第五話

 さらに一週間が経とうとしていた。一日ごとに長くなる夜とともに、朝に吸う、透きとおった空気が冬になりつつあった。

 編集部へも少しずつ足が遠のいていった。寒川はかなり忙しそうで、編集部に一回も顔を出さない日が増えている。特集で扱うノーフェイスの件は寒川に止められているため、調査は一向に進んでいない。そろそろ企画書の締切だというのに、彼女からの連絡はなかった。

 彰の仕事は在宅でもできるものばかりだったので、数日に一回編集部に行き、溜まった仕事を持ち帰って家でやるようになった。一度足が遠のいた場所を再び訪れるのはなかなか勇気がいることで、最近編集部にいても居心地が良くない。彰が編集部によく顔を出していたのは、寒川がいるあの場所が居心地が良かったからだと知った。

 彰はイヤホンを外して伸びをする。窓の外を見ると、街灯が夜の闇を照らしていた。いつのまにかしとしとと雨が降っていた。

 ここは彰の住む小さなアパートの一室。テキストを上書き保存してからベッドに倒れ込んだ。

 そろそろ夕食を買ってこないと。静かな雨音が眠気を誘うが、これに負けるとめんどうくさいことになりそうだった。

 くもりのち雨。ところにより雪。今夜の御空の天気予報だ。もしかしたら、今年初めての雪が御空に降るかもしれないらしい。

 ほとんど中身の入っていない冷蔵庫を一応確認する。チーズが少しと、あとはお酒と調味料。どれもこれも、夕食には心許ない。……雪の降る前に、何か買ってくるか。

 出かける準備をするはずなのに、視線は本棚に向いていた。下の段に置いてある漫画を久しぶりに読み返そうと手を伸ばそうとしたところで、彰の頭は冷静さを取り戻した。

 ここ半年くらいは自宅よりも編集部にいた時間のほうが長かったかもしれない。本棚に並ぶ本の背を目で撫でながら、妙に新鮮な気分になった。漫画、雑誌、小説。本棚を下から上に見ていく。一番上の段に並ぶ専門書の端に、見慣れない本を発見した。『犯罪心理学』、『精神分析』、『刑法』。

 これは実家から出るときに父の本棚から数冊持ってきた遺品だった。題名に惹かれて拝借してから、結局今まで一回も開くことはなかった。

 分厚い一冊の本を取り出して持つ。函に入っていて重い。本を出して、開こうとすると頁が開かない。表紙は開くが、本文の頁は糊づけされているようだ。

 糊のついていない本文を数頁捲ると、それ以降の頁の真ん中がくり抜かれているのを発見した。外からみるとただの本だが、その本を開くとなかに何かが隠されている。推理小説やゲームによく出てくる仕掛けだが――まさかこんなところで見るとは思わなかった。

 くり抜かれた穴より一回り小さな何かが、そのなかに入っている。緊張して震える手で彰はそれを取りだした。

 使い込まれた革のカバー。手のひらに収まる、ちょうどいい大きさの冊子。本のなかに隠されていたのは手帳だった。

 早速開いて中を確認する。ぱらぱらと見たが、間違いない。これは父の字だった。

 手帳を開けた隙間から、小さな紙が落ちた。拾って確認すると、それは父の名刺だった。

 名刺を手帳に戻そうとする手が止まった。見覚えのある文字列が見えた気がした。ゆっくりと、名刺を確認する。名前、職業。目は文字を読んでいるはずなのに、下の行に書いてある文字に吸い寄せられていく。

 ――事務所 御空市東御空三丁目……

 見たことのある文字だった。見慣れている単語の並びだった。

 目線は父の名刺に置いたまま、彰は名刺入れから一枚、自分の名刺を取り出した。

 ――平端社 御空市東御空三丁目……

 父の事務所と平端社。書いてある住所が、寸分違わず一緒だった。



 彰はアパートを飛び出して平端社へ向かっていた。

 どうして? 何故?

 頭に浮かぶ疑問は尽きない。頭は謎でいっぱいで、目には何度も父の名刺がフラッシュバックして、心はどこにもなくて、足だけが会社を向いていた。

 傘を持つ手がかじかむ。全てがばらばらの方向を向いている躰に、冬の寒さが通り過ぎた。

 吐く息が白い。雨はいつしか雪に変わっていた。

 午後十一時過ぎ。御空駅の東口。灯のほとんど消えたビジネス街をひとり、歩く。

 音は積もり始めた雪が吸っていた。光は降る雪が柔らかく包み込んだ。

 見渡す限り、白銀のせかいだった。

 月すらもそこにはなかった。

 ふと空を見上げると、そらから六花の一片が零れ落ちた。

 白い花弁はふわりと浮いて、風に流されながら、街灯の光できらりと輝いて、ゆっくりと地上に舞い降りる。

 まるで、せかいの外側からやって来たかのように綺麗だった。

 きっと、ここがせかいの果てだった。

 地上に辿り着いた純白に手を伸ばす。それは、

 ――べちゃり、と音がした。

「…………え?」

 純白が、白銀が、プラチナブロンドが、赤に染まっていく。

「わたしの人生は――」

 白のせかいが、赤く弾けた。

 音がうるさかった。赤い灯が夜の闇を照らしていた。

 声。人の声が聞こえた。

 周りに人がたくさんいた。全員が、ある一点を見ていた。彰もそこへ引き寄せられた。

 血まみれで倒れている少女がいた。綺麗な白が、赤にまみれていた。

「あわ、い……?」

 彰は地面にへたりこんだ。近くで救急車のサイレンが聞こえた。

 上着のポケットから、父の手帳が落ちた。

 その反動で開いた頁には、「神楽木沫衣」と書かれていた。

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