第11話 過去の償い

水道の水が冷たい。

そう感じたのはヒリヒリと痛くて熱い傷口の所為だろうか。いや違う。僕はその理由を知っている。こんなにも水が冷たいと感じるのは、一条さんの手が凄く温かかったからだ。


蛇口から出る水は、僕の腕を伝うと赤くなり、グレーのコンクリートを赤色に彩っていた。


サイレンの音が遠くから聴こえ、それが段々近付いてくるのが分かった。


もう充分だと判断して水道を止め、耳をすませる。


「まさか一条さん……」


サイレンが最大限に大きくなった後、音が鳴り止んだ。救急車がここ神委高校で止まった。


静寂とは裏腹に、僕の心の中は煩かった。流石に救急車を呼ぶには大袈裟過ぎる。


それが無用の心配だという事を直ぐに知った。


窓硝子が割れた理科棟の入り口とは正反対に位置する昇降口。そこで薄い水色の衣服を見に纏った隊員らしき人物が数名、慌ただしい様子で入ってくる。


1人は長細い担架を担いでいた。


その人達は教師に案内され一目散に階段を駆け上がる。


そして2年の教室がある所まで行き、扉を開けた。


少しした後、担架を持っているであろう態勢の隊員2名が姿を表し階段を今度は慎重に降りる。


棒らしき物が窓越しで確認できた。


その棒が割れた蛍光灯であった事は、隊員が1階に到着した時に知る。


担架に乗せらた男子生徒の腕には半分に割れた蛍光灯が突き刺さっていた。


心配そうに見守る先生。声を掛けて元気付ける女子生徒。遠くからだけど、男子生徒は凄く辛そうだ。


僕は自分の腕を掴んだ。なんだか痛みが増した様な錯覚を覚える。



「ええっ! こっちはこっちで大変じゃない!」


今度は昇降口と逆の方向、つまり割れた窓硝子の方向から声がした。


振り向くと白衣に身を包んだヒールを履いた女性が慌てていた。


今年から神委高校の保健室に駐在する非常勤講師の神委西華(かみいさいか)先生だ。


「おばさん、こっちこっち!」


後から来た一条さんが僕の方を指差して教える。


「こら、西華先生でしょ。……ってあれれ、旅人君じゃない?」


一条さんに案内されて辿り着いた西華先生は、僕だという事に気付いて驚きの声を上げる。


西華先生とは小さい頃からの顔馴染みで、僕にとっては幼馴染の姉という存在だった。中学に上がると、当時の西華先生は大学へ進学した事をきっかけに神委市を出て行ってしまった。しかし、ちょうど今年祖父が校長を務めるこの神委高校にやってきた。


僕の初恋だったと思う女性で、今ではすっかり苦手としている人物だ。神委高校にやってきたのを知ってはいたが、やっぱり会えずにいた。


「お久しぶりです。先生……」


「ちょっといやねー。昔みたいに西華お姉ちゃんでいいわよ。」


西華先生は恥ずかしがって、大阪のおばちゃんみたいに手を振る。すっかり大人びた女性だ。


「おばさん、対応が違いすぎでは。」


拗ねたように一条さんが言うと、西華先生は上品に笑いあげた。

そういえば、一条さんは神委家と親戚だと転入時に言っていた事を思い出す。


西華先生は更に僕に近寄り、怪我の様子を観察する。


香水の匂いか、園芸部が育てた花な匂いか、中庭を抜ける微風に乗って甘い匂いが香る。


西華先生の顔が近付いた。

真っ黒な双眸が視線を交差させる。


発熱したように身体が熱い。


「傷は1箇所を除いて浅い斬り傷ね。その1箇所も縫う程では無いと思うから、応急処置だけしよっか。」


「良かった。」


と一条さんが僕より先に安堵した。


「で、この顔の擦り傷は誰が付けたもの?」


笑顔で西華先生が問いただすと、一条さんは「ひっ」と声を上げた。




僕達は保健室に案内された。


「朱音ちゃん、もう授業に戻りなさい。後は先生が請け負うわ。」


「え……は、はいそうですか。分かりました。ではお願いします。」


一条さんは門前払いを受けると、残念というより心配な様子で答え、保健室を後にする。


「一条さん。」


僕は呼び止める。


「ありがとう。」


僕は最初に受けた出来事も、その後にしてくれた事も含めて、お礼を言っていなかった。


一条さんは眼を赤くして笑顔で手を振った。



保健室に入室すると西華先生は、棚をごそごそと漁って、新しいカッターシャツを用意してくれた。思えばずっとTシャツで過ごしていたんだと、遅ばせながら今頃気が付いた。


「さ、座って座って。」


席を用意し、僕は西華先生と対面するように座った。


そして軽い会話をした。


「大きくなっちゃって、彼女はいるの?」

「そうなの、じゃあ好きな子は?」

「好きな子も居ないと。」

「そう、あの1件で居心地が悪くなったのね。」

「でも東羅(とうら)は相変わらず不登校だけど、元気でやってるよ。私にご飯作ってくれて、私の趣味にも付き合ってくれてる。」

「今度会いに来なよ。」

「え、嫌? 気不味い?」

「思春期って面倒ねー。」


西華先生は、近況報告的な何かをしている間に手際良く消毒をしていく。


それが終わると硝子の突き刺さった手首の傷にガーゼを貼り、包帯を巻いてくれた。


最後に絆創膏を左頬の頬に貼り付けると、終了といった具合に僕の頭を撫でた。


「ねえ、旅人君。私のこともすっかり苦手になっちゃったかな?」


西華先生は目を伏せる。

僕はドキッとして身構えた。


「私をお姉ちゃんと慕ってくれていた頃が懐かしいな。あの頃に戻れるといいね。」


静かに、まるで独り言のように言う。

僕にそれが出来ないと、先生は知っているからだ。


「神委家なんて、王様みたいに気取って、弱い者いじめばかりして、ほんと最低よね。」


「父が死んで、不安定になっていた貴方も弟の事も放って於いて、逃げ出して。戻ってきたらこの有様で。守れる人達を守らなかった。私も嫌っていた一族と同じだったって事よね。」


落胆と後悔を嘆息に混ぜて、彼女は続けた。


「これだけは貴方に言いたかったの。私も私の弟も妹達も、貴方のお父様を恨んでなんかない。もちろん貴方な事もね。」


「だからね、東羅にもう一度会ってあげて。あの子はずっと後悔している。あれは自分の所為だと言ってね。」


西華先生は俯きながら、その顔から涙が滴っていた。


「そんな訳ない。あれはトラ(東羅のあだ名)がやった事じゃない。僕の父親がやったんだ。僕の父親がトラの父親を轢き殺したんだ。」


僕は思わず声を上げる。


「ええ、知ってる。でも東羅はね、もっと何か知ってるみたい。あの後、事故のことをずっと調べてたの。だからね、会ってあげて。」


僕はただ自然と出た涙と、「はい」という返事だけを、目の前にいる姉と慕っていた懐かしい女性に返した。

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