第7話 謎の転校生
今日は一段と足取りが重い。
右指に絡みつく嫌な感触。ぞわぞわと動いて、まるで髪の毛が絡み付いてくるような恐怖を覚える。
廊下に吊るされた時計は8時15分を示していた。
僕は決心して神委高校3年2組の教室の扉を開いた。
物静かな廊下から一変、賑やかな室内との落差に眩暈がした。
決して多くはない生徒数。教室が広いせいか、一見するとガラガラに見えてしまう。まだ登校していない生徒も居るだろうが、これでもこの教室には20名の生徒がいる。ほぼ全員が顔見知りだ。何故なら学年全生徒数も少なければ、小学校からの同級生ばかりだからだ。
春の暖かな風が開いた窓から吹き抜ける。
ついこの間まで寒かったというのに、すっかり過ごし易い気温になった。しかし、桜が咲くにはまだ寒いらしく、芽は閉じたままだ。
僕は立っている生徒の間を掻い潜って席を目指す。
僕の席は一番後ろの窓際。今日ほどこの席で良かったと思った日は無いだろう。
鞄を横にかけ、ブレザーを背に掛ける。ネクタイは丁度いい所まで緩めた。後は1限目の国語の教科書を用意し、朝のホームルームを待つだけ。
さてその待っている間、こいつをどうしようか。
絡みついていた目玉は、今は僕の指を離れ教室を観察するように身体を伸ばしている。
学校が久しぶりなのか、そもそも学校すら忘れてしまったのか、子供のようにはしゃいで神経の身体を跳ねさせる。
だがその姿は、水を失った魚のように滑稽に見えた。
僕はこの不思議な生物を頬杖しながら観察する。子供の頃にやった観察日記くらいには暇潰しにもなっていた。
ただ目玉だけでは会話する事も出来ない。てっきりお喋り出来ると思っていたが、ダメらしい。
高見を目指したい目玉の彼女は僕のカッターシャツを登る。
まさに尺取り虫のようになって、身体を折り曲げては進みを繰り返している。
坂道だったからか肩まで到達するのに随分と苦労していたみたいだが、ようやく登り詰めたと思えば僕の髪を、今度は上手に掴みながら登る。
ここで見せた新技は映画で見るエイリアンのように気持ちが悪い。
目の神経はおそらく何本かで出来ており、現にこの目玉にも何本かついている。通常は束ねて身体の役割を果たしていたが、コツを掴み始めたのか、その束を解き始めた。
そしてそれらを触手のようにして、器用に僕の髪の毛を伝う。
流石の見慣れた僕でも気持ち悪過ぎて悪寒が全身を駆け巡った。
頭頂部に到達すると、もう僕の視界からは外れてしまっている。何をしているかは大体の想像は付く。高台と替わりに周囲の観察と、持て余した触手で僕の毛を持ち上げている。
「四銘君、なんだか髪の毛が不自然に跳ねてる気がするんだけど。」
発せられた声にビクッと顔を向ける。
「あれ? 気のせいだったみたい。ごめん忘れて。」
二月夕帆(ふたつきゆうほ)。3年間学級委員長をしている超優等生で、去年の期末テストは学年上位に入っていた。
黒縁の眼鏡のレンズが光る。後ろで三つ編みに束ねた髪が肩から垂れている。
レンズの外側から僕を覗く目だけがあった。
中学に上がってからは声を交わした覚えがない。隣になったからといって喋る理由も必要もない。
二月さんにとってはこれといった他意は無いのだろう。けど、僕にとってはちょっとしたハプニングだった。
どう返せばいいかも分からず、僕は手でジェスチャーするだけに留めた。
気をつけなければいけない。僕にしか見えていないこの目玉は、他人からしたらポルターガイスト現象のように見えてしまう事をすっかり忘れていた。
僕は心の中で注意した。
そうしていると背中にヌメっとした感触がして、僕は思わず席を立ち上がる。
勢いよく立ち上がったせいか、椅子ががなり声を上げた。
たかだかと響いた椅子の鉄足と床の擦れる音は、容易に僕を注目の的に仕立て上げた。
どこかから、チッっと舌打ちが聴こえる。
「なにやってんの?」
今度はしっかりと顔を向けた二月さんが訊いた。
「ごめん、なんでもない。」
「虫が背中に入ったような声だったね。」
僕はドキッとして、あながち間違いでは無いので、そういう事にして返答した。
「そう、取り敢えず座れば?」
僕はすぐに座る。相変わらず居心地の悪い教室だった。
ズボンにしまったカッターシャツをすぐに上げ、背中でもぞもぞとしている目玉を取り出した。
僕はこれでもかという怒りを、これでもかと顔に出して彼女に伝える。
目玉をこくこくと上下させて謝罪をする彼女だけど、やっぱり表情も分からなければ声も聴こえないからいまいち反省の意図が見えてこなかった。
やっとチャイムが鳴ると、いつもいる筈の担任教師の姿がなかった。
ここぞとばかりに私語を始める生徒たちの声に混じって、僕とは丁度反対の、廊下側の生徒がやけに煩いのに気付いた。段々とその異常さに気付いた生徒達も後ろに注意を向ける。
一体何を騒いでいるんだろう。ここからでは何も見ることは出来ない。
二月さんは冷めた様に小説を片手にしている。僕は彼女を見ていた訳では無いが、気を散らしてしまっている事に気付いて、正面を向いた。
担任の先生が廊下を歩くのが横目で捉えた。その後ろに同行する様に1人の女子生徒らしき姿がある。
教室が掻き立てられたように騒めく。口々に転校生という単語が聴こえた。
転校生が来るという話は僕は聞いてない。
担任は女子生徒を外で待たせ、教室の扉を開ける。
教卓で初老の教師は、静かに告げた。
「えー急なことではありますが。」
こめかみを掻きながら続ける。
「先日神委校長から通達が来まして、えー、転校生が来る事になりました。さあ、入ってきなさい。」
合図で扉が開いた。煮詰まった空気が解放されるように、教室に風が吹き込む。
腰まで伸ばした滑らかな髪を振り撒いて1人の美少女が教卓を目指して歩く。
転校生の姿を見るや否や静かな歓声が沸く。それ程、現実離れした美しさを身に纏っている。
さっと黒板に名前を書いた後、気品のある顔をこちらに向け、
「一条朱音と申します。校長先生とは、叔父の関係でして特別に入学を認めてもらいました。残り1年ですが、どうぞよろしくお願い致します。」
スカートを両手で軽く摘み上げて会釈をした。
膝まで高く上がったスカートからは、彼女の細い体躯から容易に想像できるすらっとした黒タイツが覗く。映画やドラマでしか見ないような作法をした彼女からは、その優雅な身のこなしによって違和感を全く感じさせない。何処かの国のお姫様が迷い込んだのか、自分が迷い込んでしまったのか、不思議な空気感がそこにあった。
語尾にハートが良く似合う口調で軽い自己紹介を済ませた後、
「何かご質問はありますでしょうか。」
との合図で、クラスから質問が鳴り止むことはなかった。
僕はといえば、彼女が爪先を床に擦り付ける仕草や、両手を後ろに組んで前屈みになった際に垂れるしなやかな髪に見惚れるばかりで、まるで催眠術にかかったような時間を過ごしていた。
1限目開始のチャイムが鳴っても、終わらない質問に困り果てた担任は、
「さあ、もう終わりです。続きは休み時間で」
と、区切りをつけさせ転校生を席へ誘導する。
その席はホームルーム前に騒がしかった廊下側で、予め用意されていたみたいだ。
「お隣、宜しくお願いしますね。」
転校生が遠くでそう言って、僕は窓から見える桜の木に目を向けた。
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