第6章 - 1  1980年 1月13日(2)

 1  1980年 1月13日(2)

 



 結局、閉店時間になってもしばらく粘っていたから、かれこれ三時間以上はいたことになる。と、なれば帰宅はしっかり午前様だ。

 当然、こんな時間に起こしちゃ悪いから、達哉は抜き足差し足二階に上がろうとした。

 ――あれ?

 階段の先、キッチンの方から明かりがしっかり漏れている。

 消し忘れかな? と思い、キッチンまでやはり静かに歩いて行った。すると開け放たれた扉の向こうで、まさみの背中が目に入るのだ。

 ――かあさん、どうしたの?

 思わずそう声にしかけて、震える声が響き聞こえた。

 ――泣いてる……のか?

 肩口が小さく震え、何よりその声は嗚咽以外の何ものでもない。

 ――いったい、どうしたんだよ!?

 ただただそんな思いに支配され、達哉は暫しまさみの姿に目をやっていた。 



 ここのところ痩せてきたから、検査を受けてと頼んでいたのに……。

 まさみがそう声にした時には達哉の心は乱れに乱れ、それ以降、自分が何を口にしたのかまったく覚えていなかった。

 胃癌……それも末期の状態で、

「もう、手術もできないって、知り合いのお医者さんに、言われちゃったわ……」

 本人はきっと、薄々気付いていただろうとも言われたらしい。

 休日にやっている出張診察からの帰りに倒れ、救急車で運ばれている途中に目を覚ました彼は、運び込んで欲しい病院の名を口にする。

 そこには大学時代の友人が勤めていて、その友人からの電話でまさみは病気のことを初めて知った。

「限界ギリギリまで、普通に……これまで通りに、生活したかったんだろうって、だからずっと、内緒に、してたんだって……」

 荒い呼吸の合間合間に、まさみの悲しい言葉が連なった。

 そうして結果、達哉の父、達郎は、二度とこの家には戻って来れない。

 いっ時そういう時間があったとしても、それは戻ったってことではないし、入院生活の終わりじゃ決してないのだ。

 早ければあと数ヶ月、遅くとも半年くらい……。

 そんな衝撃の事実を知らされ、その翌日、達哉はまさみと一緒に病院に向かった。

 対面した達郎は意外と元気そうで、大体のことは知っているだろうにそんな事実は〝おくび〟にも出さない。

 いきなり笑顔を向けてきて、達哉も一生懸命そんな父親に習おうとした。

「おお、悪いな……授業はいいのか?」

「うん、大丈夫。それよりさ、そっちこそ大丈夫なの?」

 懸命に笑顔を作り、軽い感じてそう返すのだ。

「ああ、大丈夫だ。この病院が大袈裟なんだよ、どうってことないさ」

 そういう父親をじっくり見れば、やはりずいぶん痩せたって気がする。

 昨晩、聞いてはいたのだ。

 ――ここのところ急に痩せてきたから……。

 しかしいったいどこを見ていたのか? 達哉は今日の今日まで気付かなかった。

 そんな事実がけっこうショックで、なぜだか無性に腹が立つ。

 もちろん自分のせいなのだ。なのにそんな現実などお構いなしに、彼の苛立ちは好き放題に溢れ出た。

「でもさ、ホント、ずいぶん痩せちゃったじゃないか……なのに、どうってことないってのは、少し違うと思うぜ」

「まあ、そうか……」

「だいたい医者のくせに、倒れるまで気付かないなんておかしいじゃんか、しっかりしてくれよ!」

「うむ……」

「もうさ、病院の掛け持ちなんてやめてくれよな。そんなことやってるからさ、こんなことになるんじゃないか!」

 ――まったく!

 そういう顔を思いっきり向けて、達哉は父親からの反応を待った。

 ところが今度は返って来ない。ほんの少し口角を上げて、目を瞑り、顎を小さく二、三度引いただけ。

 気付けばまさみの姿も消えていて、病室の扉がゆっくり動いてカチッと閉まった。

 きっと厳しくなったのだ。

 ――できるだけ、笑顔でいよう。

 そんな約束が果たせないと感じて、気付かれないよう出て行ったのか?

 しかし何をどう思おうと、達郎がそんな姿を目にしたのなら、

 ――だから、反応しなかった……のか……?

 そこまでを思って、自分の愚かさを嫌というほど感じ入った。

 ――くそっ! 俺ってぜんぜん変わってねえじゃん!

 そんな思いに動かされ、そこからは必死に笑顔のままで頑張ったのだ。

 そうしてまさみが戻ってくるのは、十五分ほどしてからになる。

「ごめんねえ、色々あって迷っちゃったのよ」

 そんな声に振り返ってみれば、二人分のコンビニ弁当を手にして笑顔のまさみが立っていた。

 思えばちゃんと三人で、昼食を取ったことなど一度だってない。きっと小さい頃ならあったのだろう……が、少なくとも小学校に上がってからは記憶になかった。

「なんだよ、最近のコンビニってのは、そんな美味しそうなのが売ってるのか?」

 などと言いながら、達郎は病院食と交換しようと何度も言った。

 しかし本気じゃないのは明らかだった。少なめに思える病院食さえ半分以上が手付かずで、「少し疲れた」と声にする。

 あっという間に寝息が聞こえ、そこで再びまさみの姿はどこかへ消えた。

 達哉はそのまま病室に残り、父親の姿に目をやりながら思うのだ。

 ――これからは、お袋と親父のことをちゃんとするぞ!

 両親との時間を精一杯作り、悔いの残らないよう生活する。

 そんな決意を心に刻み、彼の新たな年は始まったのだ。

 

 そして、ちょうど同じ頃、多摩川の土手と河川敷の間、背の高い雑草が生い茂った辺りで二人の男が対峙していた。

 一人は明らかに筋者で、もう一方は腹を殴られ、すでに地べたに突っ伏している。

「どうなってるんだよ。約束が違うよなあ……逃げるなんてのは、え?」   

「だって、五百万しか……グフッ……」

 いきなり体液が込み上げて、言葉の続きが出なかった。

「それを利子って言うんだろうがよ!」

 再び腹に蹴りをぶち込まれ、彼は地べたで半回転して血反吐を吐いた。

「しゃあねえなあ、やっぱり保険で、きっちりカタを付けてもらうか?」

 そんな声を聞いた途端、地べたの男がその手を大きく振ったのだ。

「ちょっと! 待ってくれ! 返す、返せるんだ、から……」

 そう声にしながら、両手を合わせて拝むような仕草を見せた。

「お願いだ。聞いてくれ……今度こそ、ちゃんと、本当だから……」

「何がちゃんとだ、今度ホラ吹きやがったら、本当に終わりにしてやるぞ!」

 一方的に痛めつけていた方がそう返し、男の首根っこを掴んでこれでもかってくらいに揺さぶった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る