第8章 - 3  1980年 五月三日 土曜日(6)

 3  1980年 五月三日 土曜日(6)

 



 天野由美子はその日、ちょうど夜勤の担当だった。

 ところが昭和三十五年の六日早朝、誘拐騒ぎがあったせいで帰宅どころではなくなってしまった。結局、五日の夕刻から六日の夜が更けるまで、丸々二十四時間働き尽くめになっていた。

 そんなことを院長も知っていて、よく働いてくれると感謝までしていたらしい。

 彼女はその後も働き続け、三年後の五月に病院を辞める。

「その時の理由がね、結婚するから、だったらしい……」

「つまり、それって、どういうこと、なの?」

「つまり、その人は、彼のお母さんではなかったってことになる。なんたって、彼が生まれた日に、当人がその病院で働いていたんだからさ……」

 ――だから、もしかしたらって、思うんだ!

 そんな言葉が喉元まで出かかるが、まさみからの質問だけさっさと答え、彼はそのまま彼女の様子を伺った。するとすぐに、再びまさみが呟くように声にする。

「赤ちゃんの時、O型だって言われたはずが、実はA型だったってことが、本当にあるのよね?」

「うん、ある、本当にあるよ」

「それで、天野さんはA型で、その、おかもと産婦人科で働いていた、天野さんという方に、育てられた……のね」

「そう、そしてその人は、あの山代と一緒に、暮らしていたんだ」

「でも……、それでも、いったいどうして……?」

「うん、そこんところはさ、想像でしかないんだ。ただ、父さんの同級生だった山代って人はね、日頃から父さんのこと、ずいぶんと悪く言ってたみたいだし、だからきっと、自分はとことん不幸なのに、同級生だった父さんは医者になって、子供が産まれて幸せの絶頂、ってさ、彼にはそんなふうに見えちゃったのかも……しれないよね」

 ――それでも普通だったら、誘拐なんかしやしないけど……。

 そんな言葉を心の中で唱えつつ、達哉はそこで翔太の方を覗き見た。

するとバッチリ目が合って、翔太の方から慌てて視線を逸らすのだ。

 打ち合わせた話はここまでだった。

 ――赤ん坊を消し去った。

 山代の放った言葉の意味が誘拐で、さらにその赤ん坊とは天野由美子の手にあった。

 きっとそうだと思っていても、絶対だという確証がない。

だから翔太が言っていたのだ。

「こんなこと話しても、ご両親を混乱させるだけじゃないのかな……やっと忘れた辛い記憶を、無駄に思い出させるようなことに、ならないか?」

「それだっていいじゃない! このままずっと知らないままより、教えてあげたほうが絶対に正解よ! 藤木くんのご両親だって、そう思ってくれるに違いないわ!」

 可能性だったとしても、それをどう判断するかは当人たち次第……だから分かっていることすべて伝えるべきだと、千尋は翔太に訴えた。

 そうして翔太も納得し、もちろん達哉は大賛成。

 しかしすべてを話し終え、

 ――天野さんの気持ちって、本当のところどうだったんだろうか……。

 急にそんな疑問が浮かび上がった。

 もちろん頭から反対だったら、彼だってそう言ってきたはずだ。

 ――でも、本当に心から、こんなことを望んでいたんだろうか?

 さっき翔太の顔を覗き見て、達哉はいきなりそんな疑問を感じてしまった。

 翔太は依然ソッポを向いたまま、達哉の目からは横顔しか分からない。

 ――どうしよう……。

 そんな不安を心に感じて、千尋の方を見た時だった。

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