穴の話


 「地面や壁、木や服なんかに穴が空いてる事ってあるよね。人間の皮膚なんかにも小さな穴が無数に空いていたりする。…心にだって…」


 仕事は本当に楽しかった。意外だったのは、観光地にも関わらず、お客さんの多くに地元の若いOLや女子大生がいた事だった。

どんなお客さんにしても、僕が作った料理を笑顔で食べてくれるお客さんを見ている時は嬉しくてたまらなかった。夜のバーでのお客さんとの会話も面白かった。

 僕が望んでいたのは、きっとこういう毎日なんだって思った。

 入店してから2年近く経とうとしていたある冬の日、朝の仕込みを1人でしていると、店長が、「店の前にお客さんが来ているよ。ここはいいから行っておいで。」って言いながら出勤して来た。

 お客さんて誰だろう?こっちには知り合いなんていないはずなのに。と思いながら、店の外に出て息をのんだ。

 

 なぜ?


 目の前には、別れたはずの彼女が立っていた。

 「どうしたの?」と言う言葉を出すのがやっとで、頭が付いていかなかった。

 取り敢えず、近くの喫茶店で彼女に待ってもらって、僕は一旦店に戻り、店長に許しを貰って、着替え、彼女の待つ喫茶店に、激しい動悸と混乱する頭で向かったんだ。

 彼女の待つ席に座ると、「どうしたの?」また同じことを言っていた。喫茶店は開店したてらしく、お客さんもまばらで、静かにジャズが流れるお店だった。

 僕は「どうしてここが分かったの?」と聞いた。そう、誰にも言ってないはずだ。

 「前の家の不動産さんに今の住所を聞いて。」と彼女は言った。

 そうだった。引っ越しの時、運びきれなかった荷物を送って欲しいって住所を教えたんだった。

 「でも、店は何故分かったの?」彼女に聞いてみた。

 彼女は、駅から僕の家に向かう途中で僕をたまたま見かけ、追いかけて来たらしい。でも、店に入る事をためらっているところに、店長が現れて今の流れになっているようだ。

 でも、もし僕を見かけてなかったら、僕が家に帰るのを待つ気だったのだろうか?

 しかしそれより何故会いに来たんだろう。

 

 彼女の話はこうだった。

 

 あの後も、あんなことがあってもどうしても僕への気持ちを変える事が出来なかった。そして、ようやく子供達とも別れる決心がついた。だから、一緒に暮らしたいと。

 その時、僕の中で何かが大きく弾けたのを感じた。

 無理やり頭の中から消し去ろうとしていた、心の底から愛していた人が目の前にいて、いや、愛していたんじゃなく、今でも愛している人がここにいる。

 そして「分かった、一緒に暮らそう。」と言っている僕もここに居たんだ。

 「でも、ここに居たら、そのうち旦那さんも、君と同じ事をして、この場所を見つけるだろう。だから2人でもっと遠くへ行こう。こっちも段取り付けるから、ほんのもうちょっとだけ我慢して僕の連絡を待っていて欲しい。」

 彼女は頷き、その日は帰って行った。

 僕も店に戻り、その日も最後まで働いたが、ちゃんと働けていたかは覚えていない。

 次の日は水曜日で店は休みだった。1日中どうやって遠くで暮らすかを考えていた。中でも資金の問題だ。

 彼女は身一つで来るだろうし僕の貯え何て、たかがしれているしね。

 悪い考えが頭をよぎった。それが、自分の壊れていく瞬間だった。


 ”店の売上金を盗んで逃げよう。”


 店の売上金の回収は、火曜日と土曜日の朝だ。来週の月曜日、みんなが帰った後、盗んで逃げよう。いつも帰るのは僕が最後だ。金庫の鍵の場所と、ダイアル番号は、店長から聞いて知っていた。

 彼女には、来週の火曜日の始発で、少し離れた駅まで来て欲しいとだけ連絡を入れた。

 計画を立てた次の日から、月曜日までは、出来るだけ平静を装って働いていた。

 とにかくいつも通り、いつも通り。

 そして、月曜日みんなが帰った。

 僕は手袋をして金庫を開け、売上金の約200万円をカバンに入れ、店を後にした。僕の僅かな貯えを合わせると何とか、2人の生活はスタート出来ると思った。

 家に帰り、シャワーを浴び、あらかじめ準備していた身の回りのものを車に積んで、待ち合わせの駅までの途中にあるドライブインで仮眠をとる事にした。


 トントン・トントン・窓をたたく音で目が覚めると、そこには警官が2人立っていた。

 焦った僕は、車をバックさせ逃げようとしたが、ドライブインの出入り口にも、パトカーが入って来るのが見えた。

 こうなると、冷静さを欠いた僕は、もうぶつけてでも逃げなきゃと、パトカーめがけて走った。

 ドン!と言う鈍い大きな音がして、車が止まった。でも何度もバックと前進を繰り返し、ついには何かに乗り上げたのか、車が動かなくなった。

 その後は警官たちが、僕の車の窓を割り、僕を引きずり出し、うつ伏せに押さえつけられ、後ろ手で手錠をかけられた。

そしてパトカーで最寄りの警察署へ。


 その道中、明けていく空を見ながら、そこの無い大きな穴に落ちていく錯覚にとらわれていた。

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