かみさまのいないせかい
かおる
第一部
第1章 筒見 帷「かみさまの、みつけかたⅠ」
第一話
――神が姿をあらわすのは、世界のなかではない。――
ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
*
よく晴れた冬の空を眺めていると、なんだか雪が恋しくなってくる。
それも、のっぺりとした雲からひらりと舞う、淡く儚い六花が。
幻の雪片を掴むように、思わず伸ばした右手が指先から冷えていく。誰に言い訳するわけでもないのに、少しばつの悪そうな顔をして、俺はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
*
十二月の最初の日曜日。天気は快晴。
普段通っている高校の最寄り駅から西へ一駅。市と同じ名前の御空駅周辺は、このあたりで一番栄えている街だ。
駅の東側には背の高いビルが建ち並ぶビジネス街で、駅ビルを挟んだ西側には繁華街が広がっている。西の街は夜にはネオンの光に満たされた歓楽街へと姿を変えるが、今は昼。煌びやかな灯は太陽の光に隠されて、喧騒がこの街を支配していた。
今日は一段と寒い。
両替機から出てきた百円玉を握りながら席に座る。ぼうっと画面を眺めたまま、手探りでコインを一枚入れた。
聞き慣れた電子音が鳴る。いつものように左手でレバーをくるりと回して、右手は一番右のボタンを二度叩いた。
――六勝〇敗。最後に帷の対面に人が座ったのが十五分前。まあ、こんなところだろうか。
見飽きたコンピューター戦の途中で席を立とうとすると、筐体の向こうからチャリンという音が聞こえた。続けて、モニターに乱入の文字。
帷は椅子に掛け直した。表示されたのは玄人向けの投げキャラ。短く息を吐き、レバーを軽く握る。
――八勝〇敗。そして現在進行形で連勝数を更新中。どうやら奥に座ったのは初心者だったらしい。しかも、相当に負けず嫌いな。
技が出たと思ったら明後日の方向。そもそも相手はガードをする気配がない、格闘ゲーム初心者特有のレバガチャプレイ。適当に手を抜いて対戦するが、相手は負けた瞬間にコンティニューしてくる。……九勝目。
これ以上、こいつの相手をしてもしょうがない。帷は席を立ち、最後に対戦相手の顔を一瞥しようと奥へ向かった。
「ねえ」
「……ん?」
後ろに立つと、さっきまで帷と戦っていた相手がふいに話しかけてきた。つば付きの帽子を目深に被り、見るからに怪しい。
「赤いライダースジャケットを着た背の高い男、まだいる?」
騒々しい店内だというのに、その声ははっきりと耳に届いた。やや高めの、落ち着いた声だった。
「さあ? ざっと見た感じだと見当たらない」
休日の午後。人の多い時間帯の薄暗いゲーセンを軽く見回す。それらしい人影はない。
「そう……ありがとう」
自らも椅子の上で背伸びをして筐体の隙間越しに向こうを確認した後、こちらに軽く頭を下げた。
「助かった」
「べつに、いいよ」
深く被った帽子のせいで相手の顔はよく見えなかったものの、本心から感謝していることは伝わった。こちらも素っ気なく返したものの、さっさと行けという意味をこめて軽く頷いた。
きっと、なにかしらの事情があるのだろう。深入りする気のない帷にとってはどうでもいいのだが。やれやれと心のなかで呟いて、帷は歩き出した。
「……?」
その歩みは数歩目で止まった。なぜなら、さきほどの帽子の怪しいヤツが帷の服の裾を掴んできたから。
「出口、教えてくれない?」
「どう歩いたらゲーセンで道に迷えるんだか」
「ここ、初めて来たの」
並んでみると頭ひとつ分小さい迷子が、不満そうな声でそう漏らした。
格ゲー、音ゲー、メダルゲームと、人の合間を縫って出入り口を目指す。
先ほどから警戒している赤のコートの男とはどんな関係なのか。追われているのか。湧き上がってきた疑問点にはふれずに、帷は口を開いた。
「あの爺さんのキャラは初心者向けじゃないんだ」
「え?」
「さっき、きみが使ってたキャラクター」
「えぇっと……ああ、さっきのゲームの話ね」
「そう」
「それで?」
「俺の使ってた、銀髪のキャラなら初心者でも分かりやすいから」
だから、次はそれで試してみるといいよ。そう続けようとして、帷は違和感に気づいた。何故、俺は初めて会ったヤツを励ましているんだ?
自分自身の発言の真意を測りかねて、上の空のまま歩いているとプリントシール機の並ぶエリアに来ていた。出口はもうすぐだ。
もうそろそろ、と後ろの迷子に声をかけようとした瞬間、突然腕を掴まれてぐいと引かれた。
状況のわからないまま開こうとした口に、立てた人差し指が当てられる。
顔が近い。帽子の迷子の大きな瞳が揺れている。動揺が、強く握られて引き寄せられた右手から伝わってくる。
「おい……!」
「ちょっと静かにして」
声を押し殺した懇願。帷は従うことにした。
十秒。……二十秒。…………三十秒。プリント機のカーテンに囲まれた狭い空間で二人、息を殺す。
ゲーセンの騒がしさはどこか遠くにいってしまった。今はただ、付近を通る足音と大きく跳ねる心臓の音しか聞こえない。
「……いたの?」
「いた」
「どこに?」
「出口。自動ドアの近く」
カーテンの隙間から、恐る恐る辺りを窺ってみる。
いない。カーテンを少し押し開けてそこから外を覗いても、赤い上着を身につけた長身の男は見当たらなかった。
「外を見てくる」
「え……?」
「ここで、少し待ってて」
「ちょ、ちょっと」
掴まれた右腕をゆっくりと外して、帷はプリント機の外に出た。何食わぬ顔で周囲を見渡す。……いない。
同じような大きさの機械に囲まれてできた細い通路を足音を殺してゆっくりと歩く。まるで裏路地を歩いている感覚だ。右に左に道は折れて、誰に会うこともなくあっさりとプリントシール機のエリアの外に出た。
出口はすぐそこだった。手押しのドアの付近にも探している男の影がないことを確認して、帷はガラスの扉を押し開けた。
近くを歩く人の声。遠くから聞こえるクラクション。都会の猥雑な音が帷を包む。その騒がしさは、電子音で満たされていた店内の方が静かだったと錯覚させるほどだ。
通行人の多さにうんざりしながらも、帷は男の特徴に合う人物を探す。
今日はマフラーか手袋がほしいくらいには寒い。つまり、上着を身につけている人がほとんどだ。探しているコートの色は派手だが、決して着ているだけで特定の探し人を絞り込めるほどの特徴ではない。背が高い、という情報はさらに当てにならない。もちろん、人によって判断基準が異なるからだ。
条件が当てはまりそうな四人目の男を見送りながら帷は考える。ただの通りすがりが、帽子のあいつが言っていた男だという可能性は低い。視界から、条件の当てはまらない人間を少しずつ消していく。
そもそも、探している男はゲーセンのなかに入ったのだろうか? 自分ならゲーセンで人捜しをする場合、そもそも店内には入らない。ビデオゲーム機などの大きな機械が多く、声も聞こえにくい。そのうえ、店のなかは暗く人も多い。つまり、ゲーセンとはある個人を探すには不向きの場所である。
自分ならどうするか。顔見知りなら携帯で連絡をとるか、事前に待ち合わせ場所を決めておけばいい。しかし、あの二人の間にそんな関係があるとは考えにくいため、この手は使えない。そして、最後に男が目撃されたのは出口の近く。自分だったら――ゲーセンの扉がよく見える、店の外で待つんじゃないか?
このゲーセンの出入り口は一カ所。わざわざ店のなかに入って探すより外で張る方が効率がいいだろう。
おそらく、男は今の帷を見える位置にいるはずだ。そしてそれは、男の姿がこちらからも確認できる場所にいるということだ。
ゆっくりと、慎重に視界の候補の男たちを消していく。こちらを見通せる場所にいて、赤いライダーススーツを着ている、背の高い男。少しずつ帷の視界から候補者が消えていく。照準を絞るように、冷静かつ大胆に。
――ダメだ。候補の人間が全て的の外にいってしまった。絞り損ねたか? いや、条件は合っているはずだ。なにか小さなことを見落としている気がする。
最後まで候補に残った数人の男を観察する。いる場所も、服も、身長も条件には限りなく近い。だが、身につけている上着が赤のダウンジャケットだったり、こちらを見続けるには遠くで立っていたりとなにかが足りない。
…………身長?
身長の高さの印象は人によって異なる。そのため、この情報の取り扱いには注意が必要だ。――だが、この情報の発信源はひとつしかない。帽子のあいつだ。あいつと横に並んだときに感じたことを思い出す。ヤツは、背が低い。帷は男子高校生のなかで真ん中くらいの身長だが、それでもあいつは帷くらいの身長の男も「背の高い男」と感じるのではないだろうか? それは、帷があいつの背が低いと思った以上、その逆も十分に成立する。
身長の条件に修正をかけて、すぐさま人捜しを続行する。――見つけた!
車道を挟んだ向こう側、喫茶店の奥のテラス席。茶色の髪で煙草を吸いながら、こちらに視線を投げている若い男がひとり、いた。身長は座っているため分かりにくいが、目測で帷よりもやや高いくらい。ワインレッドのライダースジャケットを身につけている。
何気なく視線を外し、不自然にならないように後ろを向いた。あいつだ。帷の第六感がそう叫んでいた。条件にも合う。間違いない。
ドアを押して、早足であいつの待つプリント機へ向かう。驚かせないように、無意識に上がっていた息を整えて、カーテンをめくる。
「見つけた」
「わ! びっくりした」
怯えた表情が安心に変わる。まあ、帽子でよく見えないんだが。
「茶髪の男。身長は俺と同じくらい。……大丈夫?」
「だいじょうぶ。たぶん、合ってる。その人」
帷も知らず握りしめていた拳の力を抜いた。少しずつ緊張がほどけていく。とたんに、周囲から脳天気な音声の流れるこの場所が鬱陶しくなってきた。それは心の余裕が余計なことを考えられる程度にはできたということだろう。なんだか可笑しくて、帷は笑みを浮かべた。
「そいつは向かいの喫茶店のテラスにいた。いま外に出たら気づかれるかもしれない」
「こっち、見てた?」
心なしか、帷の余裕が伝播しているようだ。
「見てた。けど、じっくり監視しているってほどじゃなかったな」
男の様子を思い出しながら帷は続ける。
「じっと、このゲーセンのことを見ているんじゃなくて、誰かを待っているような印象をうけた」
「待っている……」目の前の人物は考え込むように反芻した。
「気づかれずにここから出ることはできると思う?」
「おそらく。ゲーセンから出る人混みか信号待ちのトラックの影を使えば、なんとか」
「不可能ではない?」
分は悪くない。だが、相手の男がこいつの身なりを知っている可能性がある。そうなれば、何に紛れるにせよ見つかってしまう確率が上がる。男がいるのは道を挟んだ向こう。即座に捕まることはないにしても、追いかけっこはごめんだ。
せめてこの勝負、五分五分であってほしい。相手のミスを誘うのではなく、できればこちらがアドバンテージを得ておきたいが……。
ひとつ、ある。姿を知られているかもしれないからこそ使える手が。
「気づかれない確率を上げよう。俺の服を上から着て、変装するんだ」
帷はパーカーを脱いで渡した。言いたいことがありそうな雰囲気だったが、半分押しつけるようにして帷はプリント機の外に出た。
Tシャツだけでは外はさすがに寒いだろうか。だが、寒さを感じないほど帷はわくわくしていた。変装して誰かを騙すなんて、小説や映画みたいだ。
「……ちょっと大きいんだけど」
釈然としない声色とともにカーテンから出てくる。ぶかぶかなパーカーが不思議と似合っていた。袖のところを折っているため、帷が普段身につけているものとは違う服に見える。
「これだけで印象が違って見えるね」
「そう? ……なんか上機嫌になってない?」
「気のせいだよ」
浮ついた気持ちを張り直して、帷たちは出口へと向かう。
「なにも聞かないんだ」
「そっちが何も言わないから」
「うん。…………ありがとう」帽子の奥で、静かに笑った気配がした。
ガラス扉から外の、目の前の喫茶店の様子を窺う。ちょうどそこへ、一台のトラックが喫茶店とゲームセンターを遮るようにして停車した。
今だ! 小さく叫んで扉を開けた。帷たちをトラックが隠す。一定のペースで早歩きしながら、急にトラックが動き出してもいいように車道側に帷が横に立った。
交差点まであと数メートル。これを曲がることができれば十分に距離ができる。そう思った瞬間、トラックの待っていた信号が青に変わった。点滅するウィンカーは右折を示している。トラックの運転手がハンドルを右に切り始める。まずい。このトラックが動き出せば、喫茶店から丸見えになってしまう。
「交差点を左に曲がるぞ! 走れ!」
横断歩道を渡る人の群れの隙間を縫って、走る。
気づかれてませんように。怪しまれてませんように。祈りながら大通りから裏路地に入り、二度三度曲がり、細道を抜けた。二人分の荒い息しか聞こえなくなって、顔を上げると小さな公園に辿り着いていた。
「なんとか、無事……?」
「……たぶん」
公園のベンチに二人、息が落ち着くまで腰を落ち着ける。
「バレなかった……のかな」
「そうじゃないと、割に合わない」
「そだね」
息を整えてから、帽子を被ったヤツは帷の正面に立った。
「そうだ、これ、返さないとね」
帷のパーカーを返そうと服に手を掛けたところで、一陣の風が吹いた。それは、真冬にしては温かみのある――そして、被っている帽子が落ちるくらいの風だった。
「…………え?」
それは、透きとおったプラチナだった。透明感のある白銀の長い髪は煌めいて、冬の青空を舞っていた。突然の風に大きな瞳は見開かれて、小さな鼻と薄い唇は美しく、そして儚げだ。触れてみたいのに、いざ触れると融けてしまう。侵しがたく、穢されやすい、初雪のような少女が帷の目の前に立っていた。
「ほら、服、ありがとう。返すよ」
「ああ……えっと……どうも」しどろもどろになりながら受け取る。
「なに? どうしたの?」
「いや……女の子だった、と思って」
「いやいや、なんだと思ったわけ?」不満そうに口を尖らせながら。
「帽子を被ってるヤツがいるなぁ、と」
目の前の女の子は声を上げて笑った。笑い声を聞いているだけでこちらも笑顔になれるような、気持ちのいい笑い方だった。
「さっきはありがとう。おかげで助かったよ」
彼女は長い髪を揺らして頭を下げた。
「いや、たいしたことはしてないよ」
「そんなことない。あれは、わたし一人ではどうにもならなかった。あなたは、あなたの善意で、わたしのせかいの限界を変えたの」
せかいの限界。帷はそんな大層なことをしたつもりはない。
「それは、俺の善意よりも、きみに勇気があったからだよ」
「それも全部、あなたの物よ」
帷を見透かすように微笑む。一番の笑顔だと感じたのに、一抹の不安を感じた。
「じゃあね。今日はほんとうにありがとう」
落ちた帽子を拾い、名前も知らない彼女はそう言って去って行った。
そうだ。結局名前も、何故追われていたかも訊いていなかった。
「まあ、それでもいいか……」
晴れた冬の日もなかなか悪くないと、そう思えたから。
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