第3話 一番になりたくて

「私の恋人のフリをしていただけないでしょうか!」

新学期が始まって2度目の土曜日、俺、橘(たちばな)いつきは17年間の人生で一番と言ってもいいほどの驚きに襲われている。

女子会、カップル、家族連れでほぼ満席のカフェの一番奥の壁際の席で、俺の向かいに座る女性が、テーブルに額がついてしまいそうなほど深く頭を下げている。謎すぎる懇願をしながら。

「…牧(まき)さん。とりあえず顔を上げてください。あと、なぜ俺が牧さんの恋人のフリを頼まれているのか全くわからないんですが、説明してもらってもいいでしょうか?」

俺が何かしらの反応を示すまで、頭を下げ続けようとする彼女に、俺はフリーズしかけた思考を無理矢理動かして、なんとか反応を返す。

すると、彼女はゆっくりと、その人形のように整った顔を上げた。その表情は、申し訳なさそうに歪んでいる。

「…突然こんなお願いして、本当にごめんなさい。でも、恋人がいるって証拠を提示しないと、いよいよ大変なことになりそうだから…。大学以外で面識がある男性って、いつき君しかいないの。他に頼む当てがなくて…」

未だに何が言いたいのかよくわからないが、彼女は、元々の困り顔を一層眉を八の字にして苦笑する。

「恋人がいる証拠を提示しないと大変って、友達に恋人居るって嘘ついて、ちょっとボロが出かかってきたから、実際に疑似恋人を演じてくれる男を捜してるみたいな感じ?」

俺は、状況の推測に、双子の姉のひよりが持っていた少女漫画を引用してみる。

確か、自分以外は全員彼氏持ちのイケイケ女子グループの中で、浮かないように嘘をついた主人公の女子が、学校一のイケメンにその嘘がバレて、なぜかイケメンと疑似恋人を演じることになるみたいな話だった気がする。一時期ドハマリしたひよりに、半ば強制的に読ませられたんだよな。

俺の推測を聞いた彼女は、その目を見開いて、数十秒前の俺のようにフリーズしている。驚きとも混乱ともとれる表情だ。

「えーと、そんな感じというか、そうではないというか…」

彼女の反応から、俺自身、なんかおかしなことを口走ってしまったと後悔する。いきなり少女漫画を参考にするのは、現実的ではなかったか。

とりあえずここは、先回りして考えを巡らせるより、彼女の話を聞くことにしよう。

俺が彼女の顔を見ると、どこか煮え切らない様子だった彼女が、話すことを整理し終えたように、こちらを見返した。

「確かに、恋人がいるって嘘をついて、それがバレそうだから、いつき君に恋人のフリを頼んでいます。でもね、見栄を張るための嘘ではなくて、本当に屋無負えない事情がありまして。聞いてくれますか?」

恐縮した様子でそう問うてくる彼女に、俺は苦笑する。最初の勢いはどこえやらと言ってしまいたくなるほど小さくなっている彼女を、可愛いと思ってしまった自分の思考に笑ってしまう。

「聞きますよ。恋人のフリを引き受けるかどうかは、話次第で決めますね」

俺が、私的な感情に支配されかけた思考を目の前の現実に引き戻して、そう言うと、彼女はふわりと柔らかな笑顔をつくって語りだした。

「ありがとう。

私、大学の演劇サークルに入っていて、そこの仲間内でちょっとこじれてしまっているんです。

うちのサークルには、女子の人気を二分する勢いの二人の男子学生がいるんだけど、私は二人と同じ学年だし、そのうちの一人とは学部も同じ教育学部で、結構仲良くしていて。

だけど、二人と私が仲がいいことが気に食わない人たちっていうのがいて、サークル内がギスギスしてきてしまったんです。男性がいる前では仲良くしてくれる後輩の女の子たちが、女性ばかりの空間になると一斉攻撃してくるって感じで、『牧さんはどっちと付き合っているんですか?』とか、『イケメン独り占めして優越感にでも浸りたいんですか?』とか、もう好き勝手言われちゃって。

同級生の女友達は、私に恋人がいないことを知っているので、一緒に後輩たちをいさめてくれるんですけど、こっちがいくら『どちらともただの友達で付き合ってないよ』って説明しても、まるで信じてもらえないものだから、もう面倒になって言っちゃったんです。『私には恋人がいるから、あの二人とどうにかなるなんてことあり得ない』って。

そしたら、やっと後輩たちも納得してくれたみたいで、その手の攻撃はおさまったんですけど、『やっぱり信じられないから恋人がいる証拠を出してください』と言われてしまって。その場は、証拠にできそうなもの一つも無かったので、また怪しまれ始めていて。

とにかく、あの子たちのしつこすぎる追及から逃れるには、恋人がいる証拠を提示して黙らせるほかないという状況で、今に至ります」

彼女が一通り話し終え、一息ついているところで、俺は何とも言えない複雑な感情に包まれる。

なんだそれ。女の世界って怖すぎじゃねーか。そもそも、人気を二分する男子学生たちと、そいつらに恋い焦がれて嫉妬に狂う女子学生の集団とか、俺の頭では、理解の範疇を見事に超えている。

ていうか、そもそもこの話、その人気者な男子学生たちは気付いてるのか?牧さんが一人で対処するよりも、その二人が彼女らにバシッと言った方がいいんじゃないのか?

まぁ、事情も事情だし、牧さんが困ってるなら力にならないとだよな。惚れた相手の力になりたいのは当たり前だしな。

「…いつき君…?やっぱり、突然こんなこと言われても困っちゃいますよね。

ごめんなさい。断ってくれていいんですよ。同級生のつてを当たってみるし、それが無理でも最終手段の画像加工が残ってるから」

「え?俺、やりますよ。その疑似恋人。そんな事情があるなら放っておけないし、そもそも、牧さんは完全に被害者じゃないですか。余計に放っておけませんよ」

「え、あっ、ありがとう!

いつき君、ずっと無言で表情ばっかり険しくなっていくから、ものすごく嫌なのか、怒っちゃったのかの2択だと思ったよ」

「俺、そんなに怖い顔してたんですか?すみません。ちょっと情報を整理しつついろいろ考えてました」

しまった…。真剣に何か考えるときほど表情が硬くなってしまう癖が出てしまった。家族内で言われるところの「鬼の形相モード」に突入していた…。

とにかく気を取り直して、俺はその疑似恋人とやらの詳細な説明を聞くことにした。

「それで、具体的に俺は何をしたらいいんですか?」

「私と、ラブラブツーショットを撮ってください」

「っ!ゲホゲホ」

牧さんの言葉が衝撃過ぎて、飲んでいたカフェラテを思わず喉に詰まらせてしまった。

なんだよ、ラブラブって。ただのツーショットとは違うのか?

咳き込む俺を心配しつつも、彼女は頬を赤くしている。なんだよ、可愛いな、おい。

「えーっと、ラブラブっていうのは、具体的にはどのような…?」

恐る恐る尋ねた俺に、彼女は恥ずかしそうに目線をそらしつつ応える。

「…その、いつき君の肩に私の頭を乗せたポーズでツーショットを…。

いいでしょうか?」

やばい…。そんな至近距離、耐えられるだろうか…?平常心を保てるのか、俺。いや、耐え抜け俺!

「あー、それくらいなら、全然いいですよ」

「本当ですか!ありがとう、いつき君。いつき君に頼んで良かったです」

彼女は、ぱぁっと笑顔になって両手を合わせる。

「じゃあ、さっそく撮っていいですか?」

「はい」

俺が応えると、彼女が俺が座るソファ席の隣に移動してきた。そして、自分のスマホのカメラを起動すると、更に俺の方に身体を寄せてくる。

「肩借りますね」

かなり照れくさそうに彼女が微笑む。全く目を合わせてくれないのが、少しもったいないな。この距離で彼女の顔を見てみたいと思ったけど、それは叶わないようだ。

「どうぞ」

俺が応え、彼女が遠慮がちに俺の肩に頭を預けてくる。そして、二人でスマホに目線を向ける。インカメになっているので、自分たちの現在の姿を客観的に見ることができる。

…なんか、ぎこちないな。恋人っぽくない。ポーズはそれらしいけど、表情が硬い。

「あの、牧さん。撮影ボタン、俺に押させてくれませんか?」

「え、いいですけど…?」

彼女からスマホを受け取り、画角を調整した後、俺はおもむろに彼女の肩に腕を回し、更に身体が密着するように引き寄せる。

当然、彼女は驚いて俺の肩から頭を離して、カメラ目線でも無くなったが、俺はそのタイミングで撮影ボタンをタップした。

「わっ!え、いつき君?どうして?」

慌てて赤面している彼女に、俺はさっき撮った写真を見せる。

「ただ肩に頭を預けたポーズより、こっちの方が仲のいい恋人っぽくないですか?」

写真には、ばっちりカメラ目線で笑顔の俺と、俺に肩を抱かれて驚いて横を向いてしまっている彼女が写っている。

「彼氏にちょっかいかけられて、驚きながらも照れてる彼女を、彼氏が撮影したみたいな、微笑ましい写真に仕上がってるとおもうんですけど」

解説する俺に、彼女は今だ赤い頬を膨らませて抗議してくる。

「確かに恋人っぽいですけど、すっごくびっくりしましたよ。

表情が硬いままのツーショットよりも何倍も素敵な写真ですけど。でも、せめて事前に…」

どんどん声が小さくなっていき、顔もうつむいていく彼女。いちいち反応が可愛いんだよな。

「事前に言っちゃったら、牧さんの自然な反応が撮れないですから」

「で、でも、こんな本気で驚いている顔を皆に見せるなんて、恥ずかしいし…」

「うーん、可愛いと思いますけどね」

「へ?」

「ん?あっ、いや、今のはその…」

俺は、無意識にとんでもないことを口走ってしまった。平常心を保てとあれほど念を押したはずだろう、俺。

「ふふっ、いつき君みたいなイケメンさんに、可愛いって言ってもらえるなんて、照れちゃいますね。

いつき君がそこまで言ってくれるなら、この写真を恋人の証拠として提示しようと思います」

「あっ、はい」

楽しそうに笑いながら、自分の席に戻って、写真を保存したりしている彼女をぼーっと眺めながら、俺は心の中でため息をつく。

彼女は、とても不思議な人だ。いつも突拍子も無い言動で俺の心をかき乱すくせに、こちらからアクションを仕掛けると、すごくうぶな反応を返してくる。男の扱いに慣れているようで、実際はそうではないのか。あるいは全てが計算なのか。

どちらにしても、俺はこの人に惚れてしまった。たとえ小悪魔系であっても、彼女の手の上で踊らされることになっても構わないと思ってしまうほど、この人が好きなのだ。

俺が彼女と出会い、恋に落ちたのは半年前。ひよりに付き添って行った、大学の学園祭でのことだ。


「はー?なんでお前が彼氏に会いに行くのに、俺がついていかなきゃなんないんだよ」

「だから、さっき説明したじゃない。桜也(さくや)から学園祭に遊びにおいでって言われて、本当は翔(か)菜(な)と一緒に行く予定だったけど、翔菜が風邪引いて行けなくなっちゃったから、代わりにいつきを誘ってるんだって」

「さく兄に会いに行くなら、一人の方がいいんじゃないのか?」

「桜也は、サークルでやる喫茶店の仕事で忙しいから、会いに行くっていうか、その喫茶店で桜也が働いてる姿を見に行くのよ。ついでに他のお店とかイベントとか見て回るつもりだから、一人じゃつまんないでしょ?いつき、暇そうだし付き合ってよ。ね?」

「…お前な…。

仕方ないから付き合ってやるけど、お前、そんな自分の勝手な事情に広瀬(ひろせ)さんを付き合わせるつもりだったのかよ。広瀬さんからしたら、よく知らない大学の学園祭なんて、たいして興味ないだろう」

「別に、学園祭なんて行くだけで楽しいし、誘う理由なんてそれで充分だと思うんだけど。

だけど、今回は翔菜にも、私と同じ目的があったのよ」

「同じ目的?」

「私は桜也に会いに行くでしょ。翔菜にも大学に知り合いがいてね。その人に誘って貰ってたんだって。

で、その人が桜也と同じサークルの人だから、二人で会いに行こうって話になったってわけ。

いつでも私が人を振り回していると思ったら、大間違いなんだからね!」

「それは、とんだ勘違いをしてしまいまして、申し訳ございませんでした」

「わかればよろしい!」

「…俺のことは振り回してるけどな…」

「なんか言った?」

「いや。

よし、じゃあ、ちゃっちゃと行くか」

そんなこんなで、俺はひよりと共に、幼なじみの倉地(くらち)桜也(さくや)の通う大学へ向かった。

学園祭はかなりの盛況ぶりで、広いキャンパス内は若者で溢れていた。

人の多さと、建物の入り組んだ構造に阻まれて、なかなか目的の場所にたどり着けなかったが、30分歩き回って、ようやくさく兄が働く喫茶店にたどり着いた。

「やっと着いたね…。いつきが着いてきてくれてよかったよ。私一人じゃ、たどり着けなかったかも…」

「お前、地図よめないもんな。校内マップくらいよめないと、将来苦労するかもよ」

俺たちは、二人してぐったりとしながら、喫茶店の中に入った。

「いらっしゃいませ」

それは突然だった。俺は生まれて初めて一目惚れをした…。

「二名様ですね。こちらの席へどうぞ」

にこやかに俺たちを誘導してくれる、メイド姿の女性。彼女こそ、俺が恋した牧さんだった。

白黒のシンプルなメイド服。緩くウェーブのかかったロングヘアに、これまたメイドさんらしい、白いカチューシャを付けていて、まるで人形のように可愛らしかった。

「あ、二人とも来てくれたんだ。牧、その子たち、俺の知り合いだから、接客は俺が代わるよ。牧の休憩、そろそろだし」

そこで声をかけてきたのは、さく兄だった。ギャルソン風の衣装がよく似合っている、俺の幼なじみであり、我が姉の恋人だ。

「倉地君。もしかして、この人たちが倉地君が言ってた幼なじみの双子さん?」

「私は、幼なじみで彼女です」

どこかムッとした様子で、ひよりが口を挟む。なんで怒ってんだ?

しかし、牧さんはひよりの怒りに気が付かないようで、両手を合わせて瞳を輝かせる。

「わぁ!倉地君、こんな可愛い彼女さんがいるなんて初耳です。

倉地君にお熱な子たちが知ったら、きっと発狂しちゃいますね。私、秘密にしておきますから、安心してね」

そう言って、自分の口元に人差し指を立ててみせる。

そんな牧さんに、ひよりも拍子抜けしたのか、ぽかんとしている。

さく兄も苦笑いを浮かべている。

「そうだね。秘密にしておいてもらえるとたすかるよ。

それと、こんな所で立ち話してたら、部長に怒られちゃうんじゃないかな…」

「あ、それはヤバいですね…。今日はなんだか虫の居所が悪そうでしたし。私、そろそろ」

牧さんが言い終わらないうちに、俺たちの側に一人の男性が近づいてきた。

さく兄と同じギャルソン風の衣装を着た、茶髪の高身長イケメンだ。

その顔は笑顔だったが、目が笑ってない気がする。

「牧、お前もう休憩時間入ってるぞ。フロアで立ち話とは、まだまだ相当働きたいみたいだな…」

「露木(つゆき)君、ごめんなさい!私、休憩行ってきますね…」

牧さんの表情が完全に引きつっている。露木と呼ばれたその男性は、満面の笑みを浮かべて、

「遠慮するな、牧。仕事は余るほどあるから、お客さんが増えてきたんだ。休憩時間返上してお客さんのお相手してたんだから、他のお客さんのテーブルも回ってくれるよな?

あ、桜也は、こちらのお客さんたちのお相手頼むぞ。

お騒がせして申し訳ありませんでした。ごゆっくりどうぞ」

露木さんは、牧さんに圧をかけつつ、さく兄に指示を出し、俺たちには爽やか営業スマイルを向けて、最後に牧さんを連れてフロアの奥へと消えていった。

なんだか、嵐のような時間だったな。

「えーっと、二人ともぼめんね。せっかく来てくれたのに、変なところ見せちゃって」

今だあっけにとられている俺とひよりの表情を見て、さく兄が申し訳なさそうに笑う。

「…いや、大丈夫だけど、あの女の人は大丈夫なのか?」

俺が尋ねると、さく兄は苦笑いを浮かべたまま応える。

「牧のことなら大丈夫だよ。ちゃんと休憩取らせてもらえてるはずだから」

「桜也、あのまきさんって人と仲良しなんだね。名前で呼ぶくらい」

さっきまでぼーっとしていたひよりが、ムッとしたように口を開いた。なんだ、それでムキになってたのか。

すると、さく兄は慌てて説明をを始めた。

「牧っていうのは、彼女の名字だよ。牧(まき)芙佳(ふうか)っていう名前で、皆から名字で呼ばれているから、俺も同じように呼んでるだけだよ。さっきの人も、牧って呼んでたでしょう?」

「なんだ…。名字だったのか…。よかった…」

さく兄の説明を聞いたひよりは、ほっとして笑顔になる。機嫌が直ったようで何よりだ。

さく兄も、彼女の誤解を解くことが出来て安心したらしく、笑顔になる。

「ひよは、俺が浮気してるとか思ったの?」

「いやー、そういうわけじゃないけど…。うっ、ごめんなさい…」

恋人同士でいちゃいちゃしだした二人を横目に、俺は牧さんのことを考えていた。

芙佳さんっていうのか…。見た目もふんわりした感じの美人だったけど、名前まで可愛いな。また会いたいな…。

「いつき?戻ってこーい!顔怖いよー」

「え?あー、悪い。ちょっとぼーっとしてた」

ひよりに呼びかけられて、俺は慌てて意識を現実に戻す。

「少し顔が赤いけど、大丈夫?」

さく兄に心配されて、俺はまた慌てる。

牧さんの可愛さに一目惚れして、彼女のことを考えてぼーっとしてたなんてバレたら、特にひよりが面倒くさいし、何より恥ずかしい。

「あー、大丈夫大丈夫。ちょっと暑いなってだけだから。俺、このアイスコーヒー注文しようかな」

何も悟られないように、俺は目についたメニュー表を手に取って、注文する。

「そっか。なら安心だね。

アイスコーヒー、お一つですね」

さく兄も、これ以上は追求せずに注文をメモする。よし、セーフだ。

「んーとね、じゃあ私は、アイスティーとチョコレートカップケーキをお願いします」

ひよりも、すっかりメニューに夢中になって、注文している。

「かしこまりました。アイスコーヒーと、アイスティー、チョコレートカップケーキを、それぞれお一つずつですね。少々お待ちください」

さく兄は、注文を取り終えると、俺たちに柔らかく笑いかけて、フロアの奥へと行ってしまった。

ギャルソンというより執事のような雰囲気で、男の俺でもかっこいいと思ってしまった。ひよりなんて、頬を赤らめて、完全に乙女の表情をしている。

その後、注文した物をさく兄が運んできてくれて、その時に一つの提案をしてきた。

「この喫茶店は、午後6時までで終了なんだ。それで、7時頃からキャンプファイヤーとか花火の打ち上げがあるから、よければ一緒に見ない?出店とかは夜までやってるから、一緒に回ろう」

さく兄の誘いに、ひよりは二つ返事で了承していたが、せっかくの恋人同士の時間を邪魔するほど、俺は無粋な真似はできないので、別行動することにした。

そして、7時少し前に、喫茶店の片付けを終えたさく兄と合流したところで、俺は一人で学園祭を回り始めた。

ひよりとさく兄は、俺も一緒に回ろうと言ってくれたが、カップルと学園祭を回るのはかなり気まずいので、低調にお断りした。

先に帰ってもよかったが、せっかく来たわけだし、この夏見逃した打ち上げ花火を見たいと思って、時間になるまでテキトーに時間を潰すことに下。それと、もう一度、牧さんに会えるかもしれないという淡い期待を抱いたのも事実だ。

出店で買った焼きそばを食べたり、女子大生さんたちにやたらお化け屋敷やらに誘われたり、気前のいい体育会系のお兄さんたちに焼き鳥やらラムネやらおまけして貰ったり、一人で回っているわりに、なかなか賑やかに時間つぶしができたが、とにかく人が多くて、少し疲れてしまったので、人気が少ない建物の中で休憩することにした。

外の賑やかな音を聞きながら、ぼんやりと廊下を歩いていると、曲がり角で走ってきた誰かとぶつかってしまった。

「すみません。注意が足りなくて。怪我とかしてませんか?」

慌てて、ぶつかった相手に謝ると、相手もハットしたように謝ってきた。

「こちらこそ、廊下を走ってしまっていたので、ぶつかってすみません。私の方は怪我はしてませんが、そちらは大丈夫ですか?」

「はい。俺は大丈夫です…。あっもしかして、牧さんですか?」

廊下が薄暗くて気が付くのが遅れたが、俺とぶつかった相手は、私服に着替えた牧さんだった。

会えたらいいなとは思っていたが、本当に会えるなんて、運命かなとか思ってしまった自分が恥ずかしい。

かくいう牧さんは、突然名前を呼ばれて驚いていたが、ぱっと明るい笑顔になって返事をしてくれる。

「わー!倉地君の幼なじみの…。そういえば、まだお名前聞いてませんでした」

「あぁ、そうでしたね。俺は橘いつきっていいます。高2です」

「え?」

俺の自己紹介を聞いた牧さんは、なぜか目を丸くして固まっている。

「どうかしましたか?」

恐る恐る尋ねると、

「ごめんなさい!てっきり同い年くらいかと思っていたので、驚いてしまって」

と、どこか慌てたような反応が返ってきた。

確かに、俺は実際より年上に見られがちだ。学生服を着ていれば、ギリギリ高校生として見てもらえるが、私服だとほぼ100%の確立で20歳以上と勘違いされる。今日は私服なので、牧さんが驚いたのも無理はない。

「あー、よく言われます。気にしないでください」

そう言って、俺が微笑みかけると、牧さんもほわっとした笑顔を返してくれる。

「ふふっ、私はどちらかというと年下に見られがちなので、ちょっとうらやましいですね。

あっ!私は、牧芙佳と言います。倉地君のサークル仲間で、同い年の2年生です。

あの、こんなところでお一人なんですか?」

不思議そうな牧さんが、俺の背後に目をやる。

「はい。恋人の時間を邪魔するわけにはいかないので…」

「あー!倉地君と彼女さんは学園祭デートですか?

なら、いつき君は、私と同じですね」

初めから下の名前で呼ばれて、キュンとしてしまった。

「同じですか?」

そんなときめきを顔に出さないように、平常心で会話する。

「はい。私の周りの友達は、皆恋人がいて、その子たちがデートに繰り出すのを見送って、今は一人です」

ドキリとした。そういうということは、牧さんには恋人はいないのだろうか?正直、この可愛さなら既に恋人がいるだろうと考えていたので、一縷の希望が生まれた気がした。

でも、ほぼ初対面で、こんなこと聞いていいのだろうか?下手したらかなり失礼だったりしないか?いや、でも気になるものは気になる。

「牧さんには、恋人はいないんですか?」

なんか、かなりストレートに聞いてしまった。まじで人によってはムッとされるかも…。

しかし、俺の心配は牧さんの変わらない笑顔で消え去った。

「いないんですよ。寂しい独り身ってやつでしょうか?

いつき君は、恋人いるんですか?」

その上、天使の顔で特大のブーメランを返してきた。

俺は、彼女いない歴=年齢系男子である。誰かとの間に浮いた噂がたったことすらない。

ひよりいわく、「女の子からの人気はあるけど、大人びすぎてて近寄りがたいって子が多いのよ」とのことだが、とにかく恋愛経験が皆無なのだ。なんなら、牧さんが初恋レベルである。

「俺も恋人はいないですね…。本当に寂しいものですね」

「驚きです。いつき君はイケメンさんですし、てっきりお相手がいるんだと思ってました」

さらっとすごいことを言ってくれるな、この人…。こんな美女に「イケメンさん」とか言われたら、心臓が保たないだろ…。

というか、貴女こそ、恋人がいないとか驚きなんですが?

「あ!でも、いつき君に恋人がいなくて良かったです」

「え?」

「だって、こんな誰もいないところで二人きりなわけですし、もし恋人さんがいたら、悪いなって思って」

そう言って、いたずらっぽく笑う牧さん。なんていうか、もう誘われてんのかとおもうわ。小悪魔系女子ってやつだろうか?

「あははは…。そういえば、牧さんは、一人でこんな時間まで校舎に残ってたんですか?

喫茶店の片付けは、1時間くらい前には終わってますよね?」

このままだと、理性が保てずに変なことを口走りそうだったので、俺は慌てて話題をそらした。

実際、片付けを終えたさく兄と合流したのは約一時間前だ。この校舎には、学園祭のブースはないし、喫茶店を出していた校舎とも違う。こんなところで何をしていたんだろうか?俺とぶつかったときも走ってきていたみたいだし。

「えーっと、私、サークルの副部長をしていて、片付けの後も、この校舎の上の階にある部室で今日の収益の計算とかいろいろやってたらこんな時間です。部長と私と会計さんの三人でやってたんですけど、会計さんは作業が終わってすぐデートにいっちゃいましたし、部長も用事があるって帰っちゃって。部室の施錠を引き受けて、最後に部室を出たのはいいんですけど、私、夜の校舎とか怖くて、早く校舎を出てしまおうと思って廊下を走っていたら、いつき君にぶつかってしまったというわけです」

説明しながら、少しずつ目線が下に移っていくのは、廊下を走っていた理由を恥ずかしがっているんだろうか?

しかし、それなら納得だ。

「そうだったんですね。お疲れ様です。

じゃあ、もう帰るところだったんですか?」

「いいえ。もうすぐ花火の時間なので、せっかくだから見て帰ろうかなって」

「俺もです。よければ、一緒に見ませんか?」

俺としては、かなり勇気を出してした提案だったのだが、牧さんは自然に応える。

「えぇ、ぜひ。

あっ、それなら、花火を見るのにとっておきの場所があるんですよ。まぁ、うちのサークルの部室ですけどね。人も来なくて、ゆっくり見られる特等席。どうですか?」

それは、完全に二人きりで花火を見るということか。なんだ、そのドキドキイベントは。

「勝手に部室使っちゃっていいんですか?それに、夜の校舎は怖いんじゃなかったデすっけ?」

「副部長権限でありです!それに、いつき君がいれば怖くありませんから。さぁ、行きましょう!」

かなりの暴論な気はするが、「いつき君がいれば怖くないですから」と言われてしまっては、うなずくほかない。

俺は、牧さんに案内され、部室へと向かった。

そうして、二人で見た花火はとても綺麗だった。どうやら、大学の側で行われる秋祭りに学園祭を一日かぶせることで、学園祭のフィナーレを秋祭り会場で打ち上げられる花火で飾ろうとのことらしい。

花火の合間に横目で見つめる牧さんの横顔は、とてもキラキラして綺麗だった。

最後まで花火を見て、校舎を出るまで一緒にいた。牧さんは車で来ていたらしく、家まで送ると言ってくれたが、さすがに申し訳ないのと、ちょうどいいタイミングでさく兄から連絡が来たので、連絡先を交換して、牧さんとは別れた。

そんな学園祭の後も、牧さんからはかなりマメに連絡が来て、俺の思いも弱まること無く、日々積み重なって、今である。

まさか好きな人から恋人のふりを頼まれるとは思わなかった。

まぁ、写真撮っただけだけど、牧さんの周囲の人には、俺が牧さんの恋人だと思われるということだろう?やばいな。嬉しい。

自室で、牧さんから送ってもらった偽造写真を眺めながら、ニヤニヤしてしまう。

「なんか嬉しいことでもあった?」

「うわっ!」

完全に自分の世界に入っていて気が付かなかったが、いつのまにか目の前にひよりの顔があった。

「お前な、勝手に人の部屋入ってくるなよ。せめてノックくらいしろ」

「え?そんなに驚くとは思わなかった…。ていうか、ノックしたよ?めっちゃしたんだから。全然反応が返ってこないから、心配して入ってきたんじゃない」

そう言って腕を組んで睨んでくるひよりの視線に耐えつつ、俺はやっと冷静になる。

「あー、まじで?めっちゃぼーっとしてたから…。その…。ごめん…」

「わかればいいのよ。

じゃあ、お詫びの印として、ニヤついてた理由、教えなさい!」

謝ればすぐに許してくれるところはひよりのいいところだが、人の羞恥心をガン無視してくるところはなんとかしてもらいたい…。

俺が返事をするよりも早く、ひよりは俺のスマホ画面を覗き込んできた。

しまった。こいつがいるって気付いた時点で電源オフッとけば良かった。

スマホの画面には、ばっちり例の偽造写真が写っているのだ。

「やだ!いつき、いつの間に彼女なんてできたのよ?しかもめちゃくちゃ可愛いじゃない…。ていうか、あれ、この人って、もしかして牧さん?」

見られてしまった恥ずかしさでパニックになりかけたが、なんとか心を保つ。

「いや、別に彼女じゃないけど…。てか、よく牧さんのこと覚えてたな」

とにかく、なんとか話題をそらしてみる。そらせてはない気がするけどな…。

「そりゃあね。あんな可愛いメイドさん、そう簡単に忘れないわよ。変な勘違いもしちゃったし、余計にね。

それに、スマホの画面。相手の名前、牧芙佳って書いてあるし」

「あー、なるほどな…」

「で、なんで牧さんといつきが仲良くメッセージのやり取りしてて、しかもこんなツーショット撮ってんのよ?これで付き合ってないとか、訳わかんないんだけど?」

ひよりの疑問はごもっともで、これ以上の追求から逃げ切れる気がしないので、俺は観念して、牧さんとのことを話すことにした。

「へぇ、疑似恋人ねぇ…。そんな漫画やゲームみたいなこと、現実でもあるのね…」

俺からの説明を聞き終えたひよりは、座っている椅子に背をあずけて腕と脚を組みながらうなっている。無駄に偉そうだ。

「ほら、説明したんだからもういいだろ?ていうか、そもそも俺に用があるから部屋に来たんじゃないのか?」

これ以上ひよりに牧さんとのことを深掘りされるのは避けたいので、なんてことないふうを装いつつ話題を変えてみる。

「あー、お風呂空いたから次入ったらって声かけたかっただけよ。

そんなことより、疑似恋人の件を了承したり、ツーショット写真を見ながらニヤついたり、いつきって牧さんのこと好きなの?」

こいつ、本当にデリカシーってものがない。人の羞恥心を当たり前のようにつつき回しやがって…。彼氏や友達にはそれなりに遠慮できるみたいだけど、俺には遠慮なんて一度もしたことがない。だから余計に腹立たしい。

だが、ここで俺が怒ったり、嘘をついたりすれば、逆にややこしくなるし、何より後が怖い。

「…まぁな、好きだよ…」

身内に自分の恋愛沙汰を知られる恥ずかしさと、ひよりに対する敗北感で、かなりボソボソと話してしまう…。

俺の肯定を聞いたひよりは優しい微笑みを浮かべながら俺を見つめてくる。

「…何だよ。その穏やかな微笑みは」

「だって、嬉しいなって思ってさ。いつきはモテるけど、いつき自身にはこれまで好きな人ってできたことないでしょ?

恋愛することだけが絶対的な幸せだとは言わないけど、やっぱ、好きな人に出会えるのって奇跡みたいなものだから。いつきが好きだと思える人に出会えたことが嬉しいなって思ったの」

絶対にからかわれると思って身構えていた俺は、ひよりの予想外に心から嬉しそうな反応に拍子抜けしてしまう。

「って、何よそのアホ面(づら)は!そんな顔してたら、牧さんに振り向いてもらえないんだからね!」

珍しく姉らしいことを言ってくれたとと思ったらいきなり人の量頬をつねってくるとか、やっぱりひよりはいつも通りのひよりだった。俺の感動を返してほしい。

そこからは、もういつも通りの小競り合いに発展して、数分間騒いでいた。

ブーブー。

しかし、その小競り合いは俺のスマホに入った着信によって中断された。

スマホを見て、俺もひよりも驚いて一瞬固まってしまう。

その着信が牧さんからだったからだ。

「ほら、早く出ないと切れちゃうよ」

ひよりがワンテンポ速く我に返り、俺の肩を叩いてくる。

こういうときには部屋から出て行ってほしいが、うちのひよりにそんな気が遣えるわけもなく、むしろ会話の様子を見たいようで目を輝かせている。

仕方が無いので、俺は応答ボタンをタップした。

「あっ、いつき君。こんな夜に突然ごめんなさい。私、牧です」

牧さんは今外にいるようで、彼女の声の向こうから街の喧騒が聞こえてくる。

「はい。全然大丈夫ですよ。どうかしましたか?」

「えーっと、その…。今サークルの飲み会に来ていて、いつき君との写真を皆に見せたんですけど、いつき君がかっこいいって騒ぎになって、今から電話してお店に来て貰ってくださいよって頼まれちゃったんです。高校生だからダメって言ったんですけど、ならせめて通話繋いでみてくださいって言われたので、電話してしまいました。迷惑ばかりかけてしまってごめんなさい」

「あー、相変わらず大変そうですね。俺の方は問題ないですけど、今側にサークルの人はいないんですか?」

「いません。お店の中は電波が悪いって言って、今一人でお店の外に出ているので」

牧さんの返事を聞いて、俺はひとまず安心する。会話が聞こえる距離にサークルメンバーがいないなら、とりあえず今は恋人を装って会話する必要はないようだ。

「その様子だと、とりあえず俺たちが付き合ってるって信じてもらえてるみたいですね」

「はい。いつき君が自然体な写真を撮ってくれたおかげです。本当にありがとうございました。

でも、今回はいつき君を巻き込んでサークルの子たちとお話させたりはしませんから、安心してください。

とりあえず電話をかけないとあの子たちの気が済みそうになかったのでお電話してしまいましたけど、いつき君が出なければ彼女たちにそのまま『今は電話に出られないみたい』って説明しようと思ってましたし、もし出てくれたらほんの少しお話ししてお店に戻ってからいつき君との通話履歴を見せて『今は時間が無いみたいだから皆とお話するのは難しい』って言うつもりだったので」

牧さんの説明を聞いて、俺は胸をなで下ろした。

牧さんの声が聞けるのは心から嬉しいから、電話をかけてくれてありがたい限りなのだが、牧さんの話を聞く限り、俺と話したがっている女子たちはガツガツしていそうで正直怖い印象しかないので、これから話をしろと言われたら本気で困るところだった。

「そうしてもらえるとかなり助かります。俺、女の人の集団は、ちょっと怖いというか…」

「ふふ、そっか。同性の私でも時々あのテンションにはついていけないことがありますから、知り合いでもない彼女たちの相手を、いつき君にしてもらうなんて絶対にしませんよ。安心してください」

そう言って笑う牧さんの声から、今彼女がどんな表情をしているのか簡単に想像がついてしまう。きっと、少しイタズラっぽくふわりと笑っているのだろう。可愛いな。直接会いたくなってきた…。

「え!?」

俺が浮ついた感情に浸りかけていたところで、電話越しの牧さんが困惑したような声をあげた。

「牧さん、どうしたんですか?」

俺は嫌な予感がして、慌てて牧さんに呼びかける。

「…えっと、今お店から後輩の子が一人で出てきたんですけど、なぜか号泣しているんです」

返事をしてくれた牧さんの声は、突然のことに思考が追いついていないような呆然としたものだった。

俺たちの会話の様子が変わったことに気が付いたひよりが、隣から通話をスピーカーに切り替えるように促してくるので、俺は耳に当てていたスマホを離す。

すると、通話がスピーカーに切り替わった瞬間、電話の向こうから女の人の泣き声が聞こえてきた。

「先輩、本当に恋人がいるんですか…?」

泣いている女の人は、どうやら牧さんに向かって話しかけているようだ。嗚咽混じりではあるが、彼女の声は、牧さんの持つスマホを通して、はっきりとこちらに聞こえてくる。

彼女の問いかけに、牧さんは一拍おいてからゆっくりと応える。

「うん、いますよ。

ねぇ、村松(むらまつ)さん。どうして泣いてるの?」

泣いている彼女は村松というらしい。村松さんは、牧さんに優しく問いかけられて、また声を上げて泣き出す。

「え?村松さん。本当にどうしたんですか?何があったの?」

理由もわからないまま目の前で泣き続ける後輩にすっかり気を取られて、牧さんは俺と通話が繋がっていることを忘れて、そのままスマホをポケットにでも入れてしまったのか、布がこすれるような大きな音が聞こえ、先ほどよりも少しくぐもった音質で、牧さんと村松さんの会話が聞こえてくる。

気を遣ってこちらから通話を終わらせるべきなのはわかっているのだが、どうしても気になってしまって、通話終了ボタンを押すことができない。

その間にも、電話の向こうでは牧さんが村松さんを落ち着かせようと奮闘していた。

すると、村松さんがゆっくりと話し出した。

「…酷いですよ、先輩…。先輩、いつも誰かと一緒にいて、私だって先輩とたくさんお話したいのに。しかも、同性のお友達ならまだしも、男の人たちとも仲良しで。もし、先輩に恋人なんかできたら、ますます私が入る空きがなくなっちゃうから、サークルの皆に露木さんとか倉地さんと先輩のいろんな噂を流して、先輩があんまり男の人たちと関わらないように仕向けたりして頑張ってたのに、まさか大学外で恋人を作るなんて…」

電話越しで聞き耳を立てていた俺とひよりは、村松さんが何を言っているのか理解が出来ずに互いに顔を見合わせる。

それは当然、直接村松さんと対峙している牧さんも同じようで、しばらく何の反応も示せずにいたが、なんとか言葉を絞り出すようにして口を開く。

「何を言っているのか、よくわからないんだけど…」

「だから!先輩には私と一番仲良くしていてほしいんですよ!

友達の中だったら、先輩の一番になれる可能性あるけど、恋人がいたら絶対私は一番になれないもん!」

感情の制御が効かなくなってきたのか、村松さんの声はだんだん大きくなってきている。たしか二人は街中の居酒屋の店先にいるはずだから、これ以上村松さんの気持ちが高ぶるといろいろまずいし、何より牧さんがこのまま村松さんの側にいるのは、かなり危険な気がする。

俺は、迫ってくる危機感と不安感で自分の気持ちがはやるのを感じる。

一方の牧さんも、村松さんの言葉に不穏なものを感じ取ったようで、いつもよりも低い声で村松さんに問いかける。

「私と仲良くするために、私の一番が恋人にならないように、露木君や倉地君と私のことをあることないこと皆に言いふらして、皆のことを動揺させたり、私に本当に恋人がいるのか確かめるために、わざわざ無理に写真を撮らせたり、今日だって、恋人が高校生だってわかった上でこんな時間に電話をかけさせて彼に迷惑かけたりしたんですか?私の一番仲がいい存在になりたいなんて、そんなことのためだけに?」

「そんなことなんて言わないでください!私の大学生活は先輩が全てなんです…。

特にやりたいことも無くて、何となく入っただけのつまらない大学で、初めて先輩を見たとき、電流が走ったみたいな衝撃を受けたんです。まるでお人形さんみたいに綺麗で、一人で黙々と本を読んでいて、周りに人を寄せ付けないようなオーラがあって…。私は神様に出会ったんだって、本気で思ったんですよ…。それから、先輩のことをもっと知りたくて、周りをうろついていたら、あるとき先輩から話しかけてくれて…。

孤高の神様っていう最初の印象とは全く違って、周囲に人が途絶えない優しい人気者でしたけど、やっぱり私にとっての特別な存在で…。最初は拝めるだけで眼福でしたけど、先輩は知れば知るほど魅力的な人で、もっと近くでいろんな先輩を見てみたくなって、わざわざ楽しくもない演劇サークルにも入部してたくさん話しかけて私を見て貰おうとしたのに、先輩はすぐに他の人のところに行っちゃうし…。

私が直接アピールしても先輩がこっちを見てくれないなら、先輩の周りの人たちと先輩を引き離せば、最後には私を見てくれるようになって、一番近くで先輩を見ていられるようになるって気が付いたんですよ…。

女なんて、根拠のない噂で簡単にコントロールできちゃうから大したことないと思って放っておいたけど、男を引き離すのはなかなか骨が折れたんですよ…?基本的に、どの男も先輩が綺麗すぎてあんまり近づいていかないから問題なかったですけど、露木さんと倉地さんとは特別仲良しで、私が何もしなければ絶対にどちらかが先輩に告白して付き合っちゃいそうでしたし、早く手を打たなきゃって焦っちゃって、先輩のこと傷つけちゃうやりかたしかできなくて、それは心から申し訳なかったなーって思ってるんですよ?だけど、あの二人、いくら顔がいいからって、先輩のこと狙うなんて、身の程知らずにもほどがあるんですよ…。先輩に近づいてくる男なんて、先輩の外見しか見てないクズばっかりなんですよ。だから、そんなクズから先輩を守るためにいろいろ手回しして頑張ったのに…。あの二人以外にも先輩と仲良くしようとするクズがいて、しかも、そんなクズと先輩が付き合っちゃうなんて…。

ねぇ、先輩。まだそいつと一線越えたりしてませんよね?汚されてませんよね?そいつと付き合ってても幸せになんてなれませんから、今のうちに別れてくださいよ…。

ほら、今すぐ電話して、別れて、ね?」

泣いていたはずの村松さんは、話すにつれてどんどん声のトーンが低くなっていき、彼女の放つ牧さんへの歪んだ敬愛と偏った持論をより不気味にさせる。

というか、これはかなり牧さんが危ない状況だ。村松さんは明らかに正気を失っているし、いくら街中といっても、どれだけの人の流れがあるのかわからない。

いても経ってもいられず、俺が起ち上がると、隣にいたひよりに腕を捕まれる。

「牧さんを助けにいくつもりなの?」

まだ電話が繋がっていて、こちらが一方的に盗み聞きしている状況だからか、ひよりは静かな声で問いかけてくる。

「当たり前だろ。このままじゃ牧さんが危ない」

俺もつられて小声で応える。焦りのせいでかなり早口になってしまう。

「場所知らないでしょ?」

「あっ、くそっ!」

ひよりの冷静な指摘に、俺はがくりと肩を落とした。今すぐに牧さんのところに駆けつけたいのに、それができないもどかしさで、俺は頭を抱える。

「大丈夫よ。手ならある」

「は?」

俺がひよりを見ると、彼女は真面目な表情で自分のスマホの画面を見せてきた。

そこには、俺たちの幼なじみでひよりの恋人でもあるさく兄とのトーク画面が開いてあった。

「今、牧さんたちはサークルの飲み会中なのよね?ってことは、そこに桜也もいるはず。桜也、今日はサークルの飲み会があるって言ってたから間違いないわ。

今から桜也に電話して、今すぐに店の外に出るように言うの。そうすれば、ひとまず牧さんを村松から離すことができるでしょ?」

ひよりにしてはとても鋭い名案だと思った。恥ずかしながら、牧さんのことに気を取られすぎて、さく兄の存在に今やっと気付いた俺には、感心のあまりただうなずくことしかできない。

「よし、今から隣の部屋で電話してくるから、いつきは電話の番をお願い。万が一にも村松が牧さんに何かしようとしたら、全力で大声出して牧さんを守るのよ!いつきの声は迫力あるから、村松をびびらせて牧さんが逃げる時間をつくることはできるからね」

ひよりは早口でそう言って、最後に俺の肩をポンと軽く叩き、急いで俺の部屋を出て行った。

俺は、ひよりが出て行った自室のドアを見つめて、感情で突っ走るタイプと、状況を見て行動するタイプと、普段の俺たちとは立場が逆だなと思い、つい口元が緩んでしまった。

こういう、いざというときには意外と頼りになる姉なのだと、ひよりに感謝しつつ、俺自身も落ち着きを取り戻してきた。

そして、ずっと無音のままの電話の向こうに改めて注意を向ける。

牧さんは、あまりのことに声も出せずに固まってしまっているのだろうか?突然、あんなことをまくしたてるように言い連ねられて、牧さんが感じている恐怖はとてつもないものだろう。

そのまま無言が続くのかと思った瞬間、また電話の向こうから声がした。興奮した村松さんの声だ。

「なんで…なんでですか!なんで首を横に振るんですか!高校生なんて、そんなませたクソガキ、さっさと別れてくださいよ!」

ずっと無言だと思っていたが、牧さんはしっかりと意思表示をしていたようだ。完全に萎縮してしまっているのかと心配していたので、ほんの少しだけホッとする。

村松さんはさっきよりもかなり気が動転しているようだが、まだ牧さんにつかみかかるようなことはしていない。まだだ。今すぐにでも声をあげてしまいたいが、電話越しで声をあげることしかできない俺は、本当に牧さんの身に直接的な危険が及びそうになったときに、村松さんを動揺させて牧さんに逃げて貰う時まで、村松さんに存在を気付かれてはいけない。

今、村松さんにとっての一番の地雷は俺だ。牧さんのスマホから男の声がすれば、確実に村松さんの感情を逆なでしてしまう。それによって牧さんに危険が及ぶ可能性もあるのだから、今の俺にできることは、今すぐに声を出したいこの衝動に耐え、さく兄が牧さんを助けてくれるまでの少しの間、牧さんを見守ることだけだ。

「なんで!なんで!なんでよ…」

声は聞こえないが、牧さんは村松さんの要求を断固として拒否しているようだ。村松さんの声が再び鳴き声混じりになる。

きっと、牧さんはここで村松さんの要求をのんで、俺に再び連絡してこの状況に俺を巻き込んでしまわないように、ひたすらに首を横に振り続けてくれているのだろう。

「…いや…。そんなの、私よりクソガキを優先する先輩なんていやです…。

ねぇ、じゃぁ、こうすればさ…。私を優先してくれますよね?先輩…」

そう言った村松さんの声音は、今までとは明らかに違う空気を纏っていると、電話越しにもはっきりとわかった。

本気でやばいと思って、俺が声を出そうとした瞬間、部屋にひよりが勢いよく戻ってきて、電話の向こうから牧さんの声が聞こえ、その後一気に騒がしくなった。

「村松さん!駄目!」

牧さんの大声の直後、何か堅い物がコンクリートの地面に落ちる音がして、直後に一人の男性とさく兄の声が聞こえてくる。

「おい!なにやってんだ、村松!」

「大丈夫?牧は怪我してない?」

「倉地君、露木君。私は大丈夫です。詳しいことは後で説明しますから、早く救急車を!」

牧さんの切迫した声に、状況が飲み込めない俺とひよりはスマホを見つめたまま動くことができずにいた。

この様子だと、救急車が必要なのは村松さんで、牧さんは無傷のようだから、そこは安心したが、まさか、村松さんは自分を…?

「牧、村松のことは俺が引き受けるから、とりあえず店の中に戻って、一旦落ち着いた方がいい」

「え?でも…」

「俺はこのサークルの部長だ。こういう時に動くのが俺の役目だ。

心配しなくても、村松はそんなに深くは切ってないようだから。お前が悪くないのはちゃんとわかってる。大丈夫だからな」

さく兄ではない方の男性、おそらく露木さんが牧さんに優しく語りかけている。

「来るのが遅くなって、本当にごめんね。さぁ、牧、行こう」

さく兄も牧さんを気遣いつつ、露木さんを残して二人で店の中に入った。

その間も、俺たちはスマホを見つめることしかできずに固まっていたが、我慢が出来なくなったのか、ひよりが口を開く。未だに電話の向こうに声が聞こえないように小声で囁くように俺に尋ねてくる。

「どういう状況?」

「よくわからないけど、村松さんがずっと牧さんに、今すぐ俺に電話して別れろって言ってて、牧さんが拒否し続けてたら、『なんで自分より俺を優先するんだ』ってなって、『こうすれば自分を優先してくれますよね?』って言った直後にこの騒ぎになったんだ」

俺も小声で、自分にわかる範囲で状況を説明する。

「それで村松が救急車を呼ぶほどの怪我をしたってことは、自分で自分を傷つけて、そうすれば、牧さんが自分のことを心配して、自分を一番に考えて行動してくれるって思ったってことよね?」

俺はただうなずくことしかできなかった。露木さんが「そう深くは切手ない」って言っていたということは、村松さんは牧さんの目の前で、何らかの刃物を使って自傷行為を行ったということだろう。深くないとは言っても、救急車が呼ばれるということはそれなりに流血しているはずだ。そんなことを目の前でされた牧さんの精神が心配だ。俺は再び、今すぐ牧さんのところへ向かいたい衝動に駆られる。

俺の表情から感情を読み取ったのか、ひよりが俺の手をぎゅっと握る。

その時、電話の向こうから声がした。

「牧、とりあえず、ここに座って、暖かいお茶飲んで。

俺は他の皆に今は店の外に出ないように伝えてくるから、すぐに戻ってくるけど、一人でも大丈夫?」

さく兄の声だった。そうだ。今牧さんは一人じゃない。さく兄も露木さんも他のサークルの人たちもいる。きっと俺の出る幕じゃない。

「はい。大丈夫です。

迷惑かけてごめんなさい」

返事をする牧さんの声にはいつものようなふんわりとした空気は無く、かなり憔悴しているようだ。

「牧。牧は何も悪くないよ。謝らなくていいんだよ」

さく兄は、彼らしい優しい声音で牧さんを慰めて、急いで他のサークルの人たちのところへと向かった。

「…はぁ」

一人になった牧さんは、張り詰めていた糸が切れたようにため息をこぼす。

今更ながら盗み聞きしている状況にとてつもないばつの悪さを感じて、ここで黙って電話を終えるべきか、牧さんにどう思われようとも一声かけてから終えるべきか悩んでいると、電話の向こうで布がこすれるような音がして、俺の心臓が跳ねる。

「やばっ!」

ひよりも焦って小さく声をあげる。

「…あれ?電話が…」

先ほどまでとは違いかなりクリアな音質で、牧さんの動揺した声が聞こえてくる。

「…あの…。すみません…。

盗み聞きみたいになっちゃって」

俺は居心地の悪さで、牧さんの次の言葉を待たずに声を出した。

「嘘!いつき君?私、あの時ちゃんと電話を切ったと思ってたんですけど…。もしかして、今までのこと、全部聞いてましたか?」

案の定、牧さんはかなり焦っている。

「すみません!俺が勝手に聞いてただけなんです!ずっと聞いてたのに、電話越しだからって何もできなくて、ただ聞くだけで、本当にすみませんでした!」

俺は、電話越しに牧さんに頭を下げた。

「あの!私、いつきの姉のひよりって言います!実は、私も聞いてました。牧さんが大変な時に、それを盗み聞く形になってしまって、本当にごめんなさい!」

ひよりは、こういうときに、自分だけ気配を消して黙っておくことができない正義感に厚い正直者なので、俺と同じように、電話越しに牧さんに頭を下げた。

「あ!倉地君の彼女さん…?

って、そうじゃなくて、あんな状況じゃ、心配させて電話を切れなくさせて当然ですから、お二人とも謝らないでください。

むしろ、まだ未成年のお二人に、あんな内容の会話を聞かせてしまって、本当にごめんなさい!」

「いえ、それは牧さんのせいじゃありませんから…」

そんな調子で、俺たちが謝罪し合っていると、さく兄が牧さんのところに戻ってきた。

「まぁまぁ、全員一旦落ち着いて。

牧。偶然だったかもしれないけど、今回はいつきと通話が繋がったままになっていたから、俺も章人もすぐに状況を把握できたし、あの場に駆けつけることができたんだから、結果オーライだよ。

いつき、ひよ。二人とも冷静に状況を把握して俺に伝えてくれてありがとう。

本当に情けない話だけど、ひよから電話がこなければ、俺たちは何も気が付けないまま、もっと大事になってしまってたと思う」

「そうだな。本当は、最近サークル内の女子たちの空気感がおかしくなったことには気付いてたんだ。

でも、ちょっとした喧嘩程度だと決めつけて何の対処もしなかった。この騒動は、部長である俺にも大きな責任がある。

牧。もっと早くに手を打っておけば、今回の事態は避けられたかもしれないのに、本当に申し訳ない。

いつき君もひよりさんも、巻き込んでしまって本当にごめんな。だけど、二人がいてくれたから、牧は無傷でいられたんだ。ありがとう」

さく兄に続いて、この場にやってきた露木さんが真剣な声音でそう言った。

「…そうですよね…。いつき君とひよりさんのおかげで、私は無事でいられました。

謝罪の前に、感謝を伝えるべきでしたね。

いつき君、ひよりさん、本当にありがとう。

露木君と倉地君も、駆けつけてくれてありがとう」

そういう牧さんの声は、いつものようなふわりとしたものに戻っていた。牧さんの気持ちが少し落ち着いてきたことを感じて、俺はホッと胸をなで下ろす。

「さて、ゆっくり話していたいところなんだが、さっき救急車が来て村松を病院に運んでもらった。同乗するように言われたが、村松が断固拒否したのと、俺が軽く状況を説明したことで、とりあえず同伴者無しで運ばれることになったんだが、俺たちもこれから病院に行って、いろいろと説明しないといけなくなったんだ。

牧、まだきついとは思うが、一緒に来て詳しい説明をしてくれるか?村松とは絶対に接触しないように病院側にも配慮してもらうし、お前を一人にはしないから」

「はい、もちろん大丈夫です」

「うん、というわけで、いつき君とひよりさん、一旦ここで電話を切っても大丈夫か?

二人もこの件の関係者にはなるけど、まだ未成年だし、直接現場にいたわけじゃないから、さすがにこれから病院に連れ出すわけにもいかないからな」

「「はい」」

露木さんにそう言われ、俺とひよりは同時にうなずいた。

「よし、じゃぁ、二人とも本当にありがとうな」

「この件はこれ以上大事になることはないから、二人とも安心してね。おやすみ」

「いつき君、ひよりさん。改めて本当にありがとうございました。

このお礼は必ずしますから、とりあえず今日はこれで失礼します。

おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

「三人とも、病院まで気をつけて行ってきてくださいね。おやすみなさい」

最後に俺がそう言って、この長かった電話は終了した。

「…」

「…」

電話を終え、俺は一気に身体の力が抜けてベッドにへたり込んだ。ひよりも脱力した様子で、俺の部屋の椅子に座り込む。

俺はそのままベッドに横たわり、片腕で頭を支えるようにしてひよりを見ながら口を開く。

「ひより、今日はマジでありがとな」

「あぁ、もう辞めよう。お礼と謝罪のオンパレードは、もうしばらくの間勘弁してほしい…」

そう言って苦笑いを浮かべるひよりに、俺も笑ってしまう。

「確かにな。

なぁ、一つ聞いていいか?」

「んーー?」

「お前、さく兄に電話でなんて説明したんだ?

さく兄も露木さんも、なんかもう全部状況わかってる感じだったじゃないか」

「あぁ、『今、いろいろあって牧さんといつきが電話で話してたんだけど、いきなり村松って人が来て、牧さんが自分以外の誰かと親密になるなんて許せない的なことを言って騒いでて、かなり興奮してるみたいだから、牧さんが危ないかもしれない。なんかその人、特に牧さんと男の人が仲良くするのが気にくわないらしくて、牧さんと仲がいい桜也と露木さんって人と牧さんの関係について良くない噂を流して、その結果牧さんが後輩の女子達から変な誤解をされて困ってるみたいなの。だから、今そこに露木さんがいるなら、二人で牧さんのところに助けに行ってあげて』って、割とそのまま伝えたよ。

そんで、私があまりに焦ってたもんだから、桜也もただ事じゃないってわかってくれて、露木さんを呼んで、二人で店の中から窓越しに様子を見て貰ったら、本当に牧さんと村松が一緒にいて、これから二人で様子を見てくるからって電話を切ったの。

なんか、露木さんの方は、村松が異常なくらい牧さんに執着してるって噂を聞いたことがあったらしくて、すんなり状況を理解してくれたよ」

なるほど、本当にいろいろ把握していたから、さく兄と露木さんの二人があの場に来てくれて、見ようによっては牧さんが村松さんに何かしたように見える状況でも、冷静に牧さんの身の潔白を信じた言動をとってくれたんだな。

「そっか、本当に良かった…」

「牧さんが無事で良かったって話?

本当にそうだよね。今回一番牧さんを守ったヒーローはいつきだよ」

「え?いや、俺が一番何もしてないだろう?ただ成り行きを見てただけじゃないか」

俺が苦笑すると、ひよりはすっと真面目な顔になった。

「そんなことないよ。

だって、そもそもいつきが牧さんとの疑似恋人の件を承諾してなかったら、今日このタイミングで牧さんからいつきに電話がくることも、その後の騒動が桜也や露木さんに上手く伝わることもなく、最悪牧さんが傷つけられてたかもしれないんだよ?

牧さんが疑似恋人との写真を用意して、今日の飲み会で皆に見せるって流れは、いつきが疑似恋人を断っていても変わらなかっただろうし、近いうちに村松が暴走することも避けられなかったはずよ。

つまり、いつきが疑似恋人を引き受けて、しっかり役目を果たしたおかげで、私や桜也、露木さんが事態を把握して動くことができて、結果牧さんは無傷だった。

それに、私たちが動いている間、ずっと牧さんを見守ってたじゃない?結果、いつきが直接的にアクションを起こすことはなかったけど、今回、こういう形で牧さんを助けるためには、いつきの存在が不可欠だったんだから。いつきはちゃんと牧さんを守ったんだよ」

俺は、ひよりの言葉に涙腺が緩みかけてしまった。正直、今回のことで俺も感謝してもらったけど、皆みたいに何かできたわけじゃないし、めちゃくちゃ情けない気分だった。牧さんのことが好きで、一番側で守ってあげたいのに、思うだけで、実際には露木さんやさく兄がまるでヒーローのように牧さんのもとに駆けつける様を、ただ見ていることしかできなかった。

不謹慎だけど、今回のことで牧さんが露木さんやさく兄のことを好きになってしまったらどうしようと、ものすごく不安になった。さく兄にはひよりがいるけど、露木さんと牧さんが付き合うことになったりしたら、多分、俺は今日の自分の行動を責めてしまうだろう。

だけど、ひよりのいう通り、今回は俺の存在が牧さんを守るために必要な歯車の一つになったのなら、それだけで、牧さんが無傷でいてくれただけで、充分だよな。

自分勝手な欲に支配されて、ちょっと村松さんと近い感情になりかけた自分に恐怖を覚えた。

村松さんの牧さんへの想いがどんな種類のものなのかはわからないが、大好きだったり大切だったりする人にとって、自分が一番の存在になりたいって気持ちは理解できる。だからって、相手の対人関係に手を加えようとしたり、相手の感情を無視してこっちの気持ちを押し売りするようなことは許されないけど…。想うだけならいいだろうか?

お願いだから、露木さんと付き合ったりしないでください。次に直接会った時、必ず告白するから、疑似じゃなくて、俺を本当の恋人にしてください…。

「いつき?なんでそんな険しい表情してんの?」

「あっ!いや…。露木さんと牧さんって結構仲いいのかなーって思って…」

俺はボーッとしたまま、思わず本音をこぼしてしまう。言った直後に我に返って慌てて弁解しようと思ったが、もう遅かった。ひよりは数秒間ぽかーんっとしていたが、プッと吹き出して、そのまま大笑いし始めた。

涙を流すほど笑って落ち着いた後、ひよりは楽しそうに口を開く。

「何よ。いつきったら、牧さんと露木さんの関係が進展しちゃうかもって心配してるの?嫉妬なんて、恋してるって感じでいいねー!」

「俺はお前のそういうところ、嫌いだ」

俺はうつ伏せになって枕に顔を埋める。

「ごめん!すねないでよー。

だって、普段は大人っぽくて落ち着いてるいつきが、恋愛が絡むと落ち着きが無くなったり、しっかり感情に振り回されたりしてて、いちいち可愛いんだもん」

俺は、枕から顔を離して、無感情な目をひよりに向ける。

「ふふっ、でも、安心して。牧さんと露木さんが付き合うことは絶対にないから!」

「なんでわかるんだよ?さく兄もそうだけど、今回の露木さん、めっちゃ格好よかったじゃないか。元々仲がいいし、今日をきっかけに二人の中が深まってもおかしくないだろう?」

それに、頭が追いつかなくて今になって記憶が繋がったが、露木さんって、俺が初めて牧さんと会った学園祭で牧さんをフロアの奥に連れて行った茶髪の男性と同一人物だよな?同性の俺から見てもかなりのイケメンだったし、牧さんと並ぶと、ものすごく絵になってたし…。どうしよう、なんかもう、牧さんと露木さんが付き合い出す未来しか想像できなくなってきた。

「確かに、普通に考えれば、二人が付き合い始めてもおかしくないかもしれないけど、露木さんには大事な恋人がいるから、牧さんとどうこうなることはないのよ」

「え?まじで?」

「お、いつきの目に光がもどってきた」

「なんで、お前がそんなこと知ってるんだ?さく兄から聞いたとかか?」

「違うよ。露木さんの彼女から聞いたの。だって、露木さんの彼女って、翔菜だから」

「…うそ、マジかよ!」

俺は、ひよりの口から出た意外すぎる人の名前に、驚きのあまりベッドから飛び起きて、再びベッドに座り直す。

翔菜さんとは、広瀬(ひろせ)翔(か)菜(な)さんといって、ひよりの親友で、俺ともクラスメイトの女子だ。清楚でおとなしくて頭がいい、男女とちらからも好かれている可愛い子だ。

そこから、ひよりによる広瀬さんと露木さんの恋模様をいろいろと聴かせてもらい、他人事ながらもドキドキさせてもらった。

「だからね。いつき、嫉妬しちゃうくらい牧さんのことが好きなんだったら、露木さんみたいに勇気出してみてもいいんじゃない?」

「さすがに、観覧車の頂上で告白は出来る気がしないな」

「ばか、そういうこと言ってんじゃないのよ」「わかってるよ。俺、次に牧さんに会った時に告白するつもりだから」

「おー!絶対、結果教えてよね!」

「どんな結果でもからかわないって約束するなら教えてやるよ」

こうやって、俺たちが笑い合っている今も、牧さんは村松さんが運ばれた病院で今日のことと向き合っているのだろう。今回の騒動は牧さんの心に傷を負わせただろうし、もしかしたら人から向けられる想い自体に恐怖を覚えるようになってしまったかもしれない。俺が告白することで、牧さんを苦しめてしまうかもしれない。だって、俺は少しだけ、村松さんの気持ちを理解できてしまうから。村松さんのようなことは絶対にしないし、牧さんの気持ちを無視するような言動はしないと誓えるけど、この感情を消すことはできない。

牧さん、自分勝手でごめんなさい。俺は、俺の勝手な感情で、貴女に告白をします。疑似恋人じゃなくて、本当の恋人になりたいんです。貴女のことが大好きだから、貴女の一番近くで、一番言葉を交わして、一番思いを重ねて、今度こそ、貴女が困ったときに一番に駆けつけられる。そんな、貴女の中で一番大きな存在になりたいんです。こんな、独占欲の固まりみたいな気持ち、受け入れてくれますか?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る