第七話
沫衣の手紙を発見してから。つまり、帷が大声で泣いたあの日から数日後。
今日はいつもより少しだけ特別な日だった。幼いときはもちろん、高校生になった今でもわくわくする日。なにかがあるんじゃないか、そんな期待で胸が膨らむ日。――今日は、クリスマスイブだった。
今年こそは何かが起こる、そんな予感がしていた。……そのはずだったんだけど。
「なんで、ひたすらキャンドルを立ててるんだ……」
話は十時間ほど前に遡る。
最初の言いだしっぺが誰だったかは覚えていない。ただ、鼓星のいつもの席で琴莉と佐崎と一緒に夕飯を食べていたときだった。些細なことで琴莉と佐崎が言い争い、まあまあと止めに来た姫川もいつの間にか第三勢力となって白熱した議論が繰り広げられた。
そこらへんで終わらせておけばよかったのに、三人のうち誰かが、飲んだ酒の量で誰が正しいかを決めようと愚かなことを言い、よしておけばいいのに姫川はテキーラの大瓶をバックヤードから持ち出し、いつのまにか大きな机の上にショットグラスが並び、厨房からは塩と切ったライムが届けられた。こうなると誰も止める人はおらず、むしろ常連客は面白がって朝霞だ佐崎だ姫川だと最後まで立っている人物の賭けがはじまった。
最初のうちは帷もこの不毛な戦いを止めようとしていたが、一人を宥めるたびに残りの二人から文句を言われることに嫌気が差して、途中からはむしろショットグラスにテキーラを注ぐ役を買って出た。
こうして世界一無意味な争いの決戦の火蓋が切って落とされた。……結果は
川崎はすぐさま三人を助け起こし、水を飲ませ、さながら戦場の天使のように奮闘した。その後、三人ともアルコールのダメージは軽微だったようで、酒精の回りが落ち着いてきたのか、よしではもう一戦、となったところでこの惨状の片付けをしていた川崎のカミナリが落ちた。彼女のあまりの剣幕に主犯の三人は床に正座のままお説教を食らうことになり、特に勤務中だった姫川に対して容赦がなかった。そんな姫川の「でも、筒見さんも止めなかったし……」という、まったくもって不用意な発言により帷も軽いお説教を受け、翌日の昼に店の手伝いをすることになったのだった。
「あたまがいたい……あ、筒見さんおはよー」
細身のパンツにブラウスを着た姫川が出勤してきた。メイド服じゃなかったので、一瞬誰かわからなかった。
「あ……、おはようございます」
文句の一つでも言ってやろうかと思っていたが、彼女の顔を見てその気は失せた。
「川崎さん、もう入ってる?」
「ええ、先ほどからマスターと厨房に立ってますよ」
「マズ……。ありがとう」
お店の手伝いといっても、働いていない者に調理をさせるわけにはいかないため、帷は店内の飾り付けをしている。琴莉と佐崎は買い出し役を任されて、今は昼の街を東奔西走していることだろう。
「さっむー!」
ちょうど買い出し部隊の二人が帰ってきた。両手には大きなビニール袋を提げている。
「おつかれさまです」
「おー、筒見もおつかれ」
手をひらひらさせた佐崎がテーブルの上に荷物を下ろした。姫川はそれを分けて厨房へ運んでいく。
入れ替わりで川崎がこちらにやって来る。ホール側に置いてあるお酒などの在庫をてきぱきと確認してから、琴莉となにやら話していた。二人は頷きあってこちらに来る。
「どうしました?」
「朝霞さんと筒見さんにちょっと頼みたいことがありまして」
「頼みたいこと?」
「料理酒の在庫が切れそうで、買ってきてほしいって」
「ええ、そうなんです。うちはマスターの趣味で、気に入っている料理酒をある酒蔵さんから直接卸してもらっているんですけど、それがそろそろ切れてしまいそうで……」
「で、今から行ってきてほしいってお願い」
「ええ。いいですよ。ちなみにその酒蔵はどこにあるんですか?」
「それが……」
普段歯切れの良い川崎が口ごもる。これは面倒なことになりそうだなと直感で思った。
*
真上にあった太陽がいつの間にか傾いている。バイクの後ろでヘルメットの位置を直した帷は琴莉の腰を掴んだ。
マスター贔屓の酒蔵は県境の山奥にあった。普段は配送してもらっているらしいのだが、なくなりそうな料理酒は今日どうしても必要らしい。厨房に立つ三人は手が離せないため、バイクに乗っている琴莉の出番となったのだ。
では何故帷もついて行くことになったかというと、それは客に店のことを手伝わせてしまった川崎の罪悪感かららしい。昨日の説教の手前もあってかはっきりとは言わなかったが、おつかいのついでに気分転換をしてきてほしいという彼女なりの気遣いなのだろう。
そんなわけで、帷と一升瓶四本を載せた琴莉のバイクは御空市内を目指して高速を走っている。――いや、正確に表現するなら三十分ほど前までは走っていた。年の瀬というのもあってか、今、二人は長い渋滞に捕まっていた。
琴莉が低く唸る。道は流れてはいるものの、十分ほど前から車間がかなり狭くなっている。びゅんびゅんと走る対向車線が羨ましく思えた。
「一六時半……」
琴莉が腕時計を覗く。今日の鼓星のオープンは十八時だったはずだ。仕込みの時間を考えればかなり微妙な時間帯だった。
「山道でもいい?」
琴莉が帷に向かって訊ねた。
「ええ、大丈夫ですよ」
バックミラーを確認して、琴莉がスロットルを回した。
風景が横に流れていく。下道に降りて数十分。バイクはカーブの多い峠道を走っている。道は真っ暗で対向車も見かけない。等間隔に並んだ街灯とヘッドライドだけが暗闇を照らしていた。
この山を越えれば御空市らしい。なんとかオープンまでには帰れそうだ。
長いカーブに差しかかかる。速度を落としながら上体を倒して曲がっていると、後ろからすごい勢いのバイクが二台、琴莉のバイクを追い抜いていった。それぞれ黒と白の車体。風を切る音だけを残して駆け抜けていった。
ほとんど変わらないペースで走った琴莉が峠が終わるあたりで突然叫んだ。
「ちょっと、ここ停まっていい?」
「あ、はい!」
対向車がいないことを確認して琴莉は大きくUターンをした。少しだけ走って、道路右側の駐車場跡で停車する。ちょっと待っててと残して琴莉がバイクから降りた。
駐車場跡には先ほど追い抜いていったバイクが二台停車していた。琴莉はそちらへ駆け寄る。そのバイクに乗っていた人と琴莉が二言三言話す様子を見て帷もバイクを降りた。
「なにかあったんですか?」
サイドバックからリペアキットを取り出す琴莉に帷は話しかけた。
「うーん。たぶんパンクじゃないかな……」
故障してしまったバイクは黒色の方らしい。手際よくライダーと話す琴莉をぼうっと眺めていると、白のバイクに乗っていた人がこちらにやってきた。
「あーーー!」
ヘルメットを被った白のライダーが帷を指でさしていきなり大声をあげる。
「な、なんですか?」
「あの十五点ナンパ師!」
「な、ナンパ……?」
目の前の人物がぶんぶんと頷いてフルフェイスのヘルメットを外した。はらりと白い髪が流れて、切れ長の目がこちらを捉える。
「…………あっ!」
それは終業式の日、御空の路地裏で帷が沫衣と見間違えた女性だった。……そういえば、思いっきり背中から投げられたような。
「あのときは……その、人違いで肩を掴んでしまってすみませんでした。ちょっと余裕がなかったというか……」
「人違い? なんだぁ、ナンパじゃなかったの?」
白髪の女が不満そうに口を尖らせた。
「あの……まあ」
「ふぅん……」
目の前の女は機嫌を損ねたのか右足で地面の砂利を蹴り始める。……ずいぶんと喜怒哀楽がわかりやすいひとだ。
「で、見つかったの?」
「……何がですか?」
「わたしと人違いした、本人。きっと、わたしに似て美人なんだろうなぁ~」
「――いえ、見つかりませんでした」
帷はさらりと答える。こう答えることができたのは、沫衣がいないという現実をこんなにもあっさりと受け入れられるのは、あの夜に思いっきり泣いたからだろうか。
わたしみたいに美人でかっこよくてスタイルもよくて……と続ける女は、帷の返した言葉を聞いて目を細めた。
「それで、その女の子はどんな子だったの?」
「どんな子……。そうですね、不思議な人でした」
彼女の髪を、顔を、声を、言葉を思い出しながら帷は空を仰いだ。
「ふしぎ……そっかぁ」
白い髪の女はくるりと回って満足そうに呟いた。
「ところで、お二人はどこかに行かれる予定だったんですか?」
琴莉に手伝われながら黒いバイクの修理をしているライダーを見ながら帷は質問した。
「ふふん! お二人はただ道をバイクで走っていたのです」
「……はあ」
「わたしたちは
「ごめんなさい。ちょっとそっち方面には詳しくなくって……」
走り屋魁。初めて聞く名前だった。確かにそう言われてみると、白のバイクも黒のバイクもスピードが出そうな見た目をしている。
それにしても、走り屋と暴走族は何かが違うのだろうか。ぱっと見で二人しか周りにいないので、族と名乗るには人数不足だったため走り屋という肩書きにしたのかもしれない。
「つまり、魁のお二人はこの山道を走って楽しんでいた、と」
「
「は?」
「わたしは、白雨。きみは?」
一拍遅れて名前を尋ねられたのだと気づいた。
「はい。俺は筒見帷といいます」
「帷、あなたはバイク、乗らないの?」
「ええ、そうですね。免許取ってないので。だから今も彼女のバイクに2ケツさせてもらってました」
自分は荷物持ちだと表現するために下ろしていたリュックサックを揺らす。
「えー、面白いのにぃ。って、何入ってるの? ナンパの七つ道具?」
「中に入っているのは料理酒の一升瓶です。まあ簡単に言うと、パーティーのための買い出しです」
キリがないのでナンパの件は聞き流した。
「――パーティー!?」
白雨は目を輝かせて反応した。……少し経緯を略しすぎただろうか。
「はい。今日は御空駅の近くの鼓星というお店でクリスマスパーティを開くんです」
「パーティー……! いいな、パーティ」
「よかったら、白雨さんもいらしてください」
勝手なことを言ってしまったが、まあ営業みたいなものだ、たぶん迷惑にはならないだろう。
「うん! 行くよぉ!」
帷が白雨と話していると琴莉と黒いバイクのライダーが近づいてきた。どうやら修理は終わったらしい。
「
白雨は風と呼ばれたライダーのもとへ戻っていった。
「すごいですね、琴莉さん」
「なにが?」
「知らない人のバイクを直すなんて」
魁の二人が先に走って行くのを見届けてから、琴莉と帷はバイクに跨がった。
「見よう見まねだから」
それ以上の答えを拒否するかのように、琴莉はアクセルを吹かした。
*
「では、クリスマスの夜に――」
「――乾杯!」
歓声とともに、鼓星のクリスマスパーティーが始まった。
立食パーティー形式で真ん中のテーブルには七面鳥の丸焼きやローストビーフなどの豪華な料理が並んでいた。眺めている間にも牛すじの煮込みや自家製ピザ、パエリアと世界各国の料理が運ばれてくる。
「陽菜さん、筒見さん、楽しんでますか?」
帷の立てたキャンドルの炎が揺れる店の端で話していた二人の前に姫川がやって来た。
「メリークリスマス、ヒメ」
「はい! メリークリスマス!」
黒のドレスを着た姫川は持っていたシャンパングラスを掲げて小さく揺らした。
「大盛況ですね」
「ええ。厨房に立っているマスターと川崎さんもやる気が入ってます」
彼女自身も忙しいだろうに、疲労の色を上手く隠して笑う。「姫川さーん」と常連客に呼ばれて姫川は名残惜しそうに立ち去ろうとする。
「姫川さん、そのドレス似合ってますよ」
「えへへ、ありがとうございます!」
咲かせた笑顔を残したまま、姫川は呼ばれた方向に歩いていた。
「そういや、言い忘れてたな」
「なんです、佐崎さん」
「ヒメって男だぞ」
「…………いやいや、メイド服とかドレスとか着てるじゃないですか」
「あれはヒメの趣味」
「………………え(゛)っ!?」
パーティーが開始してから数十分後、鼓星に黒髪の男と白髪の女が来店した。二人はしばらくきょろきょろとしていたが、帷の姿を認めてそちらにやって来た。
「やあ、来ちゃった」
白雨が片手を上げる。
「こんばんは」
黒い髪を短く切った男性は頭を下げた。彼はさっきの峠で出会った黒のバイクのライダーだ。
「ああ、二人ともこんばんは」
隣にいた佐崎に二人を紹介する。
「佐崎さん、こちらは魁の――」
「白雨」
「
「ああ、これはどーも。佐崎陽菜です」
「向こうに料理とお酒がありますよ」
「いいねぇ」と白雨はるんるんで食べ物を取りに行った。
「あの、これを店員の方に」
帷は黒風から風呂敷包みを受け取る。ずっしりと重い。
「これは……?」
「紹興酒です。パンク修理のお礼とこのパーティーへの手土産にしては不足かもしれませんが、どうぞお受け取りください」
「ああ、いえそんな……」
このまま帷が頂くわけにもいかないので、近くを通った川崎に事情を説明して受け取ってもらった。
「これ……、とってもいい紹興酒じゃないですか」
黒風が食べ物を取りに行ってから川崎が呟いた。
「そうなんですか?」
よくわからないが、川崎がそう言うなら珍しいお酒なのだろう。
そういえば、と周りを見渡して琴莉がいないことに気づく。十分ほど前まではこの近くにいたはずだが。
「あの、琴莉さんって席を外しているんですか?」
「いや、たぶん――」
「朝霞さんなら、あそこですよ」
川崎は店の奥を手で指した。その場所は他の場所よりも少し高い場所にあって、一種のステージのようになっている。
そのステージにひとり、琴莉が座っていた。よく見ると、膝の上にアコースティックギターを乗せている。
「アコギ……」
「筒見さんは朝霞さんの演奏を聞くの、初めてですか?」
「はい」
「だったら、耳をすませておけよ。琴莉の奏でる音楽は綺麗だぞ」
琴莉の合図に合わせて店内に流れる音楽が切られた。観客の期待が沈黙となって共鳴していく。
琴莉の息を吸う音が聞こえた気がした。右手で弦を押さえ、左手は軽くピックを握っている。右足の足踏みをメトロノーム代わりに、閉じていた目をゆっくりと開けた。
最初は軽い音だった。二つ三つとリズムを刻み、メロディーとなって流れる。軽すぎず重すぎない調子。
ギターの音に合わせて琴莉の歌声が聞こえてくる。奏でられるのは一昔前のクリスマスソング。ハスキーな声が弦の弾かれる音に乗せられて鼓星を包む。
一曲目が終わり右手をネックから離すと拍手でこの店がいっぱいになった。琴莉は満足そうに微笑む。するりと耳に届き心のなかを温める、人を笑顔にさせるような音楽だった。
普段はのんびりとしている琴莉の印象が帷のなかで変わる。今の彼女は繊細でいてカッコいい。
二曲目はしっとりとした曲だった。琴莉は語りかけるように歌う。ギターの音色は絹のような柔らかさをもっていた。
――すごい。
奏でられる音楽によって目の前が彩られていく感覚。耳で聞いているだけなのに心を動かされた。
二曲目も終わり、一曲目よりも大きな拍手が湧き上がる。帷は緊張のほどけた琴莉を見ていた。
「すごいだろ」
佐崎が小声で呟いた。
「ええ……!」
彼女の演奏を聴きながら、帷のクリスマスは静かに時計の針が進んでいった。
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