第2話 貴方の秘め事
春野柔らかな日差しが照らす、賑わうモールの入り口で、私、橘(たちばな)ひよりは、目の前を行き交う人の流れを、ぼーっと眺めていた。
そしてふと、その人混みの中から、仲睦まじく腕を組んで歩く一組のカップルが目にとまる。女性の方はよく見えないが、黒髪に黒縁めがねをかけた男性の顔は、よく見える。
「…桜也(さくや)」
その姿が、自分の恋人に重なって、私は思わずその名を呟いた。
そして、怒りと悲しさが押し寄せてきて、そのカップルから視線をそらす。
桜也…。あなたは、本当はあの時…。
もやもやした気持ちを振り払おうと、フルフルと頭を振り、また人混みに目をやる。先ほどのカップルは、もういない。
「ひよちゃーん!ごめんね。待った?」
その時、嫌な気持ちを吹き飛ばしてくれるような、大親友の可愛い声がして、私は、その声の方を見る。
「やっほー、翔(か)菜(な)!うんん、大丈夫だよ。むしろ、私の方がいつも待たせちゃってるから、今日は先につけて安心した」
そこには、予想通り焦げ茶のサラサラロングヘアの美少女が、息切れしながら立っていた。
彼女の名前は、広瀬(ひろせ)翔(か)菜(な)。高校で出会った、私の大親友。白地の花柄ワンピースがよくお似合いだ。
「何よそれ。まぁ、確かに待ち合わせとなると、私は、いつもひよちゃんに待たされているけどね」
「いつもすみません…」
「いえいえ、だけど今日は、待たせちゃってごめんね。
ということで、今日は私が、カフェのドリンクをおごらせていただきます」
「わお!翔菜様、さすが!太っ腹!」
「ふふっ、まぁ、これはどこかの遅刻常習犯さんの謝罪方を、真似しているだけなんだけどね」
「素敵な見本がいてくれて良かったね!」
「もう、ひよちゃんったら」
「さぁさぁ、翔菜!さっそくカフェに行くよ!
よーし、今日はカフェで一番高いドリンク飲んじゃおうかなー」
「あっ、待ってひよちゃん!
お手柔らかにー」
私たちは、いつもの調子で笑い合いながら、モールの中に入っていった。
やっぱり、翔菜といると、気楽だし楽しい。モヤモヤした気持ちも薄れていく。
「うわー!このチェリーアイスティーラテ、可愛い」
「ほんとだね。中にたくさん果肉が入っているし、クリームの上にかかってるソースもピンク色で春らしいし、すごく素敵」
カフェの席に向かい合って座った私たちは、たのんだ季節限定のドリンクを前に女子高生らしくはしゃいでいる。
「よっしゃ、これはSNS投稿決定だな」
私は、普段からよくSNSに写真を投稿しているのでこのドリンクも写真に収める。
「私も、写真撮っておこうかな」
そう言ってスマホを手に取る翔菜に、私は首をかしげた。
「あれ?翔菜がこういう写真撮るのって珍しいね。もしかして、あのネット音痴の翔菜がSNSデビュー?」
「ちょっ、ひよちゃん酷い!ネット音痴って」
「あら、何か反論があるのかしら?検索かけるのすら上手くできないじゃございませんか」
「うっ、おっしゃるとおりです…。
でもね、最近は時刻表確認したりとか、英単語の意味調べたりとか、少しずつ挑戦してるんだよ。まだまだ紙の時刻表を見たり、英和辞書引く方が楽だなって思っているけど…」
「あんたってホント、このデジタル社会で育っったとは思えないほどのアナログ人間よね」
翔菜は、本当に驚くほどのアナログ派だ。わからない言葉は、分厚い辞書で調べるし、初めてどこかに行くときは、大きな地図を広げる。私なんて、地図読めないのに。
スマホは、連絡ツールとしてしか使わないらしい。JKって、スマホがないと生きていけないような生き物じゃないの?少なくとも、私はスマホがないと困ることばかりなんだけど。
まぁ、翔菜はそれで不自由していないみたいだし、素早く辞書を引いたり、地図が読めたりするのって、今の時代、誰でもできることじゃないから、わざわざデジタル派になる必要はないと思うけど。本人は最近、ネット社会に順応しようと努力しているようだ。
「SNSじゃないなら、誰かに送ったりするの?噂の彼氏さんとか」
私がそう尋ねると、翔菜は、わかりやすくオロオロし始める。
「え、なんで?いや、その通りなんだけど…」
頬を染めて、うつむく翔菜。可愛い反応だ。
翔菜は数日前に、3つ年上の大学生の彼氏ができたらしく、とても幸せそうだ。相手は、翔菜の元家庭教師で、翔菜は、一年ほど前から片思いをしていた。私は、彼女からよく相談を受けていたので、翔菜から、「告白されて付き合い始めた」と聞いた時は、飛び上がるほど嬉しかった。
しかし、時間が経つにつれて、私の大事な、可愛い大親友を奪った男に、ジェラシーが沸いてきて、現在進行形で、メラメラと燃え上がっている。
だって、こんなに純粋で、今時レアなナチュラル天然で、優しくて、可愛い天使なのよ?相手の男が、もし駄目なやつだったら…。私、その男に跳び蹴りの一発や二発、絶対お見舞いしてやるんだから…。
私が、怨念じみた感情を、グルグルメラメラと渦巻かせていると、天使こと翔菜が、私の顔を覗き込んできた。
「ひよちゃん、顔怖いよ?鬼のようだよ?」
「え?あっ、ごめん。私、危うく人一人呪いそうになってた」
真顔で言う私に、翔菜は、
「怖い怖い!本当にやりかねない感じで言わないで」
と、怖がりながらも、ぷっと吹き出した。私たちは、互いに顔を見合わせて笑い合う。
本当に楽しいな。そう、本当に楽しい。そのはずなのに、心の片隅にあるモヤモヤが、地味に存在を主張してくる。
私は、そんな心の中の塊を消し去るように、ドリンクをストローでかき混ぜる。
「ひよちゃん?なんか、ドリンク、泡立ちそうな勢いだけど…。目もどこかいっちゃってるし、大丈夫?」
翔菜の心配そうな声で、私は、はっと我に返る。
やだ、いつのまにか、意識が脳内旅行してたみたい。
「いや、ごめんね。ちょっと最近、モヤモヤしちゃっててさ。今日も、翔菜に話聞いて欲しくて誘ったんだ」
私が、かき混ぜていたストローを止めて応えると、
「悩み事?なんでも聞くよ。どうしたの?」
と、翔菜が優しく微笑んでくれた。
「ありがとう…。
実は、彼氏からふられちゃうかもしれなくて…」
「え?彼氏さんと喧嘩でもしたの?」
「ううん、喧嘩なんてしたことないけど、ある意味、それが問題な気もするというか…」
私が、歯切れの悪い言い方をしてしまって、翔菜が首をかしげている。
正直、私も何からどう話せば良いのかわからなくて、翔菜に向けていた視線を斜め上にそらして、少し考える。
「えーとね、この話、少し長くなっちゃうんだけど、いいかな?」
「うん、聞かせて」
翔菜からの返事を聞き、私は、自分でも脳内で、これまでのことを整理しながら語り始めた。
「えーと、それじゃあまず、私たちが付き合うことになったきっかけから話させて。
私たちが付き合いだしたのは、ちょうど2年前くらいからなんだけど…」
随分と寒さを感じるようになってきた12月。中学3年生の私、橘ひよりは、初恋の相手に告白をした。
彼は、3つ年上の幼なじみ。家が隣で、親同士が学生時代からの友人であったことから、産まれたときから一緒に育ってきた、本当の家族のようなお兄さん。
だけど、私にとって彼は、いつからか、ただのお兄さんではなく、一緒にいるだけで心臓が張り裂けそうなほどドキドキしてしまう、初恋の相手になっていた。
彼の名前は、倉地(くらち)桜也(さくや)。
その日、彼の部屋で高校受験に向けて、勉強を教えて貰っていた。
彼は、その時高3で、大学受験の年だったが、AO入試で既に合格していたため、年明けに受験を控えた私と、私の双子の弟の勉強を見てくれていた。
いつもは、弟と一緒に勉強を見てもらうのだが、弟が体調を崩してしまい、その日は彼と二人きりだった。
大好きな人と、その人の部屋で二人きりなんて、緊張して勉強どころではなくなることは、容易に想像ができたし、弟が行かないなら、私も行かないでおこうと、彼のところへ行かない言い訳を探してみたが、私は嘘をつくのが苦手で、というか下手くそで、何も思い浮かばないまま、結局彼の部屋に行ってしまった。
案の定、その日の勉強会の内容は、ほとんど頭に入ってこなくて、全く集注できていないことが、彼にバレて、何度もノートで頭を小突かれた。
「…ひよ?もしかして、ひよも具合悪い?今日はずっと心ここにあらずって感じだし、顔も赤い…。ちょっと、おでこ触るよ」
あげく、彼に勘違いされて、心配をかけてしまった。
「あっ、私は平気!大丈夫だから、ちゃんと集注するから、勉強の続き教えて!」
彼に接近されたら、もっと顔が赤くなってしまうと想って、私は、大げさに元気アピールをしてみせた。
「そう?でも、今日はこの辺で終わりにしよう」
「ごめんなさい…。せっかく勉強見てもらってるのに、全然集注できなくて、怒っちゃったよね…。本当にごめんなさい…」
そう言ってうつむいた私の頭に、彼の手がそっと触れて、優しく撫でてくれた。
「謝らなくていいよ。ひよが、普段からとても熱心に勉強に取り組んでいるのを、ちゃんと見ているから。
だからこそ、そんなひよが、今日は様子が違うから、心配なんだ。
本当に身体は大丈夫?それとも何か、悩み事があるとか?」
彼の優しさに、私の心を支配していた緊張とか、どうしようもないほどの胸の高鳴りが、すーっと落ち着いていくのを感じた。
彼の優しい声と言葉は、穏やかで、暖かくて、いつも安心をくれる。
まぁ、私の様子がおかしい原因は、貴方なんですけどね。そう思うと、心から心配してくれている彼には、とても申し訳ないが、なんだか笑ってしまった。
「ふふっ」
「?」
「あっ、ごめんね。こんなに心配してくれて、優しい言葉をくれて、私には、こんな素敵な幼なじみのお兄さんがいて、幸せだなって想ったら、なんだか嬉しくて笑えてきちゃった」
「…ひよ…。なんか、こっちの方が嬉しくなっちゃうな。そんなふうに言ってくれて、ありがとう。
俺も、こんなに素直で可愛い幼なじみがいて、幸せだよ。
あーあ、こんな可愛い妹、いつかどこかの男に取られちゃうと想うと、お兄ちゃんは悲しいよ」
彼のその言葉で、一旦落ち着いたはずの私の胸は、ぎゅっと締め付けられた。
妹…。その言葉が、頭の中でグルグルと渦を巻く…。
いや、私もさっき、「お兄さん」って言ったけど。彼にとって、私はただの妹という認識なのだと突きつけられたようで、胸が痛い。
「ひよ、どうしたの。やっぱり具合悪い?」
気がつくと私は、無意識に彼の着ているパーカーを握りしめていた。
「…ねぇ、お願いがあるの…」
そして、彼の胸に顔を埋めるようにして、私は彼に一つの頼み事をした。とてもわがままで、自分勝手な頼み事を。
「もしも、私が第一希望の高校に合格したら、私と付き合って」
「え?」
突然、変なことを言ってしまったせいで、彼の身体が跳ねたのが伝わってきた。
だけど、一度言葉にしてしまったら、もう戻れない。止められない。
「私がどこかの男と付き合って、その人のものになっちゃうのが、本当に悲しいと想ってくれるなら、さく兄が、私の彼氏になって。
好きなの…。さく兄のことが大好き…。私の初恋なの…」
言ってしまって、直後から心臓がバクバクしてきて、恥ずかしさで、その場から逃げ出したくなった。
少しの沈黙の後、彼は、自分の身体から、そっと私を離し、うつむきがちの私の瞳を、まっすぐに見つめて、
「…いいよ…。ひよが本気なら、そのお願い事、聞いてあげる」
と、言ってくれた。その表情は、いつもと変わらない優しいものだったけど、声はどこか大人びていて、深く落とし込むような、落ち着いたものだった。
「それで、約束通り、第一希望の高校。つまり、今の学校ね。そこに合格して、改めて、私から告白して、付き合い始めたの」
私は、ドリンクを一口飲んで、一度休憩する。
「そうだったんだ。第一希望に合格したら付き合ってだなんて、なかなかすごい告白だね。
しかも、それでひよちゃんはちゃんと第一希望に合格したし、桜也さんも約束通り彼氏になって、それが2年経った今でも続いているんだから、二人は、本当にお互いのことが好きなんだね」
そこまで言って、翔菜は固まってしまった。
「そう。私もこの2年間、彼の気持ちを疑った事なんて無かったの。さっきも言ったとおり、喧嘩なんてしたことないし、付き合ったきっかけは、私のわがままだったけど、彼からもちゃんと、『好きだよ』とか、『可愛いね』とか言ってもらっているし。
だけど、最近、彼が私に隠し事していたことがわかったの」
「隠し事?」
「うん、2週間前にね、私のお母さんと、彼のお母さんが話してるのを聞いちゃって。
彼、一人暮らし始めるんだって。もう部屋も決まってて、今引っ越しの準備中なんだって。
私、何も知らなかった。一人暮らし始めるなら、先に教えてくれてもよくない?私、彼女なんだよ?」
「そうだね。それで、桜也さんとはお話ししたの?」
翔菜の問いかけに、私は首を横に振る。
「彼、今大学のボランティア活動で他県に行ってて、電話して聞く勇気もなくて…」
「そっか。それは、余計に不安になっちゃうよね」
「うん。本当にいろいろと考えちゃって。
桜也、本当は私と付き合うの嫌だったんじゃないかなって。優しいから、あの時は私のわがままに付き合ってくれたけど、内心は早く別れたくて、それで、私にギリギリまで内緒にして遠くに引っ越して、分かれるきっかけを作りたかったんじゃないかなとか…」
言っていて、自分の視界がぼやけていく。そして、静かに涙が両頬を濡らしていく。
「…ひよちゃん…」
「ごめん…。私、すごく不安で。翔(か)菜(な)に話聞いてもらったら、なんか、我慢できなくなっちゃった…」
涙は、どんどん溢れて止まらない。
「今は我慢なんてしなくていいんだよ。いっぱい泣いていいんだよ」
翔菜は、優しい声音で、私を慰めてくれる。本当に優しい。
ブー ブー
私の涙が落ち着いてきた頃、私のスマホが鳴った。
さっきapしたドリンクの写真に、反応がきたのかと思って、何気なく画面を見ると、
「わっ!」
そこには、『桜也さんからのメッセージ』と表示されていた。
「すごいタイミング」
私からスマホ画面を見せられた翔菜は、驚いた様子でそう言った。
「…開くの、ちょっと怖いんだけど…」
「まぁまぁ、きっと、普通の内容のメッセージだよ」
翔菜はそう言いながらも、その表情に少しの緊張を滲ませている。
私は、一度深呼吸をして、スマホ画面をタップした。
『明明後日、予定空いてる?』
という、シンプルなメッセージだ。私は、あまり考えすぎないようにして、普段通りの返信をする。
『空いてるよ。どうかしたの?』
『久々に時間ができたから、よければ一緒に出かけない?ドライブとか』
彼は、今ちょうどスマホを見ていたのか、すぐに返信が戻ってくる。
ドライブデート…。久々のデート…。嬉しい…。
素直な喜びの後、やはり不安が顔を出す。
このデートでふられちゃうのかも…。
『ドライブデートだね!行きたい!』
そんな不安を悟られないように、やり取りを続ける。
そして、何度かやり取りを繰り返して、明明後日、彼の車でアウトレットへ行くことになった。
「わー!どうしよう、翔菜!デート行くことになっちゃった…。しかも、ドライブデートとか初めてなんだけど。密室だよ。緊張とモヤモヤと不安とで、もうぐちゃぐちゃ…」
急展開にどうにかなりそうな私を、翔菜が必死に宥める。
「ひよちゃん、とにかく一旦落ち着いて。落ち着いてっていうのが酷な状況なのはわかってるけど、とりあえず深呼吸して」
私は、翔菜に言われたとおり、深呼吸を繰り返す。深呼吸のテンポが速過ぎて、
「え、過呼吸なの?大丈夫?」
と、翔菜の方が私以上に取り乱しそうになったけど、私はなんとか落ち着きを取り戻した。
「ふー、翔菜、ありがとう…。翔菜が居なかったら、私パニックでどうにかなってたよ」
「落ち着いたみたいで良かった。まぁ、何にしても明明後日になってみないと、なんとも言えないね…」
「うん…。もう覚悟決めて、明明後日のデートに臨みたいと思います…。もしもの時は泣き言に付き合ってね…」
表情を引きつらせたまま、私は翔菜の手をひしと握りしめた。
そして、運命の日がやってきた。この3日間、心がざわめきっぱなしだったけど、覚悟は決まっている。
もしも、桜也が私を好きでなくて、この2年間、わがままに付き合わせてしまっていたのなら、ちゃんと終わりにしなくちゃ。苦しいけど、悲しいけど、相手に無理させて恋人ごっこを続けていたって、幸せじゃないから…。
「よし!」
洗面所の鏡の前で、自分の両手で頬を叩く。気合いがあれば何でも出来るのだ!
「何してんだ?顔険しすぎてこえーぞ。あと、洗面所占拠すんな。支度ができん」
せっかくの気合いを、背後からの声で踏みにじられそうになったけど、気にしない気にしない。
鏡越しに背後を見ると、洗面所のドアを開けて眉間にしわを寄せた私の双子の弟、いつきが立っていた。
「あー、ごめんごめん。今どくから。ていうか、いつきだって顔怖いよ。せっかく大人っぽいイケメンって、女子に人気なのに、しわが増えて老け顔になっちゃうよ。大人びた男はモテるけど、おじさん顔のDKはモテないぞー」
「うるさい。誰のせいだよ。てか、老け顔とかおじさん顔とか言うな。
そんなことより、お前今日はさく兄とデートなんだろ?いつもなら朝からうるさくはしゃぐのに、今日はやけに静かなんだな。まだ顔怖いし」
鏡の前からどいた私と入れ替わりで髪を整え始めたいつきが、鏡越しに私を見る。あれ?なんか心配してくれてる顔だ…。
いつきは、私の弟だけど、顔立ちも性格も大人びていて心配性で面倒見が良くて、童顔で元気と笑顔が取り柄の私の兄みたいな感じだ。背も20cmくらい高いし。双子だからどちらが上とかない気もするし、二卵性だから見た目が似ていなくてもおかしくはないけど、あまりにもいつきの方がお兄さんオーラ出まくりだから、なんか複雑。といいつつ、いつきに頼ってばかりなのは私なんだけど。
そんな、面倒見が良くて優しい弟に、私は全力スマイルを向ける。
「心配してくれてありがとう。大丈夫。初ドライブデートに緊張しているだけだから」
「あー、そういうことなら、さく兄との待ち合わせまでには、その顔なんとかした方がいいぞ。お前の緊張している顔は鬼の形相だから。いくらあのさく兄でも、さすがに引かれるレベルだぞ」
いつきは、本当は何か他に言いたいことがありそうだったけど、それを飲み込んだみたいだった。
私は、今度は柔らかく微笑んで、
「了解。人っていう字を飲み込みまくって、なんとかするわ」
と、右手でグットサインを作って、洗面所を出た。
なんだか、いつもの私に戻れた気がする。ありがとう、いつき。
「久しぶり、ひよ」
「うん、久しぶり。誘ってくれてありがとうね」
家野玄関を出ると、既に黒い車が止まっていて、運転席から黒縁めがねに黒髪の青年が降りてきた。
はい。噂の私の彼、倉地桜也さんです。
彼と会うのは、彼が忙しくしていたので、約1ヶ月半ぶりだ。私がグルグル不安にのまれてしまったのは、長いこと会えていなかったことにも原因がある。
酷く気持ちが落ち着かないわけではないが、いつも通りを意識するあまり、なんだかドギマギしてしまう。
車に乗って、しばらくは他愛もない会話が続いたけど、ふとした時に沈黙がうまれる。付き合い始めて今まで、二人きりで沈黙になることなんて何度もあったし、むしろそんな時間も心地よかったはずなのに、今日のそれは、とても苦痛だ。胸の中にくすぶる不安を増幅させる。
だから、なんとか会話を見繕っては、沈黙を避け続けた。彼といて、こんなに精神力が削られるのは初めてだ。
そして、何度目かの会話の途切れ目、私は必死に次の会話を探していた。すると、車が脇道に入る。ここは梗塞道路の上。アウトレットの近くのインターまでは、まだ距離があるはず。
私が顔を上げて外を見ると、車はサービスエリアの駐車場に入っていた。
「飲み物でも買わない?」
「あっ、うん」
そろそろ精神の消耗が限界を超えそうだったので、これは助かる。
私たちは車を降りて、飲み物を買いに自販機へ向かった。
だが、自販機までの道のりで、フライドポテトやソフトクリームなどの屋台の並びに、フルーツジュースのお店を発見。心躍る、ポップな屋台に釘付けになってしまう。
「ねぇ、桜也!絞りたてフレッシュジュースだって!私、あれにする!」
「へー、美味しそうだね。俺もあれにしようかな」
というわけで、私たちは二人で、ジュース屋さんへ向かった。
「おー!これ美味しい。メロンそのまま溶かしましたって感じ。甘くてとろってしてて、最高!」
私が、メロンジュースの美味しさに感動していると、
「相変わらず、ひよの食レポは、微妙に美味しそうに聞こえないよね。メロンそのまま溶かしましたって」
横でリンゴジュースを飲んでいた桜也に笑われてしまった。
私的には、ナイスワードチョイスのつもりだったんだけど。
「じゃあ、桜也は上手に食レポできるの?お手本を要求します」
そう言って、イタズラっぽく笑ってみせる私に、桜也は、「えー」と言いつつ、一瞬考えてから応える。
「うーん、このリンゴジュースは、甘いリンゴの蜜だけでできてるんじゃないかってくらい濃厚で美味しいよ」
「私とそう変わらなくない?まぁ、リンゴジュースの方も飲んでみたくはなったけど」
「そう?メロンそのまま溶かしちゃうよりはいいと思ったんだけどなー。
あ、飲みたいならどうぞ」
「やったぁ!ありがとう!」
気付いたら、不安やモヤモヤなど忘れて、いつものようにはしゃいでいた。この人といる時間は、本当に楽しい。リンゴジュースも美味しかった。
結局、わちゃわちゃとしている間にジュースを飲み干してしまったので、サービスエリアを出る前に、ペットボトルのお茶を2本買って、車に乗り込む。
再び、車が高速に乗って走っていく。
この時間がずっと続けばいいのにな…。
「…ひよ」
少しぼーっとしながら、窓から遠く流れるビル群を眺めていた時、突然名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「えっ、な、何?」
慌てて運転席の桜也の方を見ると、彼はチラリと横目で私を見た。
「なんか、今日のひよはいつもと違う気がするなと思ってさ。何かあった?」
唐突にきてしまった。今日一番大切かつ緊張の瞬間…。どうしよう。何をどう言葉にすればいいの?
「え?なんか違うところあったかな?私、普段通りだよ」
はい、心の準備が間に合わず、取り繕うことしかできませんでした。
「いつもより元気がないよ。何か気がかりなことがあるような、心ここにあらずって表情してるし、かと思えば、会話が途切れないように必死になったりとか」
なんか、私って何一つとして取り繕えてないな…。桜也はまっすぐ進行方向を向いているけど、横顔から読み取れる表情は、どこか複雑に見える。
せっかくのドライブデートだから、この話題は、できれば一日の最後に取っておいて、昼間の内は、ただ楽しみたいと思っていた。だけど、この調子ではデートを楽しめそうにない。
もう、言ってしまおう。聞いてしまおう。なぜ引っ越しのことを教えてくれないのか。私のこと、本心ではどう思っているのか。
「うん。よくわかったね。私がいつもと様子が違うって。上手く隠そうと頑張ったんだけど」
「やっぱり。それはわかるよ。ひよは隠し事できるようなタイプじゃないし、ずっと見てるんだから、様子が違うことなんて、すぐわかる。
ひよが良ければ、話してみて。元気がない理由」
「うん。なら、教えて欲しいの。何も隠さず正直に」
私は、自分でも驚くほど落ち着いた声音で切り出す。
もしかしたら夢の終わりに続いているかもしれない話題の扉を、自ら開きに行く。
「え?ひよの心配事って、俺についてのことなの?
わかった。何が知りたいの?」
桜也は、話題の中心が自分になるとは思っていなかったらしく、驚いていたが、すぐにいつもの優しい語り口に戻る。
さぁ、貴方の本音を聞かせて。
「一人暮らし始めるんでしょ?桜也のお母さんが話しているのを聞いちゃったの。なんで、教えてくれないの?」
まずは、私の中に不安をうんだ原因からつめていく。
「あぁ、一人暮らし。確かに始めるつもりだけど、まだ具体的なことは何も決まってないから。1週間前くらいに親と話して。せめてどの辺りに住むか決めてから、ひよにも話そうと思っていたんだけど。
ごめん。周りの人が話しているのを聞いて、本人からは何も教えて貰えなかったら、なんだか不安になっちゃうよね」
おや?なんかおかしくない?
「え?私がこの話を聞いたのは2週間くらい前だし、その時は、もう部屋まで決めてて、後は引っ越しするだけだって話だったけど…?」
内容が食い違ってるんだけど、どういうこと?
桜也も疑問符といった感じで、車内に妙な空気が流れる。
「えーっと、ひよがその話を聞いた時、母さん、俺のことって言ってた?」
「い、いや…。うちのお母さんと桜也のお母さんが話しているのをたまたま聞いただけだから、私が聞いてた限りでは、桜也のことだって明言はしていなかったような…」
言いながら、自分が冷や汗をかいていることに気が付く。私、とんでもなくそそっかしい勘違いをしていたのでは…?
「で、でも、『大学も3年生になるし、勉強も忙しくなるから、大学の側で一人暮らしするんだ』って言ってたし、桜也のことだって思って…。
私、彼女だし、せめて引っ越しの日取りが決まってからでもいいから、話してほしかったなって。今日もそういう話題にならないから、なんで話してくれないのかなって思って…」
自分の声がどんどん小さくなっていく。顔もうつむいていく。
「あぁ、たぶんそれは、俺の大学の友達の話だよ。ちょうどそれくらい前に、俺が母さんにその友達が一人暮らし始めるって話をしたからね」
はい、完全に私の勘違いからの、一人で空回っていただけでした…。いや、翔菜やいつきに心配かけて、私ってなんて人騒がせな女なんだろう…。
「ごめん…。私、勝手に勘違いして、せっかくのデートなのに、桜也に気を使わせて、謝らなくていいことで謝らせちゃって…。本当にごめんなさい…」
恥ずかしいし、この場から、桜也の前から逃げ出したいけど、今は高速を走る車の中。逃げ場などない。恥ずかしさに耐え、とにかく謝る他ない…。
「ははっ、いいよ。勘違いなんて何も悪いことじゃないし。なんか、そのおっちょこちょいなところが、ひよらしくて可愛いし。
それに、心配事があるのに隠して悩まれるより、今みたいに直接話してくれた方が、俺は嬉しいな。
ちゃんと話してくれてありがとう」
本当にこの人は、どこまでも優しい。
「それに、実際俺も一人暮らし始めるわけだし、早めにひよに話ができてよかったよ。
たぶん、5月末頃に引っ越すと思うから、そしたら、部屋に遊びにおいで」
「…うん、ありがとう」
不安の種が勘違いだとわかって安心した。でも、一つの不安が取り除かれたことによって、もう一つの不安が膨張していく。
彼が私をどう思っているのか。
一人暮らしの件が私の勘違いだとわかった今、それを理由に別れを告げられるかもという可能性は無くなったけど、一度膨らんでしまったこの疑念は、白黒はっきりさせなければ、もう消えてはくれない。
「それじゃあ、後一つ聞きたいことがあるんだけど…」
「ん?他にも気になることがあるの?」
私が再び声音を低くしたためか、「まだあるんかい」という気持ちからか、桜也は苦笑いを浮かべている。
「うん。これは聞きたいことというか、確かめたいことというか…」
引っ越しの話は勢いで切り出せたけど、これはなかなか言葉にするのに勇気が必要だ。
だって、こんな密室で、恋人の気持ちを確かめるなんて…。あー!こんな場所で話すんじゃなかったぁー!
いや、まてよ?今なら、まだ何も内容には触れていないわけだから、ごまかしてしまえばいいのでは?だって、何もこんな密室で聞かなくても、もっとこう、逃げ場のある所で…。
「ひよ、どうしたの?」
「あっ、えーと、そのー…。やっぱり今はいいです…」
「そんなに言いにくいこと?それが俺についてのことなら、ちゃんと教えてほしいんだけど」
「いや、そんな重要なことではないから…」
「そっか…。
そうだ、ねぇ、ひよ。今日はアウトレットじゃなくて、御苑に行ってみない?」
「え?御苑って、あの日本庭園とか、いろんな庭を散策できる巨大な公園のこと?」
「うん。かなり大雑把に言えばそんな感じ。次のインターで降りた先にあるんだけど、今日はすごく天気がいいし、散歩したら楽しいと思うんだよね。それに、御苑の側に美味しいプリンが食べられるカフェがあるみたいだから、一度行ってみたかったんだ」
桜也の突然の提案に、ものすごく驚く私。話題がそれて助かったけど。というか、話題を変えてくれたんだよね。
だけど、桜也がデートの行き先を突然変更したがるなんて珍しいことだ。普段から、私の方が振り回してデートの内容変更をすることはあっても、桜也がそれをするのは初めてだ。
「いいよ。私、大きな庭を見るの、結構好き。プリンも食べたい」
いつも振り回していることと、今日、かなり気を使わせてしまっていることへの申し訳なさもあるし、桜也の行きたいところにお付き合いさせていただきたいと思います。
「よし、なら決まりだね。アウトレットには、次のドライブの時に行こう」
ということで、車は御苑に向かって走って行った。目的地に着くまでの間、私たちは普通に会話をしていた。
私の中のモヤモヤとした不安と、おそらく私のせいで彼の中にもうまれたであろう不安を、お互いに抱えたまま。
「うわー!桜が満開だ。綺麗」
御苑の側の駐車場に車を止め、お昼時だったので、近くのイタリアンのお店で昼食を取り、午後の日差しに包まれた御苑の自然の中を歩く。
平日とは言え、春休み期間中であることから、御苑には多くの人が訪れているが、皆、広大な都会のオワシスで、のんびりとした時間を楽しんでいる。
そんな穏やかな空気の中で、私の心のざわつきはすっかり落ち着き、目の前の満開の桜に心を奪われている。
「近所の桜は、もう散り始めていたから、ここは、まだ満開で良かったね。
ひよは小さい頃から、本当に桜が好きだよね」
「うん!満開の桜は華やかだし、一つ一つの花は可愛いし、散る花びらも綺麗だし、なんか桜也に似てるから好き」
「俺と桜が似てるの?」
「そうだよ。桜の花って、優しい色をしてるでしょ。それに大きくて、風が吹いたときに花びらが舞ってるときなんか、優しく包まれているような感覚になるの。それが、優しくて、包容力のある桜也の雰囲気と重なってみえて、昔から、桜を観ると桜也が浮かぶんだ。だから桜って大好きなの」
ちょうど風が吹いて、花びらが舞う様子に見入っていた私を、桜也が後ろから包み込むように抱きしめてきた。
「え?桜也、どうしたの…」
今まで桜を観るのに必死になっていて、心がふわふわしていたから、突然のバックハグで、一気に意識を現実に連れ戻された感じだ。
「やだ?」
耳元で桜也が囁く。耳に息がかかる距離。心臓がドキドキを超えてバクバクしている。
「やじゃないけど、人に見られちゃうよ…」
私の声は、緊張で上手く出なくて、とても小さい。
「大丈夫だよ。ここは通路から少し奥に入った所だし、休憩所の建物の陰になっているから、俺たち以外に人はいないよ」
桜也の囁き声は、普段の声より少し低くて、耳が弱い私は、桜也が話す度に身体が跳ねないように必死に我慢する。
確かに、桜也が言うとおり、周囲を見ても人はいない。
ほっとしたのもつかの間で、私は余計に緊張してくる。
だって、人が来ないということは、もうしばらくこのバックハグ状態は続くということでしょ?バックハグが嫌なわけでは断じてないけど、心臓はバクバクいってるし、耳元で囁かれて、身体が反応しないように我慢するのもそろそろ限界だし、身体ビクッてなったらめっちゃ恥ずかしいじゃない?
「ふふっ、顔真っ赤だよ。恥ずかしいの?」
「うっ」
やっちゃった。思いっきり身体ビクッてなった。なんか声も出ちゃったし、恥ずかしい。
私は、元々うつむきがちだった顔を余計にうつむかせ、顔から火が出るほどあつくなる。
それでも桜也は、私を解放してわくれないようだ。一度私の耳元から顔を離して、
「なるほどね」
と、つぶやき、再び耳元で囁いてくる。
「ひよは、耳弱いんだね。今後の参考にするよ」
今度はかろうじて声は出なかったが、身体はしっかりビクッとなる。
桜也は、一人楽しそうにしているが、彼がこんな意地悪をしてくるのは初めてだ。というか、いつもの桜也とは違う。なんだか怖い。
「桜也…。そろそろ離して…。周りに誰もいなくても、外ってだけですごく恥ずかしいよ…」
「…ひよが、ちゃんと言いたいこと言ってくれるまで離してあげないよ」
「え?」
「恋人同士だからって、言えないこともあるのはわかるけど、今のひよは、言いたいことがあるけど、言い出せないって感じだよね。それも、俺に何か聞きたいことがあるんでしょ?ひよがなかなか言い出せないことなのは見ていてわかるよ。だけどね、一人で思い詰めていたら、どんどん悪い方にいっちゃうでしょ?
おれはね、ひよが一人で悩んで傷つくのは嫌なんだ。ひよの中に、俺に対して言いたいけど言えないことがあるなら、どんなことでもちゃんと受け止めるから、話してほしいんだ」
桜也の声は、とても真剣だ。
それに、バックハグからは開放してくれないけど、わざと耳元で囁くのはやめてくれた。
むしろ、この状態なら、桜也の顔を見て話さなくていいから、少し話しやすいかもしれない。
桜也は、受け止めると言ってくれた。桜也に確かめる以外に、この不安を消す策がないのなら、聞くしかない。勇気を出さなくちゃ。
「…わかった。じゃあ、聞くね」
「どうぞ」
「桜也は、私のことどう思ってる?」
「どう思ってるって?」
「ほら、私たちってさ、私のわがままから付き合うことになったじゃない?
桜也からも、好きってたくさん言ってもらったけど、どうしても自信が持てないの。
桜也は優しくて、いつも私に合わせてくれるでしょ?
私がどんなにわがまま言っても、面倒かけても、一度も怒らないし。
だからって、桜也の気持ちを疑うなんて、彼女として酷いのはわかってるけど、でも、どうしても思っちゃうの。桜也が私と付き合ってくれているのは、私のことが恋愛対象として好きなんじゃ無くて、優しいから、私のわがままに付き合ってくれているだけなんじゃないかって。
それに、付き合って2年経つのに、まだ恋人らしいこともほとんどしたことないし…」
私は、糸が切れたように、今まで溜め込んできた不安を打ち明けた。
確実に桜也を困らせた。だけど、言ってしまったのだから、後は桜也の次の言葉を待つほかない。
すると、桜也はすっと私から離れる。
驚いた私がうつむいていた顔を上げると、目の前に桜也がいた。
なぜか眼鏡を外し、まっすぐに私を見つめている。
「…さく」
名前を呼ぼうとして、その声は桜也の唇によって遮られる。
突然のことに、私は身体が固まってしまう。
触れ合っている唇が熱い。
自分の心臓の音だけがやけにはっきりと響いてくる。
きっと、キスしていた時間は、そう長くはないはずだが、私にはものすごく長く感じた。
唇が離れても、呆然としている私に、桜也は目線を合わせて微笑む。
「確かに、キスもまだだったね」
「桜也…」
「ひよの質問への応えだけど、俺は最初から、ひよのわがままに付き合っていたわけじゃないよ。だって、あの日、ひよが初めて俺に思いを伝えてくれた日、あの時にはもう、俺はひよを特別な意味で好きだったんだから。
だから、付き合い始めてから、俺はずっと心の底からひよに『好きだ』って伝えてきた。
だけど、そうだね。いくら言葉で『好きだ』って言っていても、足りないよね。だって、口で『好きだ』って言うのなんて、本気で好きじゃ無くても出来ることだから。
だけど、キスとか、それ以上のことは、好きでもない相手とはしないから。今までは、いろいろ遠慮しちゃってたけど、それでひよに不安な思いをさせてるんじゃ意味ないし、これからは我慢するのやねるね。いい?」
今、私の目の前にいる桜也は、いつもよりもずっと大人の男性という雰囲気で、普段の優しい口調はそのままに、だけど、なぜか逆らえないような圧も感じられる。
私は、無言でうなずく。私の顔は、きっと今も真っ赤だ。桜也の応えがものすごく嬉しい。言葉だけじゃ無くて、行動で示してくれた。それも、何の迷いもなく。
あのキスが、桜也の気持ちを表しているんだ。
そうして、先ほどのキスを思い出して、またドキドキしてくる。恥ずかしくて桜也の顔を見ることができない。
「あと、もう一つ。
ひよは、俺がものすごく優しい人って思ってくれているけど、そんなことないよ。
ひよと付き合ったのは、ひよのことが好きだからだし、ひよが喜んだり楽しんでくれるのを見るのが好きだから、ひよのお願いは聞いてあげたいと思う。
怒るくらいなら、話し合いで解決した方が効率的だと思うし、そもそも怒るのが得意じゃないから、滅多に怒らない。
だから、ひよには俺が優しい人に見えるんだと思うけど…」
そう言いながら、桜也は、うつむく私の頬に触れ、自分の方を向かせると、もう一度唇を重ねてきた。
そうして、唇を離した後も、恥ずかしくてどうにかなりそうな私に、うつむくことを許してくれない。
「俺、ひよの笑顔と同じくらい、照れたり困って涙目になってたりする顔も好きなんだよ」
そう言って、意地悪に笑う。桜也のこんな表情、初めて見た。
こんなの反則だよ。ギャップ萌えだよ。
「こういう俺は嫌い?」
桜也の問いかけに、私は思いっきり顔を横に振って、桜也に抱きつく。
彼の胸に顔をうずめて、素直に伝える。
「大好き!
桜也の気持ち、疑ってごめんね。でも、そのおかげで、今までよりも桜也との距離が近くなった気がする。
これからもよろしくね。桜也」
「こちらこそ、これからもよろしく。
大好きだよ。ひより」
そう言いながら、桜也は、そっと私の頭を撫でてくれた。
恋人になっても、相手のことでの悩みはつきない。きっと、成就した後も恋は終わらない。
だけど、不安になったり、悩んだりしても、相手ときちんと向き合って、話し合っていくことができれば、ちゃんと恋は続いていく。
私は、かなり臆病だったけど、桜也のおかげで、不安を解消することが出来たし、桜也の新たな一面を見ることが出来て、今まで以上に桜也への恋心が強まった。
今日、私は恋人に、もう一度恋をした。
話を聞いてくれた翔菜に、ちゃんと報告しなくちゃ。ちゃんと向き合えたよって。彼はちゃんと受け止めてくれたよって。いつきにも心配かけちゃったし、帰ったら元気な顔見せて安心して貰わないとね。いつきは、本当に心配性だから、ちゃんと安心させてあげなくちゃ、気苦労で老けちゃうかもしれないし。
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