第6話 木箱の旅人
神様と呼ばれた、月明かりよりも綺麗な少女が去った夜はとても暗かった。
--陸朗もまたね。
僕を見て、少女は確かにそう言った。
「あの子は何処に……」
「もう行ったよ。神様は忙しいからね。」
もう何が現実か分からなくなってしまった。少女が居なくなってしまった後も、彼女の来た道を見続けている。
「それより。神様と知り合いだったなんて驚いたよ!」
僕は顎に手を添えて記憶を探る。
しかし、あのような子に見覚えなど無かった。天使のような白さに、燃えるような赤い眼、そして悪意を印象付ける謎の違和感、どれも記憶に残りそうなものだが。
ふと、いつしかの懐かしい神社の情景が頭をよぎる。
--承った。
「どうかした?」
「ああ、いや。あの子とは今日初めて会ったよ。」
「でも、名前は知っていたよ。陸朗ってあなたじゃないの?」
ああ、確かにあれは僕に対して吐かれた言葉だけど。
でもおかしい。
僕は木箱を除き込む様にして言う。
「自己紹介がまだだったね。僕の名前は四銘旅人(しめいたびと)。陸朗ではないよ。」
「ええっ!? そうなの!? 神様の人間違いなのかな?」
無い瞼が大きく見開いて大袈裟に驚く。
僕は恐らくそうなんだろうと、コクリと頷いた。神様だったら沢山の人を見る機会があるだろうし、見間違える事だって有り得えそうだ。しかし陸朗なんて名前も聞き覚えは無いが、なんだか古くさい名前に思える。
神様は容姿と、言葉遣いや雰囲気が凄く乖離していた。それは歳を取っていない事を意味しているのだろうか。もし歳を取っていないということなら、僕の知らない過去の人物にも会っていても不思議ではない。
そう、例えば僕の先祖とか。
長年生きているなら、過去の人物と混同させてしまうことだってあるだろう。
僕はそれで納得するようにした。
「それで、君の名前を聞いてもいいのかな?」
目玉はくるくると、ここは我が湖だと言わんばかりに泳いでいる。僕が考え事をしているから暇潰しをしているこの子は、近場にある肉塊に身を乗せて此方を見た。
表情というものがそもそも無い彼女にとって、神経を上手に使って動く事が最大限の感情表情となる。しかし今みたいに、大きな目玉を僕に向けてピタリと凝視されると、とても厄介だ。何を考えているのか分からない。
「どうしたんだ? 自己紹介、してはくれないのか?」
「する! うん……出来る。もう出来る。」
「それじゃあ言うね。」
彼女は咳払いをして改める。
「えっとね、数年前に死んで、気付いたらここに居ました。神様に見つけてもらうまでは暗闇に独りぼっちで、ええと、それだけしか分からないです。」
えらく自信なさげに敬語で話す彼女に新鮮みを感じる。だが、この自己紹介は致命的過ぎるほど欠落している。ほとんど分からないじゃないか。
「ええと、そうだな。名前とかは……?」
「分かんない。」
「え?」
「だから、分かんないのー!」
「ほら、私って地縛霊でしょー。それでいて、こんな箱に閉じ込められて、こんな身体だし。暗闇の中にずっと、ずうーと閉じ込められてたから、だから自分が何者かももう忘れちゃって。」
あはは、と笑ながら目玉がくねくね曲がる。
僕はガードレールに目をやる。花束とかのお供え物はここには無い。ここ最近で亡くなった訳ではなく、やっぱり彼女の言っていた通りなんだろうか。
光ひとつ入らない暗闇。手足も何も動かすことが出来ないであろう身体。徐々に薄れていく記憶。孤独の恐怖は想像しただけでも恐ろしい。
僕が顔を暗くしていると、察したようにチャポンと水面を揺らす。
「あ、でもね! 神様に見つけてもらったから、孤独では無かったよ! たまにしか遊びに来てくれないけど、私もう時間の感覚だいぶ無いからさー。」
そっか、とだけ零す。
時間の概念が忘れるという恐怖も相当なものだろうな。
「さっきの猫のようにどうにかならないの?」
黒猫は光の玉となって、空に消えていった。特に何も聞かなかったけど、あれは多分成仏したということだと思う。
だったら彼女もどうにかなるんじゃないか。と少し浅はかな考えではあったが、すっと口が先走る。
「ねえ旅人だったら、死んじゃうのと生きるのだとどっちがいい?」
質問の意図は分からないが、当然生きる方がいいに決まっている。僕は答える。
「そうだよね。私もそう思うよ。じゃあ旅人はどうしてあの黒猫が成仏出来たと思う?」
--願いが叶ったという結末だけ。
白い少女の言葉を思い出す。
「そうだな、きっと満足して死んだからじゃないのか。」
「それもあるね。でも、1番は神様の存在が大きいと思うの。神様は魂の運び屋だから。」
神様に拾われたから成仏し易かったということだろうか。
「私はね神様に提案されたの。でもそれを断った。だから、今ここにいるの。」
「一体どういう意味だ?」
「……大丈夫。旅人は知らないままでいい。」
「神様にも辛いことだもの。」
彼女は小さくそう呟いた。
神様にも辛い。成仏させることが辛い。別れるのが辛い。
成仏したらどうなる。また生まれ変わるというのが仏教の考え方だったような。神様に手助けしてもらうと生まれ変われないのか?
それは嫌だから、彼女は残った。それでいいのか?
「ねえ、君は生きていたいということだよな。」
「そう。本当に死ぬのは嫌だからね!」
この話しはこれまでという風にぴちゃぴちゃと泳ぎ出した。
手持ち無沙汰な僕はポケットのスマートフォンを取り出した。塾を出たのが9時頃、現時刻は10時30分を過ぎていた。
「じゃあ、僕はそろそろ行くことにするよ。」
「ええっ!! もう行っちゃうの!?」
水面から顔を出す。
血が滴り泣いているようにも見えた。
「ほら明日から学校始まっちゃうから。今日は日曜日だからね。」
「やだやだー。もっとお話しようよー。」
ここから家に帰るのもそれなりの時間が掛かるから、そろそろ戻らないと。もう直ぐ両親が心配して、連絡をしてくる頃合いだ。名残惜しいと思うのは僕も同じだ。
ぴょんぴょんと彼女は水面を跳ねる。これが彼女なりの地団駄かな。
「また水曜日来るからさ。ね、今日のところは帰ることにするよ。」
そう言い告げると拗ねたように血の湖に沈んだ行った。
物凄く帰り難いけど、今日は退散しよう。
僕は木箱に背を向けた。
途端。
「そうだよ。最初からそうすれば良かった。旅人。私も連れて行って!!」
え!?
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