第三話
*
数日後。帷は保健準備室の前に来ていた。
この数日間で分かったことは、沫衣がいない日はこの部屋のドアに鍵がかかっているということだ。
そして、今日はドアの鍵がかかっていなかった。
「沫衣? いるか?」
「どーぞ」
彼女の返した言葉を聞いて帷はドアを開けた。
小さな部屋は橙色に照らされていた。その真ん中に座る沫衣は本を読んでいる。オレンジ色の静謐な小部屋で読書する女生徒。なんとも画になる光景だった。
視線をあげて帷の姿を認めると、沫衣はテーブルに本を置きこちらへ微笑んだ。
「いらっしゃい」
「おじゃまします。……その言い方、まるできみがこの部屋の主みたいだ」
「ま、そんなもんでしょ」
澄ました顔の沫衣を眺める。読書中は邪魔だったのか、右耳に髪をかけていた。
「何の本を読んでたんだ?」
裏表紙を向いていた文庫本を表に返し、こちらに差し出してくる。
「『論理哲学論考』?」
難しそうなタイトルの本だった。クリーム色にくすんだイエローの、特徴的な表紙をしている。
「ヴィトゲンシュタインの本。聞いたことない?」
「ないな。……いや、もしかしたら倫理の授業で聞いたことあるかも」
受け取った本をぱらぱらとめくって沫衣に返す。横書きの薄い本。愛読書なのだろう、少し角が削れ、いくつかの開き癖があった。
「どんな内容なんだ?」
「ええっと、説明するのは難しいな……」
沫衣は視線を横に外して顎に手をあてた。
「とりあえず、これはオーストリアに生まれた哲学者が百年くらい前に書いた哲学の本。簡単に言うと、論理学を用いて語れるものの範囲を決めることで、論理学が語れないものを区別しよう、って内容。……って、わたしも論理学の部分はピンときてないんだけどね」
「語れるもの?」帷は沫衣の数倍ピンときてない。
「そうだな……。例えば、さ。縁ギリギリまで水が入ったコップがあるとき、〝コップの形〟を知りたいとしたら、どうする?」
「……そのコップを見るか、水がこぼれないように気をつけて、触る?」
「そうだよね。普通はコップの外に目や手があるから、そのまま見るか触れれば形が分かってそれでおしまい」
「そりゃそうだよな」
「うん。じゃあ、縁ギリギリまで水が入ったコップのなかにわたしたちが閉じ込められて、満たされた水しか触れないとき、どうすれば〝コップの形〟を知れると思う?」
「うーん……? つまり、コップのガラスに触らないでコップの形がわかればいいんだな?」
「そう」
内側にいながら外側を知る方法。どうにかして外側へ出ることが重要じゃないか?
「ズルかもしれないけど……コップのなかの水圧を上げることでコップに穴を開けて、そこから外を見る?」
「うん、面白い発想。あなたに聞いてよかった」
沫衣は眩いものを見るかのように目を細めた。
「じゃあ、これで合ってるのか?」
「ううん、間違い。わたしたちを囲むガラスは、わたしたちがどう頑張っても壊れたり、歪んだり、変化することはありません」
「うーん…………。じゃあ、無理じゃないか?」
「その答えは半分正解で、半分間違い」
沫衣は深呼吸をして、ゆっくりと口を開けた。
「コップの内側にいながら形を知る方法はただひとつ。それは、コップがどこまで水に満たされているかを知るということ。そうすることで、わたしたちが触れられる場所と触れられない場所に区別でき、その場所を水とガラスの境界線にすることができる。つまり、水の満たされている場所を内側だと言うことで、境界線の向こうを触れずに水の満たされてない場所を外側であると示せる。引かれた境界線から外をコップの形であると言うのは無理があるけれど、これなら水のなかにいながら触れることのできない水以外を捉えることができる」
オレンジに染まった空間は沫衣の言葉によって満たされた。彼女の語り口は滑らかで親しみやすく、それでいて包容力があった。
帷は彼女の言葉にずっと耳を傾けたいと感じる心の片隅で、なにかに対する違和感を拭いきれずにいた。
それは、なんだ? 自問をする帷の目に、彼女のガラス玉のような瞳が映る。吸い込まれそうな、綺麗な目をしていた。
「わかったような、わからないような……」
「この、わたしたちを満たしている水とはなにか、その水をどう使って境界とするかを考えたのが『論考』。……さすがに乱暴に解説しすぎたかな。ごめん、全然わからなかったよね」
「いや、なんとなくはわかったけど……。ちなみに、どこらへんが面白いんだ?」
「そうだなあ。うーん」
沫衣はしばし目を伏せて言葉を選んでいる。髪と同じ色の長い睫がきらりと輝いた。
黄昏色の静寂を纏った彼女の息を吸う音が聞こえた。帷は無意識に、ごくりと唾を飲みこんだ。
「わたしは――」
「沫衣、いるわよね?」
ドアを開ける音とともに、一人の女性徒が長い黒髪を揺らしてオレンジ色の部屋のなかに入ってきた。思わぬ来客だったのか、沫衣は小さく口を開けている。
「ちょっといい?」
帷は後ろを振り返って来訪者を確認する。それは、初めてこの保健準備室を訪れたときに部屋から出てきた生徒と同じ人物だった。
「
困惑した様子の沫衣が女生徒に言葉を返した。……静?
二年生を表す青のリボンタイ、校則通りの格好に堂々とした振る舞い。見覚えのある容姿と「静」という名から、帷はこの少女に心当たりがあった。
――
「ごめん、静。ちょっとだけ待ってもらえる?」
沫衣が申し訳なさそうにしながら帷の方を向いた。数分前の、哲学の話をしていた彼女の面影はなかった。
「沫衣……」
帷は彼女に声をかけずにはいられない。それは、彼女が初めて学校で見たときと同じ寂しげな顔をしていたから。
「こっちは急用なの。
御巫には謝罪をしながらも有無を言わせぬ雰囲気があった。帷は御巫の勢いに押されて鞄に手を掛けざるを得ない。
太陽に雲がかかったのか、窓から射すオレンジ色の光が弱くなった。冬の冷たい夕闇がこの部屋に忍び寄ってくる。
「わかった。ごめんね、会話の途中で」
沫衣は無理に明るい声を出した。ただ名残惜しいように振る舞っているが、それ以上のなにかを帷は垣間見た。
「……ごめん」
沫衣だけに聞こえる声で呟いて、御巫を横目に帷は席を立つ。手にした鞄がいつもより重く感じられた。
薄暗い廊下にドアの閉まる音が響く。それはまるで、牢獄の扉を閉じる音のように聞こえた。
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