第8話 存在の証明
転校生、一条朱音の人気は凄まじいものだった。
彼女が学校に登校すると女子達が群れを成す。田舎育ちということもあって、都会から転校してきた彼女に憧れがあるのだろう。
それに入ろうにも入れない男子達や、他クラスから来た生徒達も押し寄せてきている。流石に2年生以下の姿は見えないが、それでも休み時間の間はお祭り騒ぎに変わりはなかった。
授業が始まれば、転校生はよく教師からも指名され、その度に彼女の頭の良さが際立つ。これには先生達も鼻が高いだろう。綺麗な標準語で話す彼女からは、育ちの良さも窺える。
もちろん僕とは面識が無いまま。僕は彼女を噂程度に知っているものの、彼女からして見れば窓側廊下側の席ということもあり、僕を認知すらしていないだろう。
あんな美少女と関わり合ってみたいというのも正直なところだが、諦めている節もある。
僕の様な人間は他にもいる。現状は、なんとしてでも関わりたい強欲な人と、そうやってなりふり構うのは気が引ける勇気の無い人の二分といえるだろう。
一条朱音さんが転校して、丁度1週間が過ぎた頃、僕はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
僕の視界は、窓から差し込む太陽がその8割を占めていた。
じめじめと生暖かい水滴が背中を流れる。
そろそろ桜もやる気を出す頃合いだと思うが、未だ芽をとざしたまま。
桜にとってはまだ充分な暑さでは無いらしい。
僕は接着されたように硬い首を持ち上げた。首筋から汗が垂れ落ちる。
教室には誰も居ない。おもえば、いつも煩い廊下も今は静かだ。
自然と教卓の上に飾られた時計に目をやった。
身体中から汗が滲み出る。心臓がピクリとなった。
僕は瞬時に、昼休みに寝ていた事に気付く。そして既に午後の授業が始まっている事にも気が付いた。
勝手に嘆息が溢れた。
今日の5限目は化学。つまり移動教室だった。
「誰も……起こしてはくれないのか。」
二月さんも起こしてはくれなかった。少しは期待していたんだけど。まあ、仕方ないか。
あれ、そういえば目玉も居ないじゃないか。
僕は辺りを机や引き出しを除くが見当たらない。
すると、
「起こしに来ました。」
後ろで声が鳴った。鶯のような綺麗で、透き通った聞き覚えのある声。
振り向くと他でもない、転校生の一条朱音が居た。
大きな双眸はうっすらと茶色がかっているのが分かった。
「えっと……」
「だからー、私起こしに来ちゃいました。」
上品に口を曲げて笑う。
心臓が高鳴りをあげた。
「四銘旅人さんですよね。いつまでも寝ているのが見えたから、私起こしに来ちゃいましたよ。」
緊張して目を逸らしても、彼女の顔は追う様に僕を覗きこんでくる。
「え、えっとー。そうだ、どうして名前を?」
「名前なんてあっちに書いてありますよ。四銘旅人さん。」
指を指して教卓を示す。あそこには確かに名簿があった。
ふふっと笑う。
「そんな顔しないでー、素直に喜んで下さいよ!」
そんな顔、どんな顔だろう。僕は一体この美少女を前にどんな面持ちで対面しているのだろうか。
僕は俯くと彼女が細長いポーチを持っている事に気付いた。
「それは何持ってるの?」
「あ、これですか? 筆箱です。」
それを顔まで持ってきて、悪戯な笑みを浮かべる。
「実は忘れ物をしてまして。これを取りに来たんです。本命はこっちです。」
ふふっと、大きな双眸が細長く潰れる。
ちょっとは期待していた自分を恥ずかしく思った。
なんとか表情を取り繕う。
「そんな怒らないで下さいよー。」
「そういう冗談はもう少し仲良くなってからしてくれよな。」
僕は嘆息まじりに伝えた。
「ふふっ。ええ、そうですね。」
彼女が右手を差し出す。
僕は少しの思考時間を要した後、彼女のやりたい事を理解する。
「な、なに……?」
だが、取り敢えずシラを切った。中学から友達が減った僕にとっては久しぶりの出来事。素直になれない自分を嫌悪した。
「ほーらっ。」
彼女は僕の右腕を掴む。掴まれた右腕は、まるで僕のじゃないみたいに上がり、一条さんの手の平が僕のと合わさった。柔らかな指が1本ずつ順に絡みついてくる。
「こ、これで友達だって言いたいのか……?」
僕の指は、彼女のふわふわな指の圧力で締め付けられる。
「あら? 私達って何処かでお会いしたことありました?」
まず初めにデジャヴを感じた。初対面の筈の人が僕を知っている。前にも同じような事があった気がする。
でもやはり初対面だ。
「神委高校で初めての筈だけど……。」
「そうですか。」
一変して彼女の顔が暗くなった。
どこか腑に落ちない事があるのだろう。
「まあ、いいです。だったらこれでお友達です! 絵本で見た事があります。手を繋げばもうお友達ですよね。」
子供のようだ。普段の転校生とは少し印象が違う。そんな気がした。
「私お友達作るの初めてなんです。」
「友達は沢山居るだろ? だけど、一条さんがそう言うなら……まあ。」
正直嫌な気はしなかった。
にぎにぎと彼女は交差した指を動かす。
「ありがとうございます! では……」
そうニタっと笑って言うと、彼女は繋いだ手を自分の胸元に持っていく。
交差した指を取り外され、彼女は僕の手のひらを持って、自身の胸に押し当てた。
……ッ!?
心臓が急ピッチになって鳴り響く。
柔らかく仄かに膨れあがった感触。初めて触る女性の胸に僕の頭は真っ白になった。
「わ、私を感じて下さい。私はちゃんとここにいます……。そうですよね?」
彼女が吐く吐息がリアルに伝わってくる。
茶色の双眸が覗き込む、
鼓動が速い、苦しい。一体どういった状況なんだ。感じるも何も、今は自分自身で精一杯だ。
彼女は少しずつ僕から目を離し赤面する。一方で手は更に強く胸元へ押し付けられる。
彼女の鼓動もしっかりと分かるくらいに。
???
「あれ?」
鼓動が無かった。ある筈の彼女の心臓の鼓動が僕には感じ取れなかった。
僕は確認するように、反対の手で自分の胸に手を当てた。
「やっぱり、鼓動が無い……」
沈黙が流れる。
僕の手を胸に強く押し当てたまま、彼女は俯く。
僕の腕が濡れた。
ぽたぽた大粒の雫が彼女から滴り落ちた。
彼女が顔をあげる。
笑顔を繕ってはいるが、美しかった顔は豹変して歪んでいる。双眸は赤くなり大粒の涙が滲んでいる。
「そうですか。」
鼻を啜りながら彼女は言う。
「私はやっぱり……」
押し付けていた手を強く退かして、彼女は教室を走り去ってしまった。
濡れた床だけが彼女の存在を物語っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます