第14話 忘却の景色

指先に残る柔らかな感触。小麦色を照らす太陽。1本いっぽんが繊細な癖のある髪。それを麗かな風が揺らす。


幻想的な景色だった。


しかし、赤と紫が入り混じった悲痛な痣は、それに浸っていた僕を現実へと引き戻した。



「有難う。助かった。いつもは夕帆にやってもらってたから。」


彼女は僕を見つめて言う。


夕帆。二月夕帆さんか。クラスの誇れる学級委員長。隣の席の冷えた存在。僕は正直苦手な部類だった。


「二月さんって陸上部だっけ?」


「マネージャーよ。」


それは初耳だった。文学少女的な印象を受ける二月さんだが、マネージャーとはいえ運動部に所属していたのか。


「私専属のね。」


そう彼女が付け足す。

僕が冷やかな眼を向けると、静かに笑った。


「冗談。大切な親友よ。」




僕らはチャイムの合図と同時に一旦教室へ戻った。


1組の彼女は教室の前に着くと、「待ってて」と言い残して扉を開けた。


中から教師の声で身体を気遣う声が聞こえてきた。


自分の教室に入る。何人かの生徒は既に理科棟から戻って来ていた。


ひそひそと噂話が聞こえる。僕の方をチラチラと見ているあたり、僕に対する事だろう。なにせ5限目の授業をサボったのだから当然だ。


他の生徒が帰ってくる前に、僕は荷物を纏めて逃げる様に教室を出た。


十女の姿はまだ無かった。


でも待ってる訳にもいかず、廊下を早歩きで歩き去る。誰にも見つからないように下を向いて。


結局昇降口まで来てしまった。途中すれ違う生徒も居たが、まあ僕だとは気付いていないだろう。


僕は靴箱に持たれかけて、十女を待つ事にした。


硝子越しの中庭を見る。そこに一条さんの姿は無い。


当たり前の事だ。何故化学の授業をサボっていたのかは知らない。


--ほんっと、どいつもこいつも鬱陶しいっ!


あの時、彼女の豹変振りに驚いて何も思わなかったが、およそ一条朱音が言いそうに無い言葉を僕にぶつけた。


彼女は物凄い人気者だ。転校して1週間が経過した今でこそ落ちついたが、それでもお近付きになりたい人は後を絶たない。


僕は違う意味ではあるけれど、その気持ちはよく分かっているつもりだ。


自分の意思とは、反して周りが囃し立てる。これがどれだけ不愉快なものか。


たまにはサボって、何も語らない花や草木を眺めたい時だってある。きっと僕にああやって当たったのも、それが起因している所もあるのだろう。


数分程度待っていると、十女が廊下の角から姿を見せた。


平然と歩いて僕に近寄る。


「これは待つ場所を指定しなかった私が悪い?」


「いや、僕のメンタルが悪い。」


だよね、と言いたげに僕の肩をぽんっと叩く。


「じゃあ、帰ろっか。西華先生に頼まれてるでしょう。」


僕は頷いて靴箱に手を掛けた。


女の子と一緒に下校なんて何年振りだろう。


僕は8年前の西華先生を真っ先に思い出した。

スカートを靡かせ小学校の校門で待つ。桜吹雪に髪を押さえながら佇む姿は、当時の僕から見ても可憐で素敵だった。僕とトラが見えると恥ずかしそうに手を振って迎えてくれる。きっとその時僕は、初恋というものを知ったのだろう。


「忘れ物あるなら今のうちだよ。」


昇降口から出かけている十女が、硝子貼りの扉に手を掛けている。


ピクリと心臓が跳ねたのが分かった。硝子には少しトラウマがある。


早く行こう。


直ぐに昇降口を出て、僕らは校門に着いた。


その時、さっきの彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。


僕は何か忘れているんじゃないか?


「そういえば、家どっち? 私こっちから行きたいのだけど大丈夫?」


十女は指を左の道に指す。僕はいつも右から帰宅している。つまり正反対だ。


彼女が示しているのは、神委市駅の方面だ。そこには僕の塾がある。


塾か。……黒猫。……木箱、……目玉!


心臓が鳴る。


目玉が居ない。あいつ昼休みに僕が寝てる間に一体何処行ったんだ。


「もしかして、こっちがいい?」


今は目玉の事は諦めよう。また本体に会いに行って、目玉の位置を教えてもらおう。監視カメラみたいに今の場所を特定出来るって先週言っていた。


西華先生に頼まれた事は最後までやらないと。


「いや、十女の方角でいいよ。」


「そう、じゃあこっちで。」


僕らは歩き出した。

彼女は体調の悪さを感じさせない程、軽快に歩く。コツコツという音はさせず、黄色いスニーカーが地面を蹴る。


坂道にも臆せず、背負ったリュックに手を掛けスピードを落とさない。


これが陸上部の副部長である彼女の力である。


「歩くの速いね。流石だ。」


僕は彼女のペースに少々遅れ気味で坂を登り切った。


「ごめん。夜路(よみち)はもっと速いから、ペースが分からなくて。」


小麦色の肌から汗が滴り落ちる。


夜路っていうと、九重夜路(ここのえよみち)か。陸上部の部長だったかな?


「そっか、でも大丈夫。着いていけるよ。」


十女は眼をぐにゃっと潰して微笑む。

僕の息のあがり具合を知ってか、両手を腰に当てた。


「もっとゆっくり行ってあげる。」



特に会話が弾むような事は無かったが、彼女との下校は楽しい。久しく忘れていた友達との会話が蘇るようだった。


十数分歩いた所で、駅前に到着した。


「旅人、今日予定あるの?」


十女が立ち止まって聞く。


予定は無いけど、一応早退の身だし。母親にも連絡行ってるだろうからな。


「あんまり油売ってると両親が心配するんじゃないか? それに体調は……。」


「大丈夫だよ。」


十女が間髪いれずに否定する。


「西華先生は私にとって特別で、西華先生も私を理解してくれてる。あの人は保護者に連絡しない。」


いや、それは先生としてどうなの?


「正確には連絡するのは6限目の途中からかな。そして決まり文句は、少し休ませて行きます、だからね。」


柄にも無く自信満々で、少し顔が緩くほつれている。西華先生は、生徒を思いやれると言えば聞こえは良いが、完全に保健室駐在という立場で職権を濫用している。


「そ、そうなのか。なら問題無いのかも知れないな。……それで、何処行くんだ?」


「あそこ。 本屋さん!」



僕は彼女に連れられて、駅前の本屋に立ち寄る事となった。

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