第9話 割れた硝子
彼女の行動に終始呆気に取られていた僕であったが、我に返ると直ぐに彼女を追った。
しかしその過程で自分の机に躓き、床に手をつく。
彼女の流した涙が床を濡らしていた。
それだけが彼女の実在を証明している。少なくとも今の僕にとっては。
彼女が取りに来たという筆箱も床に転げ落ちていた。僕はそれを拾いあげ、急いで教室を出た。
太陽光の差し込む廊下を左右見渡す。
ここは3階。彼女の姿が既に無い事が分かると、2階1階と階段を下る。
途中、階段の踊り場や各階の廊下を覗いても、既に彼女は走り去った後だった。
後は、僕のいる教室棟の反対に聳え立つ理科棟だけだ。そもそも化学の授業は理科棟で実施しているのだから、もうそっちに行ったのかもしれない。
僕は中庭が見える連絡通路を通って理科棟へと急いだ。
その道中に彼女、一条朱音さんを発見した。
彼女は園芸部がガーデニングした中庭で中腰になり、虹色に咲く花々を見ていた。ビニールハウスが設置された手の込んだ作りの中庭。彼女はちょうどその手前にいたのだ。
僕は直ぐに駆け寄った。
「そんな所に居たのか。急に逃げ出す事ないじゃないか。」
彼女はストレートな長髪を揺らして振り向いた。
警戒心を剥き出しにしている。眉を歪ませ、雰囲気が明らかに違っていた。まるで別人のようだ。
「何の話か分かりませんが。」
冷たい口調で彼女は言った。
「何の話って……。あ、そうだこれ忘れ物。」
僕は筆箱を見せた。
すると大きな双眸が挟む眉間に皺を寄せて、怒鳴り声を上げる。
「どうしてそれを持っているのですか!?」
「どうしてって……君が落としたんじゃ。」
僕は慌てて答える。
しかしそんな僕を一蹴するように、黒タイツの脚で地面を蹴り付ける。
「そんな筈ないでしょう。それは私の鞄にしまっているお化粧ポーチです。今日は出していませんから、それはあり得ません。」
彼女の指先がこのポーチを指す。
掲げた色素の薄い腕から下着のシャツが覗く。
「け、化粧? え、これ筆箱じゃ、え、化粧ポーチ?」
僕は手に持った細長いポーチを何度も見返す。これが世に言うお直しの道具?
筆箱だってさっき言ってたじゃないか。
「私の気を引こうとしてるか分かりませんが、許される事ではありません。」
「ほんっと、どいつもこいつも鬱陶しいっ!」
うんざりしたように吐き捨てる。
あの誰に対してもファンサービスを忘れないイメージの一条さんとは思えない発言だった。
「ご、ごめん。でも一条さん、君が筆箱だって。」
「白々しい。貴方は一体何処の誰ですか!! 初めて見る顔ですね!」
僕を知らない? さっき教室で会った筈だが。僕は床を濡らしていた涙を思い出した。
彼女は敵対心を全開にして近寄ってくる。
「返して下さい!」
僕の手から奪う様に取ると、大切にスカートのポケットにしまいこんだ。
「お腹に力入れて。」
そういうと彼女は右の拳を握りしめる。
「え、何!?」
「いいか、らっ!」
彼女は瞬時に構えて、僕の目掛けて思いっきり拳を突き出す。
それは僕のお腹を見事に捉えていた。
格闘技を経験した事のある僕にとって彼女の一撃は、遥か格上と試合しているような、そんな絶望的な錯覚を覚える程だった。
内蔵が抉られるような気持ちの悪さと、痛みを生じて僕は塞ぎ込む。
そんな事に構う様子は無く、あれだけのパンチを繰り出して一切よろめかなかった彼女は左脚を上げる。
酷い腹痛に耐え、僕は彼女が次にする行動を必死に考える。
左脚による蹴り飛ばしだ。
瞬時に両腕で右側をガードした。
僕の動きを知ってか知らずか、予め予期していたみたいに彼女は左脚を下ろし、右脚を蹴り上げていた。
「フェイントッ!?」
思わず叫ぶ。
それは見事僕の顔面を捉えた。
当たった瞬間の事は正直良く分からなかった。
ただ軽い脳震盪を引き起こした僕は、気付いたら尻餅を付いていた。
視界がぼやけている。両手を腰に当てているであろう彼女のシルエットが見える。
頬がひりひりと痛い。手を当てると滑っとした感触がした。手を見ると少しだけ血が付着していた。
まだ視界がはっきりしないとしない。
「これに懲りたら今後一切、私や私の物に触れないで下さい。もっとも、近付かないでくれると有難いですが。」
「ご、ごめん。」
僕はただ謝るしかなかった。理不尽だと思わざるを得ない。彼女に対してじゃない。僕は結局理解を得られず嫌われてしまう性分なんだと、18年間の人生に対してそう思った。
彼女は温湿度の管理されたビニールハウスへと消えていった。一条さんはもしかしたら、そういうのが好きなのかもしれない。
僕は蹌踉めく身体を押さえながら立ち上がる。ビニールハウス越しに彼女の姿を見る。
嘆息を零すもどうする事も出来ない。彼女から出禁にも等しいレベルで嫌われてしまった。
もうサボってしまおうか。今から授業に出るのも忍びない。やる気もない。
ただやっぱり気になる事はあった。教室で出会った一条さんだ。それを確かめるべく、目を瞑って深呼吸した後、理科棟へと歩いた。
硝子貼りの硬い扉を右手で引き開ける。左手も使って扉を支え、僕は理科棟へ侵入した。
扉を閉める前、ふと振り返り教室棟を見やる。特に意味は無い。ただ自然にそうしただけだ。
教室棟2階に女子生徒の姿があった。ストレートロングの長髪、見間違える訳もなく一条さんだった。彼女はただただ僕を見ていた。
強い風が中庭へ吹き荒れる。
扉は物凄い勢いと共に、硝子の割れる音を鳴らして閉まった。
長辺2mの長方形の硝子は、まるで弾丸のようになって僕に襲い掛かった。
風の勢いも収まる事を知らず、割れた後も吹き荒れ、僕を床に押し倒した。
割れた扉から差し込む太陽光が眩しい。
直後それを遮る人影があった。
それは一条朱音さんだった。
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