第四話
*
そこは、白い部屋だった。
ゆっくりと、扉が開いた。
そこには、なにもなかった。
ただ、わたしがいた。
*
沫衣とあの部屋で別れてから二週間が経った。制服に厚手のコートだけでは物足りず、マフラーや手袋が欠かせない季節になった。
あの日から一度も沫衣の姿を見ていない。保健準備室の扉は、固く閉ざされたままだった。
それでも、帷は放課後にあの部屋を訪れるのをやめようとしなかった。
彼女は言った。『ごめんね、会話の途中で』と。
彼女は言った。『きっと、またここにいるから』と。
ならば、帷に出来ることはただ一つ。沫衣を待つことだけだった。
今日も帷は保健準備室の前に来ていた。期末テストの最終日の放課後で、校内に残っている生徒はいつもより少なめである。
帷は慣れた手つきでドアに手を掛けた。結果など本当はわかりきっているのに、そんな心の呟きを無視して手に力をこめる。……開かない。
溜息がこぼれた。
これで、ちょうど二週間。来週が終われば冬休みに入り、次に学校に来るのは年明けだ。
なんとなく、それまでには会っておきたかった。約束などしていないのに、会わなきゃいけない気がした。
「その扉は、もう開かないの」
聞き覚えのある声が聞こえた。急いで振り返り、両目でその姿を捉える。
「沫衣……!」
廊下の先で、帷は求めていた彼女を見つけた。
着いてきてと沫衣に誘われて、帷は屋上を目指している。
「こんなとこ、登って大丈夫なのか?」
本校舎の屋上へと続く非常階段の手すりに足をかけながら、帷は沫衣に問うた。
「その手すり、見た目より丈夫なの」
一足早く屋上に辿り着いた沫衣はあっさりと答える。
慣れた手つきと足さばきで楽々と登っていた彼女の動きを思い出しながら帷も続く。
「いや、屋上に行くことを心配してるんだけど……」
そんなことを言いながら、帷も屋上へと登った。
沫衣に誘われるままやって来た、意外と狭い本校舎の屋上。空を覆う
綺麗な夕日を期待していた放課後の空は、いつもよりも重たそうな、どんよりした灰色の雲に覆われていた。天気予報では夕方から雨が降るらしく、もしかしたら今年の初雪が降るかもしれないそうだ。
今にも泣き出しそうなと表現するには少し大げさで、それでも下校する頃には多分雨がぱらついていて、おそらく夜になってから本格的に降り始めて、きっと初雪はまだ早い、そんな空模様。
「ごめんね。全然学校にいなくて」
屋上の端に立った沫衣は突然謝罪をした。いつもなら陽光に照らされて輝くはずの綺麗な長髪も、今は空と同じく霞んで見える。
「いや、別にいいさ」
なにか他のことをやっていたのか? という疑問を帷はぶつけられずにいた。生徒会長との関係や初めて会ったときに追いかけられていた男のこと、なぜ保健室登校をしているのか。聞いてみたいことはたくさんあった。
それでも、すべては沫衣の口から自発的に聞きたかった。
「友だちとね、ちょっと意見の対立があって、二人とも譲らなくて。それでちょっと、ね……」
わかるような、わからないような説明だった。
「でもね、静――御巫静はいい人だから。あなたがもし何かに迷ったとき、彼女なら絶対に手を貸してくれるから。覚えておいて」
意見の対立のあった友だちというのはおそらく生徒会長のことだろう。彼女のことを沫衣が信頼しているのは分かったが、なぜ二週間前のあの日、御巫と対峙した沫衣はあんなに寂しい顔をしていたのかはまだ分からなかった。
いつもより口数の少ない沫衣は、曖昧な空をぼうっと眺めながら屋上の隅へ向かった。
「ねえ、ここに登ってみない?」
屋上の奥に隠してあった梯子を階段が設置された塔屋に立てかけて、沫衣は帷を誘う。
「……え?」
そこは屋上よりも数メートル程度高い、せいぜい五メートル四方の場所だった。
「見晴らしもいいよ?」
帷の返答を待たずに沫衣は梯子を登る。帷はさりげなく目を逸らした。
塔屋は灰色のペンキで塗られていて、後ろの空と重なって見えた。銀の梯子は空へと架けられたみたいで、沫衣が天へと上っていくような錯覚に陥る。
「上に来ないの?」
沫衣の言葉で帷は我に返った。
「今行く」
沫衣の手を借りて、帷も塔屋の上に立った。
そこは、御空市を一望できる場所だった。学校の最寄りの雫ヶ丘駅、沫衣と初めて会った御空駅周辺。北の空には
空が晴れていれば、沈む夕日が眩しい時間帯。晴天ならここから見える景色もきっと綺麗だろう。
「ここが、わたしが学校で一番好きな場所」
沫衣は空に手をかざす。つられて帷も手を伸ばした。
今日が曇り空だからなのか、それともここが学校で空に一番近い場所だからなのか。地面と空の境目が曖昧で、今なら空に触れるような気がした。
「もっといい天気の日だったら、ここから見える景色もさらに綺麗になるんだろうな」
「そう? 意外といいものよ。太陽のない夕暮れも、月の出ていない夜も」
沫衣はくるりとスカートを翻して正面の空を向いた。灰色の雲がこの屋上を満たしている。ふわりと揺れた彼女の長い髪がその動きを止めると、この場所が静止したように感じられた。
雲も動かず、太陽も見えないため時間が過ぎていく感覚もない。二人は、凪の空のなかに立っていた。
「ねえ。もしわたしが
ふいに沫衣が話しかけてきた。帷からは後ろ姿しか見えないため、彼女の表情は読み取れない。
「……」
罪人。罪。もし沫衣が罪人ならば、どんな罪を背負っているのか。帷は思い出す。初めて会ったときの彼女を。自分を社会不適合者だと表現した彼女を。生徒会長と話す困惑した様子の彼女を。思い出を振り返って、彼女の罪について考えようとして――帷は考えるのを止めた。
だって、知らないことだらけだから。帷は沫衣のことをまだよく分からない。何を考えているのかもさっぱりだ。だから――だからこそ、何の罪を抱えているのかなんて考えたくない。
「どうも、しないよ」
「……」
「俺はまだ、きみのことをよく知らない。これから、もっと知るのかもしれない。きみの罪のことも、知るのかもしれない。でも――俺は、どうもしない」
「この前『論考』のことを話してくれたとき、水中からコップの形を探る、って話があったよね。俺はきみという人間をまだ理解できていない。俺のコップのなかは、まだきみで満たされていない。でももしかしたら、いつかきみのすべてを理解する日がくるのかもしれない。そうなったら、俺ときみの境界が曖昧になるくらいに満たされたら、きみの罪が見えてくるのかもしれない」
「けれど、俺はどうもしない。だってそれは、いくら見えたところで俺には理解できるものではないから。境界線の外にあるものだから」
「きみは何度か、俺がせかいの限界を変えたって言ったよね。そんなときのきみは、とても楽しそうだ。そんな笑顔を俺はこれから先も見ていたい。そしてそれは、境界線だとか、罪だとかは関係ない。そんな場所にいなくても、きみのせかいの限界を変え続けることはできる。だから、きみが罪人だったとしても、どうもしない」
帷が語ったのは飾らない真実の思い。厚い雲が邪魔をしているためか、空に吸い込まれることなく沫衣に届く。
「そうね……きっとそれが――」
沫衣は途中で言葉を切って空を見上げた。ぽつぽつと、小さな雫が空から落ちてくる。
「そろそろ降りよっか」
梯子を使って沫衣は塔屋から離れた。
「ねえ、きみはどうやって降りる?」
「……? どういうことだ?」
「別に。ただのなぞなぞ」
「……普通に梯子で降りる」
「それ、わたしの梯子なんだけど」
沫衣は悪戯っぽく笑った。
「じゃあ今だけ貸してくれ」
「……投げ捨てないの?」
「きみの梯子なんだろう? 大事に使って、すぐ返すさ」
「……そう」
沫衣が満足そうな顔をしたのを確かめて、帷も屋上に降りた。
「ありがとう。わたしは間違ってなかったって、そうわかった」
「よくわからないが――さっきの答えで満足したのならよかった」
小雨がぱらつき始めた。今日はこれでお開きだろう。
「この雨、雪になるかな」
沫衣が曇天を仰ぐ。吐く息は白い。
「夜中になれば、もしかしたら雪になるかもね」
「そうしたら……明日の朝、この街は雪で真っ白になるかな」
「どうだろうな……。早朝だったら雪が融けずに、白一色の景色が見られるかもしれないな」
「もしそうなったら、きっと綺麗だろうね」
「そうだな」
沫衣は雪の日も似合うだろうと、なぜかそう思った。
「そろそろ下に降りようと思うけど、沫衣はどうする?」
「わたしはもう少しだけ、ここにいる」
「そうか? 風邪ひかないようにな」
沫衣を残して屋上に繋がる非常階段へと向かう。その途中、沫衣に挨拶をしていないことに気づいて彼女の元に引き返した。
「挨拶を忘れてた。じゃあな、沫衣」
「ええ。さようなら、帷」
霧雨に濡れながら笑顔を浮かべる沫衣を見て、帷は屋上を降りた。
彼女が初めて『帷』と呼んだことに気づいたのは、学校から出る直前だった。
*
その夜、御空市に今年初めての雪が降った。
空を舞う純白は地面にべちゃりと落ちて、ちっとも綺麗じゃなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます