第2章 瀬戸 彰「かみさまの、あばきかたⅠ」

第一話

 まだ師走ではないのに、瀬戸せとあきらは走り回っていた。その理由は、師、というほど偉くないただの大学生だからかもしれないし、バイト中だからかもしれない。

「彰! 煙草とエナドリの追加、今すぐ買ってきて!」

 だが、この忙しさの一番の理由は、おんぼろのパソコンと格闘しながら印刷所の締切デットラインギリギリを攻めているたったひとりの上司の、締切直前まで書かないという悪癖のせいではないかと思うのだ。

「彰ぁ! これが落ちたらバイト代、出さないよ!」

「はいはい、今行きますよ!」

 残り数頁分のゲラ原稿をそのまま保存して、パソコンをスリープさせてから、彰は白い煙でいっぱいの編集室を飛び出した。

 外階段に出ると、既に太陽の姿はなかった。階段を駆け下りようとしたところで、すぐ下の狭い踊り場から声がかかる。

「よお彰。上の様子はどうだい?」

 くたびれた緑色の背中を捉え、彰は急停止した。

北郷ほんごうさん。今月号のゲラ出し、ありがとうございました! おかげで今回もなんとかなりそうです」

「やー、いいのいいの。社長も手伝ってたし。おや、ところで買い出しかい?」

 ジャージを着て煙草をくゆらせた北郷が手をひらひらと振った。

「はい。下へも何か買っていきましょうか?」

「えー、いいのかい? じゃ、新作のカップラーメンをテキトーにいくつか頼むよ」

「了解です。他に残ってる方っていらっしゃいますか?」

「ん、買い出しの追加は俺のだけでいいよ。あんまり帰ってくるのが遅いと恵美えみちゃん、怒るぜ?」

「そうですね。では、行ってきます!」

 北郷へ会釈をして、一段飛ばしで階段を降りた。

 三日月だけが輝く、都会の空の下、コンビニに向かって走る。十二月はまだ、もう少し先だった。



「かんっぱーい!」

 五つのグラスがいい音をたてた。

 あの修羅場から二十時間後。午後六時。バイト先の出版社、平端へいたん社から徒歩三分の大衆居酒屋で打ち上げが始まった。

 打ち上げ、といっても今回無事に発行された雑誌、『桜光おうこう 十二月号』はバイトの彰を含めて二人だけが担当の小規模のものだし、なにより当社の従業員は非正規も合わせて五名しか在籍していない。よってこの飲み会に参加している面子が平端社のフルメンバーである。

「いやあ、今回はさすがに落としたかと」

 対面に座った、徹夜明けにしては元気な寒川さむかわ恵美がグラスを半分、一気に空けてから話し始めた。寒川は桜光の編集長にして、彰の雇い主である。また、外注のライターを除けば桜光の記事を書く唯一の人間でもある。

「だから早めに書けばいいのに、って言ったのに……」

「なんだ彰、落とさなかったんだから、別にいいだろー」

 印刷所からの催促の電話を何度も躱し、入稿してから菓子折を持って頭を下げにいったことは寒川の頭のなかからすっかり消えてしまったらしい。こちらも徹夜明けの疲れからか、だいたい……と続ける彰に西坂にしさか社長が割って入った。

「まあまあ、実際間に合ったんだからいいじゃないの。一足先に読ませてもらったけど、今号はいつもよりよかったよ?」

「ですよね! いやー、よかったー!」

 寒川が十代の少女のように無邪気に喜んでいる。いつも思うが、三十代後半には見えない。

「それで彰、お前は今回どれくらいの文量書いたんだ?」

 短くなった煙草を灰皿に押しつけながら北郷が訊ねた。

「コラムが二本、いや三本にインタビューの文字起こしが二つ、あとはこまごまとした部分をたくさん……ですかね」

 冷静になって考えてみると、バイトの仕事量をはるかに超えている気がする。

「お前、すごいな……」

「え!? 彰、そんなに書いてたのか?」

 感心している北郷の横で寒川が驚く。雇い主が部下の作業量を把握していないのは問題だが、彼女はそのあたりを気づかない性格である。

「そりゃ寒川さんに『彰が書かないと落ちる!』と言われたら、書くしかないでしょう?」

 そういえばそんなことを言ったかもしれない、と煮込み豆腐の隅をつっつきながら寒川は呟いた。

「そこまでしてるんだったら、次回の『桜光 二月号』で一本、特集を書いてみてはどうだい? 来年の予行演習だと思ってさ」

 西坂がねぎま串を掴みながら提案した。

 来年、とは彰の就職のことを指している。大学四回生の彰は大手出版社から内定をもらっていて、来年四月からはそこで働くのだ。

 主に出版社を狙って就活をしていたものの、馴染みのあまりない出版業界を知るために、彰はこの小さな出版社でバイトをしている。人数が少ない分、他社では絶対にバイトに回ってこない仕事も経験できるため、正直かなり助かっていた。

「いいんですか! ぜひやってみたいです!」

 彰はこのチャンスを逃すまいと飛びついた。

「うーん。特集一枠、となるとなあ……」

「いいじゃない。ダメだったら恵美ちゃんが丸々没にしちゃえばいいわけだし」

 渋る寒川に北郷が高みの見物、とばかりに付け加えた。

「全ボツ……」

 そんなことされたら心が折れるだろう。……とてもいい経験にはなるだろうが。いや、よくない経験か。

「そうだなあ……。ま、やりたいネタがあるなら企画書で見せてよ」

 それにしても、ここまで寒川が慎重だとは思わなかった。普段の様子だと二つ返事で了承しそうなのに、それだけ自分の担当する桜光における熱意や責任感が強いというところだろうか。

「そうなったら、彰くんのバイト代も外注のライターさんくらいにはしてあげないと。とりあえずここは、僕がおごるよ」

「え、いいんですか?」

 西坂の発言に彰はびっくりする。外注のライター並み。もしそうなれば、自分はライターとして認められることになるんじゃないか?

「まあ、そんなお給料が払えればいいんですけどね」

 ずっと黙っていた経理担当の南雲なぐもが口を開いた。

「いま楽しい話をしてるんだから、そこはあとでいいじゃない」

「北郷さんの取材費の前借りがなければ、少しは残ってたんですけど。――あ、板わさとたこぶつ追加で」

 口を挟んだ北郷に、南雲はぴしゃりと言い放った。寒川と西坂が笑っているあたり、半分くらいはジョークなのだろう。

「南雲さぁん……」

 情けない声をだした北郷を横目に、彰はどんな特集をしようかと考えていた。とりあえず、企画書を提出できるくらいのネタを集めなければ。徹夜の頭にアルコールが回ってぼうっとしながらも、彰は考えるのをやめなかった。

 騒がしい店内で和気あいあいと話しながら、夜は更けていった。

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