第五話
ゲーセンに行く準備をしていると琴莉から着信があった。
「もしもし。琴莉さん?」
琴莉に鼓星で食事を奢ってもらったあの日、佐崎の半ば強引な提案で帷は琴莉と連絡先を交換していたのだ。あれから数日。本当に電話がかかってくるとは思ってなかった。
「…………とばり。いまって、ひま?」
右耳からいつもの一・五倍増しのハスキーボイスが聞こえてくる。
「……まあ、一応」
面倒ごとを頼まれる予感がした。
「つづみぼしにわすれものしたんだけど、とってきてくれるかな」
「いいですよ。どこに持って行けばいいですか?」
「……あとでおしえる」
「……へ?」
「よろしくね、じゃ」
通話が切れた。なんとも自分勝手な呼び出しだったが、人のためになればいいやと帷はクローゼットを開けた。
ゲーセンに沫衣がいるかも、という淡い期待がないわけではなかったが、心のどこかでいないだろうとわかっているのに足を運ぶのは意味がないような気がする。
それとは別に、今から鼓星に行っても開いてないのではという不安もあったが、ひとまず外に出てみることにした。
帷の心配は杞憂に終わった。
鼓星のドアの取っ手には、控えめな文字で「ランチやってます!」と書かれたプレートが掛かっている。遠くで流れるクリスマスソングを背に、帷は扉を開けた。
店内には数名の客。メイド服の姫川を探すが見当たらない。きょろきょろと店内を見渡していると、若い男性と話していた黒いエプロン姿の女性がこちらに気づいてやって来る。
「ごめんなさい、気づかなくて」
焦げ茶色の髪を後ろで一つ結んだ女性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ、いえ……」
初めて見る女性だった。彼女はランチタイムの担当なのだろうか。よく見るカウンターに立つ男性も姫川もいない鼓星は、何故かいつもより華やいで見えた。
「あの、すみません。知り合いがここに忘れ物をしたようなんですが……」
席に案内される前に要件を伝える。
「はい。ちなみに、それはどんなものですか?」
「ええっと……」
ここで帷は琴莉から何を忘れたのかすら聞いてないことに気づいた。……どうしよう。琴莉が忘れ物をしたという事実しか知らない。
――とりあえず、彼女の名前を出してみるか。
「その知り合いは朝霞琴莉というんですが……」
「ああ、朝霞さん? ちょっと待っててくださいね」
そう言い残して女性はバックヤードに消える。よかった。なんとかなりそうだ。
「たぶん、これかな」
クリーム色のトートバッグを渡される。中を覗くと小型のノートパソコンが見えた。
「ありがとうございます。たぶんこれです」
「……あなたも知らないの?」
「ええ、まあ。急に電話で忘れ物したからとってきてって」
改めて口に出してみて、彼女の指示がどれだけいいかげんだったかを理解した。
「はあ……」
目の前の女性は大きくため息をついた。
「今って急いでますか?」
「おそらく急いでないと思います」
電話口での琴莉の様子を勝手に解釈して答える。
「だったら、あと五分だけ時間をください。すぐ済ますので。あ、空いてる席に座ってていいですから」
腕まくりをした女性はカウンターへと入っていた。どうせなので、帷はカウンターのスツールに座る。
忙しなく動いている女性を眺めていると、彼女が話しかけてきた。
「その荷物で合ってるか、電話して確かめなくていいんですか?」
「いえ、実は何回か電話をかけているんですけど、繋がらなくって」
「ああ、なんとなく想像できます」
「琴莉さんとは知り合いなんですか?」
「まあ、そうですね。マスターや姫川さんほどではないですけど――ああ、この二人はこの店の夜の時間帯によく働いている方の名前です」
「はい。わかりますよ」
「ああ、そうでしたか。一年くらい前まで夜のシフトもしてたので。……ピクルス、平気ですか?」
「……ええ、まあ」
突然思いもよらぬ質問をされて答えに戸惑った。なんでそんなことを、と訊ねようとした帷の目にあるものが映る。
「――昼の時間帯はフードのメニュー、あるんですね」
丸っこい文字が並ぶ、手書きのメニュー表を手にして言った。
「ええ。わたしにはマスターみたいな芸当はできませんから。技を盗もうとは思っているんですけどね……これがなかなか」
「あれって、やっぱりマスターが一人で作ってるんですか?」
「ふふ、企業秘密です。……はい。これ、持って行ってください」
カウンターから出てきた女性に、ずっしりと重い紙袋を渡された。
「中は二人前のサンドイッチです。お代は結構ですよ、ランチの余りですから気にせずどうぞ」
「え? でも……」
「いいんですよ。あなたの持つ、他人への親切心に対してわたしからのご褒美です。迷惑でしたら朝霞さんに二人前あげちゃえばいいですから」
「迷惑だなんて、そんな……」
「それじゃあ、忘れ物、届けてあげてくださいね」
女性は笑ってカウンターに戻っていった。帷はただ、何度も礼を言うことしかできなかった。
この場所が、夜の鼓星よりも華やいでいる理由がわかった気がする。きっと、それはこの女性がいるからなのだ。空間――そしてせかいは、そこにいる人によって変わって見えるのだ。中身の詰まった紙袋を持ちながら、そんなことを思った。
そんなエプロン姿の女性の胸元に付いた小さなネームプレートには、「川崎」と書いてあった。
*
――せめて快速の電車に乗るんだった。
のろのろと進む各駅停車の車窓を眺めながら、心のなかでため息をついた。
鼓星を出てから琴莉へかけた電話はあっさりと繋がり、今、帷は彼女の指定した場所へと移動している。
緑一色の風景にコンクリートの鼠色が混ざりはじめた。車内に設置された電光掲示板を見ると、あと三駅で目的地のようだ。
駅前のバスのロータリーを三往復ほどしたが、なんとか琴莉がいるであろう場所の入口まで辿り着けた。そこは、自然の一部を切り取って大きな施設をいくつも乱暴に設置したような場所だった。立派な門にはこう書いてある。――「一原大学」。
入口の案内板を見たが、琴莉がどこにいるのかさっぱりわからない。彼女は「高峰研」にいるらしいのだが、この案内を見てもそれらしいことは何一つ書かれていなかった。
どうしたものか。大学という場所に馴染みがないので、道案内をしてくれる場所があるのかすらわからない。
帷はきょろきょろと周囲を見渡す。大学生が数人いるが皆忙しそうだ。とりあえず適当に歩いてみるかと決めたところで、少し奥のベンチに座っている大学生を発見する。茶髪の男性で比較的暇そうだ。帷は声を掛けてみることにした。
「……あの、すみません」
話しかけられた男子大学生が顔を上げる。理知的な瞳をしているがどこか疲れてそうな印象を受けた。
「はい? なんでしょう」
柔らかそうな物腰。親しみやすそうなのに、帷は何かの違和感を感じていた。例えるのなら、心地よいメロディーにノイズが混じっているようなものだろうか。それは些細なもののはずなのに、一度気になってしまうと、それがどんなに素晴らしい調律であったとしても根本から崩れていきそうな――そんな違和感。
「『高峰研』という場所に行きたいんですが、どこにあるかわかりますか?」
「高峰研……? うちの学科ではないですね。学部や学科はわかりますか?」
「ごめんなさい。それがさっぱり……」
忘れ物の内容であったり、場所の詳細であったり、まったく琴莉は言葉足らずが過ぎる。
「うーん。どこかで聞いた名前ではあるんですけど……。ちょっと知り合いに確認してみますね」
「あ、すみません。お願いします」
男性は携帯電話を取りだしてしばらく考えたあと、帷から少し離れて耳にあてた。通話先は友人なのか親しげな会話が聞こえてくる。
一方帷は、握りしめた手に汗をかくのを感じていた。微かな違和感、不協和音が帷の躰にじっとりとまとわりついているような感覚。それが何なのかがわからないからこその不快感。それは、正体不明の警戒心に変化しつつあった。
「わかりました。文学部比較文化学科の高峰研ですね」
「ええっと……はい。たぶんそこだと思います」
呪文のようで半分ほど聞き取れなかったが、おそらくそこに行けば琴莉に会えるのだろう。というか、そうであってほしい。
「すぐそこですので、そこまで案内しますね」
「あ…………はい。ありがとうございます」
この人の隣にいると何故か落ち着かないので正直あまり嬉しくないのだが、場所を言われてもちんぷんかんぷんなので従うことにする。
「高校生とかなんですか?」
「ああ、ええ。そうなんです」
雑談が始まった。帷は並木道を見ながら答える。
「キャンパスの見学ですか?」
「いえ、知り合いへ荷物を届けに」
「へえ。わざわざこんな田舎まで。近くに住んでいるんですか?」
「家は御空の方なのであまり近くないですね」
「御空……」
隣の男性はそう言って黙る。並木道の先に三階建てほどのやや大きい建物がいくつか見えてきた。
「変なことを聞きますが、『
「いえ、ないですけど……」
冬だというのに、背中に汗が流れたような気がした。帷のなかのなにかが警告アラートを鳴らしている。
「そうですか。ごめんなさい。突然こんなことを聞いてしまって」
「いえ、別に……」
「実は俺、こういう仕事をしてまして。……まだバイトですけど」
歩きながら差し出された小さな紙を受け取る。名刺だ。
「さっき言った名前を聞いたり、なにか困ったことがあったりしたときに、もしよければここに書いてある携帯番号に一報ください。本当に少額になってしまうと思うんですけど、謝礼金を出せるかもしれないので」
帷は名刺に書いてある文字を目で読む。平端社桜光編集部所属の瀬戸彰。聞いたことも見たこともない名前だった。
「五号館。ここですね。着きましたよ」
帷が名刺を眺めている間に目的地に到着したらしい。コンクリートの壁が特徴的な、やや古そうな建物だった。
「あの、案内ありがとうございました」
帷は頭を下げた。
「いえ、こちらも気分転換ができたので気にしないでください。高峰研はここの三階だそうです」
もう一度頭を下げて帷は建物のなかに入る。扉が閉まるのを確認してから大きく息を吐いた。
案内までしてくれた彼には悪いが、ほとんどリラックスできなかった。対象のわからない緊張感はもう失われつつある。何が原因だったのだろうと首をひねりながら帷は階段を上がった。
三階の一番奥、小さく「高峰研」と脇に書かれた扉を開ける。
そこは机とロッカーや本棚がところ狭しと並ぶごちゃごちゃした狭い空間だった。そしてそのいたるところに本や書類が積み上げられている。それ以外にも何に使うのかわからない道具や木製の謎のオブジェなどもところ狭しと置かれていた。
その一方で人の姿は見えない。部屋の電気はついているのに、どのデスクにも人がいなかった。琴莉を探そうにも、この部屋には物が多すぎて見通しが効きづらいのだ。
「琴莉さん……?」
迂闊に歩くと本の山などを崩してしまいそうなので入口から彼女の名前を呼ぶ。……反応がない。
少し考えて、帷は携帯を取りだした。大声で探すことも考えたが、そうすると隣の部屋にまで迷惑がかかりそうだ。
彼女の連絡先を選んで通話をかける。一秒、二秒経って部屋の隅から陽気な着信音が聞こえた。
――あそこか。
向こうにいるであろう彼女が電話を取る気配はない。着信音を頼りにしながら帷はそちらに向かう。さっきは気づかなかったが、よく見ると乱雑に置かれた物たちにも隙間があって、それがまるで獣道のように続いていた。
ロッカーがいくつも並ぶ場所に着いた。よく見るとそのスチール製のロッカーの間には人が一人入れそうな隙間が空いている。着信音はそこから聞こえた。
「琴莉さん?」
その隙間に顔を突っ込む。何個かのロッカーで作られた小さな空間にはデスクと椅子が一人分あり、本や資料を印刷したものが大量に積み上がっていた。目線をもっと下に落とすと、床に黄色のナニカが転がっていて、そのそばには見覚えのある携帯が落ちている。そしてそれは音とバイブで着信を知らせていた。
帷は床に転がる黄色をじっと見た。それはつるつるとした表面で小さく上下に動いている。なんだこれはと思った瞬間、突然こちらに転がってきて、先端の部分から琴莉の寝顔が見えた。
「はい。これが鼓星に忘れたノートパソコンで、こっちは川崎さんという鼓星の店員さんが作ってくださったサンドイッチです」
床にぺたんと座って何度もあくびをする琴莉に、腰を下ろした帷が説明する。寝袋に入って熟睡していた琴莉と格闘すること二十分余り。ようやく起きてきた琴莉はとても眠そうな顔をしている。なんとなく想像はできてはいたが、琴莉の寝起きがこんなに悪いとは思わなかった。
「ごめんね、とばり。もってこさせちゃって」
「いえ、家にいても暇だったので全然……」
おとなしくゲーセンに行っておけば……と思わないでもないが、ここまで来たらのりかかった船、というやつだ。決して泥船ではなかったと、帷は心のなかで自分に言い聞かせるように繰り返す。
「それにしても、琴莉さんって大学生だったんですね」
「そだよ。もっと年上だとおもってた?」
「いえ、失礼ですけど、もうちょっとアウトローな人生を送っているのかと……」
琴莉は手を叩いて笑った。彼女と初めて出会ったのが酔い潰れている姿だったので、そう思うのも無理はないと思う。
「アウトローかあ。わたしけっこうアウトローな人生をおくってるようなきがするけど」
ひとしきり笑ったあと、琴莉はぼんやりとした瞳で帷を見つめながら答える。その視線が少し外れて、脇に置いたサンドイッチの紙袋の方を向いた。
「それ、なに?」
「今さっき言いましたけど……川崎さんが作ってくれたサンドイッチです」
「ちがう。そのとなりの」
そう言って彼女は手を伸ばした。戻した指先には小さな紙が挟まっていた。
「何、これ?」
「ああ、それはここまで案内をしてくれた方の名刺です」
琴莉を起こしているときに落としてしまったのだろう。彼女はじっと名刺を見てから帷に差し出した。
「ふぅん……」
返された名刺を受け取って、帷はさっきの男性が言っていたことを思い出す。
「『逢坂穿』、『逢坂鋒』、『ノーフェイス』というキーワードについて知らないかと言ってました」
「……そっか」
琴莉が興味がなさそうにあくびをしたので帷は話題を変える。
「そういえば、俺が持ってきたこのノートパソコンは何に使うんですか?」
「うん。ちょっと今日までに書かないといけないレポートがあって」
「今日まで……?」
帷は携帯の時計表示を見た。もう午後二時を回ろうかとしている。
「よく知らないんですけど、大学って何時まで授業があるんですか? ……というか、俺がこの時間にここに持ってきて間に合うものなんですか?」
「まあ、間に合うんじゃない? わたしは二部生だから、講義は平日なら夕方五時くらいから九時くらいまで」
「へえ……」
「ま、いいじゃない。とりあえず千鶴さんの作ってくれたサンドイッチ、食べようよ」
頂いたサンドイッチは具がたくさん挟まっていてとても美味しかった。あの店員さんは余り物と表現したが、量や質を見るに売り物の具材も使っているのだろうと感じられて、その点も含めあの女性に感謝しながら完食した。
「ねえ」
「はい?」
サンドイッチを食べ終わって、そろそろお暇しようかと帷が考え出したとき。琴莉のロッカーで作られた個室のなかから声が聞こえた。
琴莉は大学の近くのバス停まで送ってくれるようで、今帷は彼女が着替えるのをロッカーの外で待っているところだ。
「わたし、今日みたいによくいろいろなものやことを忘れたりなくしたりしちゃうんだけどさ、どうすればいいと思う?」
衣擦れの音とともに小さな声が聞こえた。壁を隔てているため彼女の表情は見えない。
「そうですね……。俺も記憶力とかは自信ないんですけど、忘れたり無くしたりしないように気をつけるというよりかは、失ったときに見つけることの方が大事だと思いますよ」
「見つける?」
「よく言うじゃないですか。無くした物を最後に見た場所はどこか、とか。落としたり、忘れたりするのを防止するのもいいと思いますが、それを探す
「帷はしっかりしてるなあ。ふふ、まるで大学生みたいだ」
カーテンが引かれて、いつものモッズコートを着た琴莉が現れる。
「さ、行こうか」
さすがに慣れているのか、猥雑な極みの研究室を彼女はスムーズに歩いて行く。帷がゆっくりと後を追っていると、前から感謝の言葉が聞こえた気がした。
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