第二話


 翌日。月曜日。昼休みの学食。

 帷は友人の祐二ゆうじ千夏ちなつとともに昼食をとっていた。

「で結局、そのセットも取られて負け。男子も女子も見事、地区予選敗退ってわけ」

 試合の結果を話す千夏に祐二が頷いた。祐二は男子バレーボール部の副部長、千夏は女子バレーボール部のキャプテンだ。どちらも帷と同じ二年B組の生徒である。

「うちのバレー部ってそんなに弱かったっけ?」

 帷は首をかしげる。当事者を前にはっきりと疑問を突きつけるのは友人としての会話だからであって、帷はそこまで無遠慮な性格ではない。

「一個上の代の先輩達はもう少し強かったんだけどなあ」

 祐二は鍛えた太い腕を前に組む。がっちりとした見た目なのにさっぱりとした性格の彼は、自分たちの代が弱いことを隠そうとしなかった。

「いやぁ、まさか三高にしか勝てないとはね……」

 予想外だったよ、と頬杖をつきながら千夏は明るく続けた。こちらもショックを受けている様子はない。

 副部長と主将が言うくらいだから、今のバレー部はあまり強くないのだろう。それでも二人は楽しそうで、試合に勝つことだけが運動部の目標ではないというところだろうか。

「今年度の大会はこれでおしまい?」

「そうだな。次は新入生を迎えての春大会だ」

「それで私たちの代は引退。最後だもん、二勝はしたいよねー」

 地区予選突破、とならないところがバレー部の現状の実力を物語っている。自分のチームの力を十分に把握しているからこその物悲しさがそこにはあった。

「一年生で実力のあるやつはいないの?」

「うーん。まあ、ぼちぼちだな」

 学生で混み合う食堂という環境もあってか、祐二は声を落として言った。

「女バレも五葉いつはちゃんくらいかなー」

 男子も女子も、来年の新入生に期待ということらしい。

「帷、バレー部のことがそんなに気になるんなら見学しに来いよ」

 A定食の大盛りを既に完食していた祐二は冗談交じりに提案する。

「そうだよ。こっちにも遊びにおいで」

 同じく親子丼大盛の最後の一口を食べてから千夏が笑って付け加えた。千夏は背が高いため、いつも男子が頼むようなメニューを選んでいる。

「そのうちね。……女子の方には行かないぞ」

 予鈴が鳴った。マネージャー募集してるんだよーと続ける千夏を適当にあしらって、帷たちは午後の授業に向かった。



 帰宅部の放課後は早い。部活のある友達を見送って、帷は一人、オレンジ色で染まった本校舎の外廊下を歩いていた。

 さっさと帰ればいいのに、と帷自身もそう思う。それでも、昨日の非日常を思い出すと日常へと帰れない自分がいる。

 そういえば、昼食のときに祐二からバレー部の見学に誘われていたな。見に行ってみるか。

 などと考えて、帷はバレー部が練習をしている体育館へ向かう。普段は体育の授業でしか体育館に用がないため、放課後にこの外廊下を通るのは初めてだった。

 視界の端で、なにかが輝いた。夕陽が窓ガラスに反射しただけだろう。きっと、それだけ。ただ、眩しいだけ。

 いつものことだと。なんてことはない、ただの現実だと。わかったふりをして、目を逸らす。それなのに、心は煌めく白金プラチナに吸い寄せられていって――。

『あなたは、あなたの善意で、わたしのせかいの限界を変えたの』

 まだ耳に残っている、昨日の言葉が聞こえた気がした。

 本校舎一階の、ひとつの窓に視線は引き寄せられる。そこには、昨日ゲーセンから一緒に逃げ出した少女がいた。

 なんで。

 疑問に思ったことはふたつ。

 ひとつ、どうして彼女がここにいるのか。

 そしてもうひとつ、なぜそんな寂しい顔をしているのか。

 帷は操られるように歩き出す。彼女がいるであろう場所を目指して。

 ――なんで、そんな顔をしてるんだ。

 一瞬、窓越しに見えた彼女を思う。

 昨日、きみは言った。俺がせかいの限界を変えたのだと。あんなに嬉しそうに、きみは言った。

 それなのに、さっき見たきみは、まるで牢獄に閉じ込められているみたいだった。

 校舎に入り、早歩きで彼女を探す。外から見た感じだと……この教室だろうか。

 見当を付けた教室のドアが突然開く。中から一人の黒髪の女生徒が出てきて、帷の前を通り過ぎた。……今のひと、どこかで見たことがあるような。

 帷はプレートに載っている教室名を目で読んだ。――『保健準備室』。


 意を決してドアをノックする。コンコンという軽い音に、小さく「どうぞ」と声が返ってくる。

 帷は扉を開けた。そこは夕陽の差しこむ小さな部屋だった。四人がけのテーブルの周りに金属製の棚がいくつも置かれただけの簡単な部屋だった。そして、椅子に座った彼女が一人、いた。

「せかいってのは、思ったより狭いみたいだ」

 彼女がゆっくりと振り返る。微笑を浮かべた人形のような顔は揺れて、目は丸く小さく口を開けて、

「――ほんとうに」

 そして、笑った。


 席をすすめられて、帷は彼女の対面に座った。窓越しに見た寂しそうな様子はなく、楽しそうな、昨日見たままの彼女だった。

「きみが雫ヶ丘しずくがおかの生徒だとは思わなかった」

 帷が――否、帷たちが通っているのは私立の雫ヶ丘高校という名前の学校である。雫ヶ丘という丘の上に建っているのでこの名前になったらしい。なんとも直球なネーミングセンスである。

「まさか、だよね。びっくりしちゃった」

 彼女はころころと笑った。

 白いブラウスに青のリボンタイ。濃紺のスカートとブレザー。昨日着ていたぶかぶかのパーカー姿のイメージが強いため、見慣れた制服を着ているのが新鮮だ。……まだ二回しか会ったことがないのだけれど。

「青のタイってことは二年生?」

 雫ヶ丘高校では学年によってタイの色が異なる。一年生は赤で二年生は青。三年生は……緑だったか。

「そう。あなたと同じね」

 彼女は帷の胸元を見ながら答えた。

「雫ヶ丘高校二年D組、神楽木かぐらぎ沫衣あわいです」

 わざとらしく姿勢を正して彼女――沫衣が自己紹介をする。

「同じく雫ヶ丘高校二年B組、筒見つつみ帷です」

 帷も不自然なくらい背筋を伸ばして返す。神妙な顔を突き合せる無言の間がおかしくて、ほとんど同じタイミングで吹き出した。そして、しばらく二人で笑っていた。

「神楽木さんってD組だったんだ。全然わからなかったよ」

 何気ない会話に沫衣は微妙な顔をした。

「あー……。ごめん。名字で呼ばれるの、好きじゃないんだ」

「ごめん。えっと……沫衣、さん」

「『さん』付けもちょっと、やだな」

「じゃあ、沫衣」

 帷は少しだけ勇気を出して名前を呼んだ。会って間もない女の子を名前で、しかも呼び捨てで呼ぶことになるとは思っていなかった。

「はい。沫衣です。……ところで、なんの話だっけ?」

「いや、学校で見かけたことがないなぁと思って」

「忘れてるだけじゃない?」

「そんな綺麗な髪をしてるんだから、見かけたら覚えてる」

「なに、ナンパ? 髪フェチ?」にやにやとしながら沫衣が問いかけた。

「ちがう。髪フェチでもないぞ」

 口は災いの元、という格言を考えた先人は偉い。そしてこの格言を発言の前に思い出さなかった帷はなにひとつ偉くない。

「ああ、でも言っている意味はわかったかも。わたし、あんまり学校来ないし。来ても授業には出ないから」

 さらりと、何事もないように沫衣は告げる。

「え、それって……」

「保健室登校? 社会不適合者? 好きなように呼んでよ」

 口の端で笑った沫衣は涼しい顔で言い放った。

「沫衣……」帷には返す言葉がない。

 でも、こんな風に笑う沫衣はあまり見たくなかった。

「じゃあさ、修学旅行も行かなかったの?」

 だから帷は話を逸らすことにした。

「もちろん。行き先は……どこだっけ?」

「それすら覚えてないの!? 沖縄だよ」

 半年前に行った修学旅行のことを思い出しながら帷は答える。

「行かなくて正解だったかも。暑かったでしょ?」

「まあ確かに暑かったけどさ……。六月だったのに半袖で過ごせたし。でも、面白かったよ。行きの空港で集合時間ギリギリに来た友達が思いっきり寝癖立ってたりとか」

 こんなの祐二には見せられないー! と言いながら必死で髪を梳かしていた千夏を思い出して一人で笑う。

「ふふ、なにそれ」

 沫衣が笑みを浮かべた。やっぱり、沫衣は笑顔が一番似合っている。

「それだけじゃないぞ、金属検査のときに――」

 数人の友達と他校の高校生をナンパしたら見事に撃沈したこと、女子の部屋に行こうと教えられた番号の部屋の扉を開けたら先生の泊まっている部屋だったこと。帷は修学旅行の思い出を沫衣に語った。修学旅行に興味はなさそうだったのに、話の相づちを打ち、帷の話に「なにそれ」と言いながらも沫衣はとても楽しそうに笑っていた。


「はー、面白かった。うん。昨日より楽しかったかも」

 夕陽を受けて輝く長い髪を見ていたから、昨日より、なんて言うから帷は思い出してしまう。昨日の別れ際に言われた意味深な言葉を。

「沫衣、俺はまた、きみのせかいの限界を――」

「ええ、変えたわ」会話の途中で言葉を引き継いだ沫衣はさらに続ける。

「わたしは修学旅行に行ってない。あなたが話してくれたから、わたしは行ったことのない沖縄のことを知ることができたの。それって、せかいの限界を変えるってことじゃない?」

 せかいの限界、という言葉にピンとこない帷はいまいち沫衣の言っていることを理解できない。それでも、今感じたことを素直に口にしてみる。

「それって、自分から行動すればいくらでもせかいの限界は変えられるんじゃ? 沫衣も修学旅行に行ってたなら、そのぶんだけ変わったんじゃないのか?」

 沫衣は沈黙した。帷の言葉の意味を考えているのだろうか。彼女の色素の薄い目が、さらに透きとおっていくような気がした。

「先輩、いますか?」

 控えめなノックの音が、二人の沈黙を破った。はーいと返事をした沫衣を見て、帷は席を立つ。

「ごめん。長居した」

「ううん、楽しかった」

 バッグを持って扉を開けようとする帷の背中に、沫衣の真剣な声が聞こえた。

「また、ここに来てよ。学校にいない日もあるけど、きっと、またここにいるから」

 彼女にも伝わるように大きく頷いて、帷は扉を開けた。

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