとの代表的な味覚は多いけれど、桜はその中でも特別だと思う。他のものは旬の季節以外でも食べられないということはないけれど、桜は、春の短い期間にしかほとんど味わえない特別感がある。
「大正解です。桜の風味がふんわり香る感じで…。うーん、とにかく美味しいんです」
もう少し上手に味を伝えたいけれど、素人に食レポはハードルが高い。
「そっか。広瀬が美味しそうに食べるから、俺もバームクーヘン食べたくなってきたなー」
「あげませんよ。露木さんにはティラミスがあるじゃないですか」
私は、企むような視線を向けてくる露木さんから、バームクーヘンを守るべく身構える。
「そんなに身構えなくても、無条件に横取りしたりしないから」
露木さんから本気で笑われたけれど、関係ない。バームクーヘンはなんとしても守り抜く。
「なぁ、広瀬。ゲームしないか?」
「え、ゲームですか?」
ひとしきり笑い終えた露木さんから、かなり唐突なことを言われて、私は間の抜けたような反応を返してしまう。
「あぁ、お互いのケーキをかけたゲームだ。じゃんけんして勝った方が、お互いのケーキを好きにしていいってルールな。広瀬が勝てば、俺のティラミスを好きに食べていいぞ。どうだ?」
やっぱり、露木さんは、未だに私がティラミスに未練を残していることをわかっっていたのね…。
「いいですよ。絶対勝ちます」
そうして、食べ物の恨みをはらすべく挑んだじゃんけんに、私はあっけなく敗れた。
被害妄想からの恨みだったから、神様から見放されちゃったかな?いいもん。そもそもこれは露木さんが買ってきてくれた物なのだから、露木さんにはバームクーヘンを食べる権利がある。だけど私は、一人1つという制約の中で、バームクーヘンを選んだのだから、ティラミスを選んだ露木さんに恨み言を言う権利なんてないもの。おとなしく、バームクーヘンをお分けしましょう…。
「よし、それじゃ、広瀬。口開けて」
「へ?」
バームクーヘンが乗ったお皿を露木さんにわたそうとしていた私は、動きを止め、露木さんを凝視する。
露木さんは、いつもの意地悪な表情を浮かべて、もう一度、
「ほら、口開けて」
と繰り返す。
「何言ってるんですか?」
「じゃんけんに勝った方が、お互いのケーキを好きにしていいってルールだっただろう?だから、俺の意思で、広瀬にティラミスを分けてやることにした。ただし、俺から広瀬に食べさせるって形式でな。だから、早く」
はめられた…。てっきり勝った方が負けた方のケーキを一口貰えるってだけのことだと思ってた…。
私は、露木さんの意図を理解して、途端に恥ずかしくなって、視線を斜め下に下げる。だって、それって、世に言う「あーんして」ってやつをやろうとしているわけでしょう?そんなの、女友達とならふざけたノリで簡単にできるけれど、露木さんにあーんしてもらうなんて、恥ずかしくてたまらない。
「翔菜?」
「!」
何も言わずにうつむいた私に、露木さんは、優しく下の名前で呼んでくる。驚いて、思わず露木さんに視線を戻してしまった。露木さんと目が合って、ドキドキしてくる。
「名前…。私が下の名前で呼べるようになるまで呼ばないんじゃなかったんですか?」
「そうだけど、下の名前で呼んだら、こっち向いてくれるかなと思って」
そう言って、イタズラに笑う露木さん。ずるい人だ…。
「…もう」
「ほら、広瀬。そろそろ心の準備できた?」
露木さんは、なんとしても、私にティラミスを食べさせるつもりらしい。別に、私もこういう恋人っぽいことをしたくないってわけじゃない。だけど、露木さんと接していると、いつも恥ずかしくて視線をそらすことしかできないでいる。
でも、恥ずかしがってばかりじゃ、いつまでも前に進めない。進みたい気持ちがあるなら、ちゃんと一歩前に踏み出さないと。
私は、膝の上で両手をぎゅっと握って、露木さんを見てうなずく。
露木さんは、一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔になって、ティラミスをスプーンですくい取ると、
「はい、口開けて」
と、歯医者さんが患者に言うような調子で言う。何というか、恋人らしいムードのようなものが皆無である。
ティラミスが口に入る直前で、恥ずかしさに耐えきれなくなって、私は目を閉じたけれど、ほぼ同じタイミングでティラミスが口に入ってきた。
私は、瞬間的に顔を両手で覆って、うつむく。心臓がバクバクいって、なかなか収まらない。
「美味しい?」
露木さんの問いかけにも、ただ何度もうなずくことしかできない。本当は、緊張で味なんてわからなかった。もったいない…。
「そっか。なら、次は広瀬が俺にバームクーヘン食べさせて?」
露木さんは、テレるって感情がないのかしら?そのメンタルを、少し分けてほしい…。
「ちょっと、心臓が保たないので、自分で食べてください」
そう言って、私は、露木さんの顔を見られないまま、バームクーヘンを露木さんの方へ押しやった。
「仕方ないな。今日はこれくらいで勘弁してあげよう。
よく頑張ったな、広瀬。すごく可愛かったよ」
露木さんは、そう言って、うつむいたままの私の頭を優しく撫でてくる。謎の上から目線についてはこの際おいておくとして、露木さんはいつも不思議だ。今回みたいに、口ではしょっちゅう、私をテレさせるようなことを言うけれど、私がそれに乗っかると、いつも驚いた表情をするし、私がどんなに赤面してもうつむいても引き下がらないのに、私が本気で拒否したらあっさり引き下がる。引き際を心得てくれていて、私のペースに合わせてくれているのはわかるし、そういう、実は優しいところが大好きだけれど、露木さんが言うことが、本気で私に求めていることなのか、私がテレル様を見ることを楽しんでいるだけなのかが、わからない。
露木さんとお付き合いしてわかったことだけれど、私は、露木さんに対して、あまり素直な反応を返すことができない。本当はもっと甘えたいし、恋人らしいこともしたいのに、いざ露木さんから手を差し伸べられると、恥ずかしさが先行して、なかなか素直にその手を取ることができない。
もしも、露木さんがもっと早くこの関係を前進させたいと思っていて、私が素直になれないせいで、露木さんに我慢をさせていたらどうしよう…?
普段、軽口のように発せられる露木さんからの言葉が、全部心からの素直な欲求なのだとしたら、少しずつでも、私からも歩み寄っていかないと。何度うつむいても、突っぱねてしまっても、何度でも手を差し伸べて、私が握り返すのを待ってくれる露木さんに、甘えてばかりはいられない。
私は、ようやく顔のほてりが収まって、ゆっくり顔を上げる。するとすぐに、露木さんの優しい目と、視線が重なる。
「お、復活したか?」
「露木さん、私、これからもっと頑張りますね」
「ん?何を」
「えーっと…。じ、受験勉強の話です」
素直に歩み寄るのは、まだまだハードルが高いけれど、これからも露木さんの笑顔を隣でたくさん見られるように、諦めずに頑張ろう。
首をかしげる露木さんをなんとかはぐらかしつつ、密かにそう決心した。
そんな、春のとある日の午後のお話。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます