第8章 - 3 1980年 五月三日 土曜日(7)
3 1980年 五月三日 土曜日(7)
千尋が達哉の視線に気付いた瞬間、静寂の中にまさみの声がポツンと響いた。
「あの……あのね、天野さん……」
そんな声に、翔太はハッとした顔をまさみへ向ける。
「天野さんに、お願いがあるの……」
「あ、どうぞ、なんでも、おっしゃってください」
足を一歩踏み出して、緊張する翔太の声が後に続いた。
「あの、靴をね、脱いで欲しいの」
「靴……ですか?」
「あの、ごめんなさい、それと靴下も……なの……」
「あ、はい、分かりました」
不思議そうな顔など一切見せずに、翔太はさっさとその場にしゃがみ込む。
そうしてさっそく運動靴を脱ごうとする彼へ、まさみが慌てて告げるのだった。
「あ、右足だけで、いいですから……」
そんな声に、手にしていた左の靴から手を離し、彼は慌てて右っ側に手を掛ける。
それからあっという間に靴下までを脱ぎ終わり、素足となった足を恥ずかしそうに両手で覆った。
「あの、これで、どうしたら?」
「あ、そのままで……」
翔太の問いにそう答え、まさみは椅子から立ち上がる。
そのままゆっくり翔太へ近付き、彼は慌てて足から両手を離すのだった。
――足がなんなの?
一方千尋はそんな視線を達哉へ向けて、気付いた達哉も困った顔して首を傾げる。
そんな二人の見つめる前で、まさみの動きは不可思議だった。翔太のすぐそばまで行って、腰を屈めたかと思いきや、それでササっと離れしまう。
――匂いを嗅いだのか?
そんなふうに思った頃には、まさみは元いた椅子に腰掛けていた。
そうしてやっと、達哉が疑問を口にするのだ。
「母さん、今のなに? どういう意味か、教えてくれない?」
すると無理した感じで口角を上げ、まさみが慌てて答えを返す。
「なんでもないの、ごめんなさい……」
「でも、なんでもないのに、足の匂いを嗅ぐって変じゃない?」
「違う、違うのよ、もう! あるわけないのに、あなたが、変なこと言い出すから……こっちまで変なこと考えちゃったじゃない!」
そこで今一度、彼女は立ち上がり、翔太に向けて両手を合わせて頭を下げた。それからフウッと息を吐き、達哉を見つめて告げるのだった。
「赤ちゃんのね、右足の裏に、大きなホクロがあったの。足の裏にホクロがあるのは、あまりいいことじゃないって聞いたことがあったから、あの頃、少し不安だったのよ。そんなことをね、ちょっと思い出しちゃって……でも、本当にごめんなさい。馬鹿なことを、お願いしちゃったわ……」
そう告げて、彼女は申し訳なさそうにしながらも、何とか笑顔を作るのだった。
「だから、靴を脱いで欲しいて、言ったのか……」
達哉も必死に笑顔を作り、まさみに続いてそう声にする。
ところがその時、そこで翔太が口を挟んだ。
「それって、藤木くんのお兄さんの足にって、ことですよね?」
「ごめんなさいね、本当に……」
靴下を履きながらのそんな声に、まさみが申し訳なさそうに返すのだ。
「手のひらだったら、人差し指のちょっと下ってところにだったわ。赤ちゃんなのに、妙にしっかりとしたホクロがあったの……でも、もうそんなことどうでもいいわ、ごめんなさい、本当にもう、忘れてください」
そう声にした後、まさみは再び翔太に向けて頭を下げる。
翔太はすでに靴を履き、そんなまさみにちらっとだけ目を向けた。しかしあっという間に視線を外して、妙にゆっくりと立ち上がる。それからしばらくジッとして、何かに耐えるよう動かないままだ。
「ごめんなさい、本当に……」
吐き出すようなまさみの声に、
「いや、母さんのせいじゃない。悪いのは、俺なんだよ」
我慢しきれず達哉がそんな言い方をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます