第4話 少しいびつな欲を重ねて

村松(むらまつ)さんの騒動から2週間。俺、橘(たちばな)いつきは学校帰りの電車の中、ドアと優先席の間に立って、参考書に目を通していた。帰宅ラッシュよりも少し早い時間のためか、車内は座席には座れないものの、通路に立っている人はまばらという混み具合だ。

受験生となって1ヶ月半、教室内は少しずつ受験モードに切り替わってきた。とはいえ、まだまだ根詰める時期というわけではないので、俺も空いた時間に参考書をひらく程度で、今もイヤフォンで音楽を聴きながら、何となく手持ち無沙汰で参考書を眺めている感じだ。

あの騒動があった日、俺が寝てしまった深夜に、牧(まき)さんから改めてお礼と謝罪のメッセージが届いていた。

「いつき君たちのおかげで、本当に助かりました。

直接お礼がしたいので、よければ、今度一緒にお出かけしませんか?」

次の日の朝、起き抜けにこのメッセージを見た俺は、ドキッとして布団から飛び起きてしまった。

だって、俺は次に牧さんに会った時に、彼女に告白すると決心したのだ。牧さんを困らせたくはないし、怖がらせたくもないから、今の彼女に思いを伝えるのは控えた方がいいのではないかとも思うけど、そんな理性では抑えられないほどに、牧さんへの思いが強く大きくなっていることを自覚してしまったから。あの騒動がきっかけで、牧さんを他の誰にもわたしたくないという強い感情がうまれてしまったから。

俺は、牧さんからの提案を了承するメッセージを送信し、詳しい日程などはまた連絡するという牧さんからの返事でやり取りが終了してから今日まで、彼女からの連絡を待ち続けている状態だ。

正直、いつ牧さんからの連絡がくるのか気になりすぎて、他の事が少々手につかなくなってきている。牧さんから提示された日が、俺の勝負の日になるわけだ。俺が勝手にそう決めただけなのだが、なかなかこない牧さんからの連絡に対して、早くきてほしくてもやもやするような、いっそのこと直接お礼という約束が何かの理由でキャンセルされて無くなってしまえばいいのにというような、両極端な感情がぐるぐると渦を巻いている。

この2週間、何をしていても、気が付けば牧さんのことを考えてしまって、「今は何をしているのかな」とか、「どんなふうに告白しようかな」などと想像を巡らせては、思わず口元が緩みそうになるのを必死に我慢することを繰り返しているせいで、表情筋に若干の疲労を感じるようになってきた。

今も、参考書を見ていたはずが、牧さんの顔が浮かんできて、反射的に口元を手で隠してしまった。

「あの、大丈夫ですか?」

突然、斜め後ろからふわりとした女性の声がして、俺は勢いよく振り返った。

するとそこには、この2週刊、俺の頭の中を支配し続けていた人が、心配そうな顔で立っていた。

「え、牧さん…」

あまりに突然のことで、俺は幻でも見ているのかと、一瞬本気で思ったが、牧さんは嬉しそうに俺の隣までやってくる。

「はい、牧です。いつき君に似ている子がいるなーって見ていたら、突然口元を押さえてうつむいたまま壁に背中をあずけたので、具合が悪くなったのかなと思って声をかけたんですけど、まさかいつき君本人だったなんて。なんだか運命みたいですね」

そう言ってくすくすと笑う牧さん。あの騒動の後、初めて直接顔を合わせたが、とりあえず笑えるくらいの元気はあるようで安心した。ちなみに、牧さんが「運命」とか言うのはいつものことなので、ものすごく心を乱されるが、表情には出さないように軽く受け流す。ここで動揺したら負けなのだ。俺が牧さんと半年間交流して、最近やっと身につけたスキルである。

「そうですね。

でも、紛らわしい行動して、心配かけてすみません。俺、具合が悪いわけじゃなくて、読んでた参考書でちょっと難しいことが書いてあるところに当たって、どういうことか考えてたら、無意識に変な体勢になってしまって…」

我ながら苦しすぎる言い訳になってしまったが、まさか「貴女のことを考えてニヤついていました」なんて、口が裂けても言えないので、手に持っていた参考書を牧さんにアピールしつつ謝罪する。

「そっかぁ、いつき君、受験生さんですもんね。電車の中でもお勉強だなんて感心です。

あ、それじゃぁ、私こそ、勘違いしてお勉強の邪魔しちゃいましたね。ごめんね」

そう言って、自分の両手を合わせてみせる牧さんに、俺はあわてて言葉を返す。

「いえ、俺、牧さんに会いたかったんで、声かけてもらえて、すごく嬉しいです」

なぜ俺は、牧さんを相手にすると、肝心なところで気持ちを隠すことができないんだろうか。こんなにストレートに「会いたかった」なんて、恋人でもない男から言われても反応に困るだろう。

牧さんは、片手を口元に添えてうつむき加減で応える。

「あんなことがあって、心配かけたまま連絡もろくにとってませんでしたからね。ずっと心配してくれてたんですよね。ありがとう。

私は元気なんだけど、やっぱり事情が事情だから、いろいろと後処理のようなものがあって、なかなか連絡する余裕が無くて、ごめんなさい。

だけど、私も早くいつき君に会いたかったんです。早く会って、元気な姿を見せて安心してもらいたくて。だから、今日会えてよかったです」

そう言って笑う牧さんの表情に、俺は言いようのない違和感を感じた。いつも通りの牧さんの笑顔のはずなのだが、それが一瞬貼り付けたような無理矢理菜笑顔に見えたのだ。

だけど、あんなことがあって、きっと牧さんは傷ついていて無理に元気な自分を演じているのではないかという、俺の先入観のせいでそう見えただけかもしれない。

「俺も、牧さんの元気な顔を見られてよかったです」

「はい!

あ、お礼の件なんですけど、日程とか、もう少し待っててもらってもいいですか?せっかくなら、とっても楽しいお出かけをしてもらいたいので」

「…あ、はい…」

やっぱり変だ。いつもの笑顔が時折揺らいでいるように見える。確実に、いつもの彼女とは様子が違う。

「…いつき君?」

「牧さん、この後、時間ありますか?」

「え?今日はもう帰るだけなので、ありますけど。いつき君、突然真面目な表情になって、どうしたんですか?」

「久々に会えたから、ゆっくりお話したいんです」

俺がそう言った直後に、電車が俺の家の最寄り駅に到着し、ドアが開く。俺は、牧さんがうなずくのを確認して彼女の手を取りホームに降りた。俺に手を引かれる形で後ろを着いてくる牧さんは、突然、俺に手を捕まれて戸惑っているはずだが、何も言わずに俺の手をぎゅっと握り返してくれた。

俺自身は、今の牧さんを一人にしたくないという気持ちが先走って、自分が牧さんに怖がられても仕方がないほど強引に手を握って歩いていることにも、せめて牧さんが降りる予定の駅で降りた方が良かっただろうことにも、気が付かないほど、いっぱいいっぱいになっていた。

そして、そのまま駅を出て、すぐ近くにある大きな公園のベンチに着く。ここまでずっと手を握りっぱなしで行き先も告げずに牧さんを連れてきてしまったが、牧さんはなぜか楽しそうに公園を見渡して、

「広くて素敵な公園ですね」

なんて、眩しい西日に目を細めたりしている。

強引に連れてきた俺が言えたことではないのだが、もう少しこの状況に警戒心を抱いた方がいいのではないだろうか。もしも俺が危ないやつだったら、今頃村松さんとの騒動以上に怖い目にあってたかもしれないのに。

誰が相手でも、こんな風に相手の行為を受け止めて、動じることなく状況に順応して、無防備に笑って見せるのだろうか。こんなんじゃ、村松さんから歪んだ気持ちを向けられたのも納得だ。こうやって着いてきてもらえたら、警戒心の欠片も無いような笑顔を向けてもらえたら、自分が特別なんじゃないかと錯覚してしまうし、同じように他の誰かと仲良くしている姿を見せられたら嫉妬だってしてしまう。特別な関係のような、明日には無くなってしまうかもしれないほど不安定な関係のような、捕まえていないと、あっという間に遠くへ飛んでいってしまいそうだから、牧さんと揺るぎない確実な繋がりが欲しくて、彼女の一番を求めてしまうんだろう。

「…俺に無理矢理ここまで連れてこられて、怖いとか思わないんですか?」

「…いつき君?」

突然、真剣に問いかけた俺に、牧さんの表情が固まる。

「俺は男で、その気になれば牧さんを酷い目に合わせることだってできるんです。ここまで連れてきた張本人である俺が言えたことじゃないですけど、いきなり手を捕まれて電車を降ろされて行き先も伝えられずにここまで歩いてきたんですよ。もっと警戒心持って抵抗する意思を示さないと、いつかまたトラブルに巻き込まれちゃいますよ」

違う。こんなことを言いたかったんじゃない。無理して笑う牧さんに、少しでも心から笑って欲しくて、できることなら、今彼女の中にある不安や恐怖を消し去りたくて、ここへ連れてきたんだ。自分が強引な行動を取ったくせに、これじゃ言いがかりをつけているのと変わらない。牧さんを追い込むようなことを言ってどうする。

「…いつき君の言うとおりですね…」

牧さんは、うつむいてしまって、完全に笑顔が消えている。

俺は、なんてバカなんだろう。村松さんの騒動から、牧さんを一番側で守れる存在になりたいと思ったはずなのに、守るどころか追い詰めるようなことを言ってしまった。あの時、ヒーローのように見えたさく兄と露木さんに一人前に嫉妬したけど、そもそもあの人たちと同じレベルに到達することすらできていないじゃないか。牧さんの笑顔を曇らせる発現をするなんて論外だ。

俺が、どうやって弁解しようかと必死に考えている間に、牧さんは静かに語り出した。

「私、村松さんのことがあってから考えたんです。村松さんがあんな行動をとったのには、私にも原因があるんじゃないかって。それで気が付いたんです。私は、周囲の人との距離の取り方が下手だったんだなって。

私、少しでも仲良くなれそうな相手には、誰に対しても同じ態度を取っていたんです。誰かと特別親密になりたいと思ったことがなくて、男女関係なく、皆と仲良くしたいと思っていて、付き合いの長さとか、普段どれだけ関わるかに関係なく、皆のことが同じだけ好きで、同じだけ大切で。好きに順序なんて無かった。誰かを特別に大切に思うって感覚がわからなくて、それを言うなら、私にとっては皆が特別に大切な存在だって、本気でそう思ってたんです。

だからか、相手からも特別な感情を向けられるということに疎くて、相手からの好意が、どこまでが純粋なもので、どこからが邪なものなのかみわけることができなくて、今回の村松さんの時みたいに、実際に何かが起こった時に初めて気が付いて。そんなことを村松さん以外の人との間でも何度か繰り返してきたんですけど、今回、やっとわかったんです。好きの種類や相手との関係性の深さで大切さがかわるってことと、それによって必然的に相手に対する態度を変えていかなくちゃいけないってこと。

村松さんに『一番になりたい』って言われて、今までだったらその言葉の重みがわからないまま、ただその場の状況に動揺するだけだったけど、今回は違った。『私の一番は村松さんじゃない』って、はっきりそう思ったんです。それと同時に、私がこれまで村松さんを含む皆にしてきた態度は、本来、自分にとって一番大切な人にだけ向けるべきものだったんだって気が付きました。

私がこれまで村松さんにしてきた態度を、私が大切な人にされたら、きっと自分が特別扱いしてもらえてるって思うって、やっと気が付きました。思わせぶりというんでしょうか。勘違いされるような振る舞いをしていたのは私ですから、村松さんのことを責められませんし、これまで特別な思いを向けてくれた人たちにも、本当に申し訳なかったって思ったんです…でも…」

ここまで、俺たちがいるベンチと対面にある遊具で遊んでいる子ども達を見ながら話していた牧さんが、急に俺の方をまっすぐに見つめてきた。ただ黙って牧さんの話を聞くことしかできずにいた俺は、突然の彼女の視線に心臓が大きく跳ねる。牧さんは、一呼吸置いて話を続ける。

「今、私がいつき君に黙って着いてきたのは、私が着いてきたいと思ったからです。手を握られても抵抗しなかったのは、したくなかったからです。いくら友達でも、男の人にいきなり手を握られたら、さすがに私も戸惑いますし、拒絶してしまいます。

相手がいつき君だからなんですよ…。疑似恋人をお願いしたのも、初めて会った日に二人きりで花火を見たのも、私が今ここにいるのも全部、相手がいつき君だからです。いつき君に出逢えたから、私は特別に大切な存在を知ることができたんです。いつき君がいなかったら、きっと私は村松さんとのことを通しても、今までと同じように何も学ぶことができなかったんだと思います」

俺をまっすぐに見つめたまま放たれる言葉は、あまりに衝撃が強すぎて、なかなか思考や感情を追いつかせることができない。

だが、牧さんは、俺が状況に追いつくことを待ってはくれない。隣り合って座っていたベンチから起ち上がり、俺の前に立って、覚悟を決めたように口を開く。

「いつき君のことが好きなんです!本当は、疑似恋人なんかじゃなくて、本当の恋人になってほしいんです!

こんなこと、急に言われても困ってしまうと思いますけど、私にとって、いつき君は他の誰かと同じじゃなくて、特別な存在なんだってこと、ちゃんと知ってほしくて…。

あの、もし迷惑でなければ、私と本当にお付き合いしてもらえませんか?」

勢いよくそう言って、ぎゅっと両目を閉じて顔をそらした牧さんを、俺は我慢できずに抱きしめる。腕の中の牧さんは、驚いて身体を震わせたが、すぐに俺の胸に顔を埋めてきた。

「俺も、牧さんのことが特別な意味で大好きです。疑似恋人を承諾したのも、村松さんとの騒動の時に電話を切れなかったのも、全部牧さんが特別に大切な存在だったからです。

さっきだって、本当は牧さんがまだ元気が無いのに無理して笑っているように見えたから心配で、少しでも支えになりたくて。なのに一人にしたくないって気持ちが先行して、あんな強引な行動を取ってしまって。それでも牧さんが顔色一つ変えないことに不安を感じて、突然牧さんを責めるようなことを言ってしまって。こんな余裕無い俺ですけど、これからは本当の恋人として、側にいさせてほしいです」

「嬉しいです…ありがとう。

これからよろしくね。いつき君」

そう言った牧さんは泣いているようだった。そして、そっと俺の背中に腕を回して、抱きしめ返してくれた。

次に会ったら告白するなんて意気込んでいたくせに、蓋を開けてみれば、勇気を出してくれた牧さんを抱きしめることしかできなかったし、やっぱり、まだまだヒーローのようなかっこいい存在にはほど遠いけど、今、俺の腕の中に牧さんがいてくれるだけで、そんなの小さなことに感じられるほど、暖かくて幸福な気持ちに満ちているから、まぁ、理想はこれから頑張って追い求めていくとして、今はとにかくこの瞬間をかみしめていよう。

なんて、完全に二人の世界に浸っていたところで、俺の視界に、離れた場所からこちらを凝視している子ども達が写った。あ、まずい。夕方の公園で男女が抱きしめ合っている姿を子ども達に見せるなんて、情操教育上もよろしくないし、彼らが家に帰ってこのことを親に話し、それがご家庭の夕食時の話題にされるようなことがあっては困る。恥ずかしさと申し訳なさで今夜は眠れないだろう。

「…牧さん、場所変えましょうか。小さい子たちに凝視されてます…」

「え!?大変です。すぐに撤退しましょう」

俺の報告に、牧さんは慌てて俺から離れ、二人して逃げるように講演をあとにする。告白の余韻に浸る余裕などない。

そのまま駅に戻り、構内のカフェに入って、やっと一息つく。改めて対面でお互いに顔を見合わせて、先ほどのことを思い出し、今更緊張がこみ上げてきた。

「…えーっと、とりあえず、俺たちは付き合っているということでいいんですよね…?」

「ふふっ、そうですね。改めて言われると照れちゃいますけど、私はいつき君の彼女です」

頬を染めつつも、いたずらな笑顔で見つめてくる牧さん。これまでにも何度か、牧さんのこういう表情を見てきたけど、いつからか誰にでも見せる顔なんだと決めつけて、その奥にある本当の牧さんを知ろうとすることを放棄していた。「小悪魔系」だとか、「計算」だとか、表面だけで決めつけて、牧さんの人間性を見ようとしていなかった。

この人は、人と接する距離間が周りと少し違って、だけどそれは計算ではなくて、むしろ自分と人との距離間の詰め方の差に悩んで、まさに今、必死でより良く人と接するためにはどうすればいいのか考えている。要するに、小悪魔なんかじゃなく、単に不器用なんだ。それでも頑張って、俺にまっすぐな気持ちを伝えてくれたんだ。やばい、もう一回抱きしめたくなってきた。

ひとまず落ち着こうと、俺は運ばれてきた水を一口飲んでから、口を開く。

「それじゃ、彼女さん。これからは芙佳(ふうか)さんって呼んでもいいですか?」

「…! は、はい!

それ、ものすごく嬉しいですね。たくさん呼んでください」

「芙佳さん」

「はい!」

一瞬目を丸くして、ぱっと満面の笑みを返してくれる芙佳さん。いつか、この人を本気でテレさせられるようになることも、今後の目標に加えておこう。

「恋人っぽい呼び方っていいですよね。ねぇ、私はいつき君のこと、いっ君って呼びたいんですけど、いいかな?」

こちらがテレさせたくて仕掛けても、笑顔でかわしてブーメランを投げ返してくる恋人。勝てる気がしないけど、この人が言葉を無くすくらい赤面している姿を、いつか必ず拝んでやるという、謎の勝負心に火を付けつつ、俺は笑ってうなずいた。

それから、せっかくカフェに入ったのだからと、俺はコーヒーを、芙佳さんは紅茶を注文して、ゆっくりと話をすることにした。

運ばれてきた紅茶を一口飲んで、ホッと息をついた芙佳さんが、カップを両手で包み、その液面を見つめたまま口を開く。

「さっき、私の様子がいつもと違ったから、公園に連れて行ってくれたんですよね?いっ君が私のことをよく見てくれていたの、すごく嬉しかったです。ありがとう」

そう言って顔を上げ、ふわりと微笑む。

「やっぱり、無理してたんですね。俺の思い違いかもしれないって可能性もあったけど、思い切って行動してよかったです。

もしよければ、話してください。話を聞くことしかできないかもしれないけど、話すだけでも気持ちが軽くなるかもしれませんし。何より、俺は貴女の恋人なわけですから、俺の前では無理せずありのままでいてほしいんです…」

言いながら、生まれて初めて口にする恋人に向けた言葉に、恥ずかしさで、思わず芙佳さんから目線をそらしてしまう。

「…こんなこと、いっ君に話したら、私のこと嫌いになっちゃうかもしれませんし…。そうでなくても、すごく恥ずかしいんですが…」

芙佳さんが、珍しく歯切れの悪い言い方をするので、俺はそらした視線を、もう一度芙佳さんに向ける。芙佳さんは、再び手の中のカップに目線をおとしている。

「言いたくないことを無理に聞いたりはしませんけど、俺の芙佳さんへの気持ちは、簡単に冷めるようなものじゃありませんよ?」

芙佳さんが、次の言葉を探してもごもごしていたので、俺はうつむいたままの彼女の顔を覗き込むようにして笑いかけた。

芙佳さんは、頬を染めて更にうつむいてしまったが、その姿勢のまま小さくうなずき、カップを持つ手に力を込めて、覚悟を決めたような表情の顔を上げた。

ここまで苦悩されると、一体何を言われるのか緊張してきてしまう。

俺は、ゴクリと息をのんだ。ゆっくりと芙佳さんが口を開く。

「私の元気が無かったのは、というか、ぎこちない表情になってしまったのは、いっ君に対して後ろめたい気持ちがあったからです…。

村松さんとのことは、さっき公園で話したとおり、私にも反省すべき点があったので、落ち込んだけど、立ち直れないほどではないんです。目の前で村松さんがカッターでリストカットをしたことは、正直トラウマになりかけましたし、まだ立ち直れたとはいえません。でもね、人と話したり音楽を聴いたりしているときは、集注したり楽しんだりできているので、たぶん時間が解決してくれるものだとおもうんです。

だけど…。私、村松さんから強い独占欲の固まりのような言葉を並べられたとき、『貴女は、私の一番じゃない』って思ったのと同時に、今目の前にいるのが、村松さんじゃなくて、いっ君だったらよかったのにって思ったんです。

この独占欲が、いっ君から向けられたものだったとしたら、心から嬉しく思うのにって。そういう感情を抱いた自分に驚いて、特殊な状況だから気が動転してたんだって言い聞かせてたんですけど、今日、電車の中でいっ君と話してるとき、やっぱり思っちゃったんです。『どうせ独占欲を向けられるなら、いっ君が良かったな』って。自然とそんなことを考えた自分に動揺してしまって。だから、そういう動揺が、いっ君の目にはぎこちなく写ったんだと思います…。

村松さんの言動が普通じゃないのは理解しているのに、それを求めてしまうなんて、こんな気持ちを抱えていることが、いっ君に申し訳なくて…。ごめんね、こんなこと言っても困らせるだけなのに…」

話し始めたときは合っていた目線が、話すにつれて、再びカップに向けられて、芙佳さんは俺を見ることができないようだ。

俺は片手を伸ばし、彼女の頬にそっと触れる。しかし、無理に顔を上げさせたりはせず、これから話すことが彼女にまっすぐ伝わるように願って、手を離した。

「俺、今すごく驚いてます」

芙佳さんの目線はカップから更に落ちて、もう自分の膝の辺りを見ている。きっと、これから俺が何を言うのか不安でいっぱいなのだろう。だから、俺は一秒でも早く、その不安を払拭するために、明るい声音で続ける。

「俺たち、相性ぴったりなんだと思うんです。

芙佳さん、俺は、村松さんが話している内容を聞いていたとき、あの人の気持ちがわかる気がしたんです。俺も、芙佳さんの一番になりたくて、芙佳さんにも俺のことを一番に思ってもらいたくて。芙佳さんを独占したいって思ってます。だけど、芙佳さんを怖がらせたくないから、この気持ちは表に出しちゃだめだって思ってましたけど、芙佳さんがその方がいいって言ってくれるなら、独占欲、隠さなくてもいいですか?」

「…!」

芙佳さんは、勢いよく顔を上げて、コクンとうなずく。見開かれた瞳には涙がたまっている。それだけ勇気を振り絞って胸の内を明かしてくれたのだろう。なんだか今日は、芙佳さんに勇気を出してもらってばかりだな。

「こんな気持ち、絶対に引かれちゃうって思ってたんですけど…。いっ君、本当に大好きです!」

目元の涙を拭いながら、芙佳さんは笑ってくれた。

そんな芙佳さんが愛しくて、やっぱり抱きしめたい衝動にかられたけど、カフェの中だからと必死に押さえる。だけど、どうしても思いが溢れて、俺は芙佳さんの頭を撫でて微笑みかけた。

それから、更にカフェでたくさん話をして、再び電車に乗る芙佳さんと改札前で別れる。芙佳さんの姿が見えなくなるまでここにいようと思っていると、改札へと歩き出したはずの芙佳さんが、突然振り返って、俺のところに戻ってきた。

「どうしました?」

首をかしげた俺に、芙佳さんは満面の笑みで応える。

「お礼のお出かけの件、トリプルデートはどうかなって、今思いついたんです!

私といっ君は恋人になれましたし、倉地(くらち)君とひよりさん、露木(つゆき)君と翔(か)菜(な)さん、全員、私がお礼をしたい人たちです。だったら皆でお出かけしたら、ものすごく楽しいと思うんです。どうでしょう?」

芙佳さんの、瞳を輝かせながらの熱弁に圧倒されつつ、俺は苦笑いを浮かべる。

「えーっと、どうでしょう?と言われましても…。

すごく楽しそうだとは思うんですが、芙佳さんって、広瀬(ひろせ)さんと知り合いだったんですか?」

露木さんと付き合っていたり、芙佳さんとも知り合いだったり、広瀬さんの交友関係は謎が深い。

「直接会ったことはないんですけど、1ヶ月半くらい前に私が抽選で当てた遊園地のペアチケットを、露木君たちに譲ったんです。そしたら、そのお礼にって、翔菜さんがこのキーホルダーをプレゼントしてくれたんです」

芙佳さんは、肩にかけているバッグに着けた、有名遊園地のクマのキーホルダーを見せてくれる。

「翔菜さんへのお礼は、このキーホルダーをくれたことへのものです。

それに、露木君は、私があげたペアチケットのおかげで、翔菜さんを遊園地に誘えたし、告白することもできたそうなので、私は実質、恋のキューピットなわけです。つまり、二人のいちゃいちゃしてる様を見せてもらう権利があると思うんですよねー。倉地君とひよりさんカップルもかなりの仲良しさんみたいですから、そんな二組のカップルを観察できるなんて、楽しいお出かけになると思いませんか?」

「そういう意味の楽しいお出かけですか…。

トリプルデート自体は素敵だと思いますし、大賛成なんですけど、恋人の時間を邪魔しちゃダメですよ?芙佳さんは、ちゃんと俺を見ていてくださいね」

「当然です。私はいつもいっ君を一番に見てますよ?」

そう言って、首を少し傾けてみせる芙佳さん。はい、俺の負けです。叶いません…。

その時、芙佳さんが乗る予定の電車が到着するアナウンスが流れ、

「皆の予定を合わせてから、また連絡しますね」

と、早口で言ってから、芙佳さんは慌てて改札へ走って行った。


その日、家に帰ってから、俺は今日のことをひよりに報告した。俺が芙佳さんと付き合い始めたことを伝えると、通学用のお下げをほどいて、髪にくしを通していたひよりの手が止まり、発狂に近い驚きのリアクションの後、なぜか正座を強要された上で、根掘り葉掘り問い詰められた。ひとしきり説明を終えると、ひよりはご機嫌な様子で毛先をいじりながら口を開く。

「にしても、まさかの牧さん側からの告白かぁ。予想外だったけど、いつきは観覧車の頂上での告白どころか、告白すらできなかったわけねぇ」

「おーい、ひよりさん。からかわない約束だったよな?」

「からかってるわけじゃないよ。からかってないから、睨まないでください…。いや、ほんと、ごめんなさい…」

「わかればいいんだよ」

「で、でもさ、真面目な話、どっちから告白したかとか、付き合ってるうちにどうでもよくなってくるから。私たちだって、告白は私からだったけど、付き合い始めてからはお互いに好きって伝え合ってるよ。

告白できなかったからって落ち込まなくても、これからたくさん挽回できるからね」

「俺がいつ、告白できなかったことを嘆いたんだよ。

まぁ、参考にさせてもらうわ…」

こちらが好きだと言えば、倍にして返してくる手強い恋人。愛しくて独占したくて陥落させたくて、そんな気持ちにさせてくれるどこか不思議でつかみきれない恋人。

独占欲に目覚めたり、独占欲を向けられることに目覚めたり、少しいびつかもしれない欲を抱えた二人で、これからどんな関係を築いていくのだろう。しばらくは、俺が芙佳さんに翻弄される罅が続くことだけは確かだ。ちょっと悔しいけど。

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