第六話
薄暮と宵闇が重なり合った雫ヶ丘高校の本校舎屋上。帷は再びここに立っていた。
きっかけは昨日、あの研究室で琴莉に言った台詞だった。
――「無くした物を最後に見た場所はどこか」。
自分で言った言葉がどうにもひっかかっていたのだが、この屋上を見てその理由がわかった。沫衣がいなくなってから、保健準備室やゲームセンターは訪れたが、最後に会ったこの屋上は一回も見ていなかったのだ。――自分はなにかを恐れていたのだろうか。ここに、決定的ななにかがあるという予感があったのだろうか。それとも、なにも残されていなかったという事実を避けるためだろうか。
なんにせよ、当たり前だがここに沫衣はいない。そんなこと始めからわかっていたはずだった。
わかっていたはずなのに、いざこうして来てみると虚無感のようなものがふつふつと湧いてくる。
――きみはもう、ここには来ない。
なにもわからないのに、それだけはわかった。
沫衣のいない屋上はただの
この黄昏色の空のずっと先に行くと、ただ闇の広がる宇宙に通じていることは誰もが知っている。宇宙には果てしない空間が存在し、それは今でも拡大し続けているらしい。
ある科学者は地球をゆりかごに例えたという。だが、ゆりかごから出た人類は、無限に広がる宇宙という檻のなかからは決して外に出ることはできないのだろう。
それはまるで、以前に沫衣が言っていた「コップの内側から外側を見る」という話のようだ。
人類は絶対にたどり着けないと知りながらも、せかいの果ての境界線を目指す。その先の語りえぬものを語ろうとする。その行為が無意味であることを理解しながらも、有意味であると装うことをやめない。――浪漫や人類の叡智といった大言壮語の裏には、論理的な命題を設定できないという矮小さが隠れているように。
結局のところ、せかいは自分のものであると言いたいだけなのだ。
永遠に広がるせかいにすっぽりと覆われながら、それでも刹那に生きる帷はその遙か先を夢想する。
ふと視線を空へと移すと、陽の大部分は既に沈んでいた。オレンジの空に濃紺の幕が下りつつある。
――どうせなら、最後に塔屋へ上がってみるか。
沫衣が梯子を隠していた塔屋の隅へ移動する。そこはビニールシートがかかっていて、物置のような場所になっていた。
見覚えのある銀の梯子は一番手前にあった。帷はそれを引き出して横の塔屋に立てかける。いざ登ろうと足をかけると、梯子から白い何かがひらひらと落ちてきた。
――雪?
空中でそれを掴む。途端、せかいがスローモーションになった。
なにか文字が書かれている。帷の目はゆっくりと、その文字を読む。心臓の鼓動がうるさい。目で文字を追っているのに頭のなかに入っていかない。心拍音だけが聞こえる。喉が渇いていく。指が震える。紙はブレているのに、意味は理解できないのに、頭のなかで容赦なく声が聞こえた。それは新雪のように柔らかく、つららのように鋭く、吹雪のように激しく、雪花のように透きとおっている声だった。
――せかいの限界を変えるあなたへ
帷はごくりと唾を飲み込んだ。
*
せかいの限界を変えるあなたへ
あなたはこれからもせかいの限界を変えていくのでしょう。
それは罪ではなく、罰ではなく、正義ではなく、友情ではなく、かみさまではありません。
あなたが望んだのです。
そんなあなたに出逢えてよかった。
神楽木沫衣
*
「なん……で……」
覚悟をしていた。どこか遠くに行ってしまったのだと諦めていた。
でも、これはまるで――。
数行の、たった数行の文を何度も読み返す。
書いてあるのは鼓舞と感謝。瞼の裏に浮かぶのは沫衣が背中を押してくれる風景。
それなのに、どうしてだろう? 背後に立つ沫衣の顔が、笑いながら泣いているように感じられるのは。たたらを踏んでよろける帷を笑いながら、沫衣は静かに滅していくように思えるのは。
――別れ。ここにはそれしか書いていなかった。
強烈な存在と鮮明な心象を残して、沫衣は泡沫の如く消えてしまった。春の桜のように、夏の花火のように、秋の雲のように。――そして、冬の雪のように。
きみは、このせかいから消えてしまった。
色が失われたせかいをひとり歩く。
屋上からどうやって降りてきたのかは覚えていない。ただ、沫衣がやさしく突き飛ばしてくれた勢いのまま歩いているこの足を止めたくなかった。
立ち止まることを、一歩も動けなくなることを恐れながら、心のなかで最悪な想像が幾度となく鎌首をもたげそうになるのを必死で押さえていた。
「……?」
ここにはなにもない。
「――?」
探し出す相手もいない。
「――!」
見つける相手も、取り戻す相手もいない。
「――!!」
きみはいない。
「――帷!!」
声が聞こえた。
「ねえ、聞こえる?」
腕を掴まれた。
「ねぇ――」
目の前で心配そうな琴莉の顔が揺れていた。
「は……い」
からからの喉から出た音は、嗚咽まじりの声だった。
*
流れる雲よりも
駆動音は大地を唸らせ、漆黒の車体は暗闇を切って走った。
風の冷たさと、低く脈動するエンジンと、なにもかもを置き去りにしていくかのようなスピードと、琴莉の背中の暖かさがせかいのすべてだった。
「少しは落ち着いた?」
ホットの缶コーヒーを帷に投げてから、琴莉はベンチに腰を下ろした。
「あの……、はい。ありがとうございました」
ヘルメットをぼんやりと眺めながら帷は小さな声でお礼を言った。両手で持ったスチール缶が指の先から躰を暖めていく。
「そ。ならいいけど」
脱いだフルフェイスヘルメットを脇に置いて、隣に座った琴莉は大きく伸びをした。
自分を失っていた帷を街のどこかで琴莉が発見したらしい。どこかへ行く予定だったのだろうか、大型のバイクに跨がった彼女はそのまま後ろに帷を乗せ、夜の山道をここまで走らせてきたのだ。
ここは市内の外れにある山の中腹の小さな公園。自動販売機と、背の低いベンチと、小さな水飲み場と、頼りない街灯が一本だけの寂しい場所だった。
空を見上げると大きな月に満天の星空。空っぽだと思っていた空には星が瞬き、隣には琴莉がいた。それ以外はなにもなかった。
「――琴莉さん」
「ん」
彼女のことを話す、いい機会だった。
ゲーセンでの出会い。謎めいた彼女の哲学の話。罪人だと表現した彼女と最後に会った屋上。そして、さっき見つけたあの手紙。知っていること、思っていることをすべて吐き出した。
「沫衣はたったひとつを残して俺の前からいなくなりました。俺はもう彼女の罪を知ることや、彼女のせかいの限界を変えることはないでしょう」
「彼女は手紙を残しました。おそらくこれは、立ち止まるなというメッセージです。その先でせかいを正しく見ろという激励でした」
「彼女はなにかを選んでこのせかいを去った。それは俺にとってどうにもできないことなんだろうと思います」
「この結果について、いろいろなことを思いました。彼女の選択が、俺の行動が、誰かの言葉が、いつかの過去が、どこかのかみさまのどれか、あるいはそのすべてが間違っていたのかもしれません。でも――たぶん、それが問題ではないんです」
「俺はただ、悲しいんです。彼女に会えないことが寂しいんです」
「…………沫衣ちゃんに、また会いたい?」
「会いたくない、といえば嘘になります。――けれど、いま俺が沫衣と会っても、お互いに話すことはないと思うんです。どうにかして彼女と会っても、『ばーか』と言って相手にしてくれないような気がするんです」
「だからきっとあの手紙は、『悲しいことがあっても生きて、せかいの限界を変えなさい』という、彼女からの最後のメッセージなんです」
「――――帷」
いきなり後ろからぎゅっと琴莉に抱きしめられた。背中に暖かい感触が伝わる。
「……っ」
琴莉の息づかいが耳元で聞こえた。
「なんでそんな顔、してるの」
彼女のハスキーな声がすぐ近くからする。
「なんで、って……」
「話し始めたときは、笑った顔をしてた。沫衣ちゃんがいなくなってからの話をしてるときは、泣きそうな顔をしてた。でも、今は――」
「今は?」
「なにも表情がない」
「……」
「なんで……なんでそうやって、突き詰めて考えるの。選択とか行動とか、言葉も過去もかみさまも。意味のないものをどうして排除してしまうの。そんなことしたら――このせかいは透明になってしまう」
「美味しいものを食べたら笑って、腹立たしいことがあったら怒って、楽しいことや辛いことがあったら話して、悲しいことがあったら泣こうよ。間違っているのかもしれないけど、そうやって生きていくんだよ。せかいはそうでないのかもしれないれど……そうあってほしいものなんだよ」
「だから――帷。そんな顔しないで、泣いてよ。沫衣ちゃんのことなんて、せかいのことなんて考えずに、悲しいのなら、寂しいのなら、泣いてよ……っ」
耳元で静かにすすり泣く声が聞こえた。星は音もなく瞬いていた。せかいは――否、帷の周囲にはそれしかなかった。
眼下に広がる街の夜景が揺らぐ。
――沫衣。
ただ一点を、せかいを見ていた視線が揺らぐ。
――あわい。
精一杯、きみから目を逸らしていた帷の意地が揺らぐ。
――沫衣!
帷の心が揺らぐ。
凍ってしまった心に熱い涙が一滴こぼれた。そこからは、感情が雪解けしていくかのようだった。
鼻をすすり、しゃくり上げ、声を枯らし、慟哭した。
それでせかいの限界が変わるわけでも、沫衣が戻ってくるわけでもなかった。
それでも、琴莉は最後まで抱きしめていてくれていた。
水飲み場の水道で顔を洗う。凍えるほど冷たい水だったのに、心の奥まで洗われるような清々しい気持ちだった。
「帷! ほらっ」
投げられた二本目のコーヒーをきちんとキャッチする。にかっと笑った琴莉に帷も笑顔を返した。
小さなベンチに二人並んで座る。カフェオレの甘みが冷え切った躰の先まで染み渡っていく。
「さ、行こう!」
猛烈なスピードで缶コーヒーを飲み干した琴莉が立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って――」
帷は慌てて缶を傾ける。急いで立とうとする帷の前に、目を細めて笑った琴莉の手が差し出された。
「帰ろうよ。わたしたちの街に、さ」
「はい!」
帷は伸ばされた手をしっかりと握った。
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