第5章 - 3 偶然(2)

 3 偶然(2)

 



 そうしてやっと青になるのだ。

 そこで男に向かって笑顔を見せて、彼はゆっくり車をスタートさせる。

 当然、男は更なる大声で喚き散らし、車から離れまいと必死になった。そんな姿を確認し、横断歩道から十メートルほど離れたところで停車する。

 それから、ちょうど追い付いた男の為にドアをゆっくり開けるのだ。

 そうして後部座席に顔を突っ込んできた男に向けて、安藤は笑顔で告げるのだった。

「お客さん、すみませんね〜 横断歩道の付近は乗せちゃいけないもんで〜」

 ――だから横断歩道を越えてから乗せようと思った。

 そう声にして、彼はさっさと前を向いた。

 もちろん男はそんな言葉に納得しよう筈もない。ガアガアと文句を言いながら、それでも後部座席に乗り込んでくる。

「さあて、お客さん、どちらに参りましょうか〜? もしも観光なら、わたしにすべてお任せくださいよ」

「ばかやろう! もう夕方だってのに、観光のわけねえじゃねえか!」

「ああ、じゃあ、お仕事ですか〜 そりゃあご苦労さまでえ〜」

 なんとも拍子抜けするその言いように、男の怒りもそこまでだった。

「まったくよう! 〝てえ〟上げたらすぐ止まれってんだ! このクソ親父!」

 なんてのを最後に、男はぶっきらぼうにホテルの名前を挙げるのだった。

「お客さん、そこはこの辺りじゃ、一番高級なホテルですよ〜」

「まあな、そりゃあ上から言われて来たんだから、そのくれえはよ、当たり前よ」

 すでに機嫌は直ったようで、男はそこからいろんなことを話し出した。

 今日は部下だった奴に、わざわざこんなところまで会いに来てやった。

 東京生まれの自分からすれば、こんな田舎に住む野郎の気が知れない……などなど、それ以外にも話していたが、だいたいが自慢話か、世の中に向けての悪態ばかりだ。

 ただとにかく、そんな男との再会だった。

「林田」と叫んだ若い男がまさにそいつで、きっと車から降りて来たのが彼の言うところの上司だろう。

 二人はさっさと車に乗り込み、更に上を目指して走り去ってしまった。

 だからと言ってこの時は、ただそれだけのことだった。

 ところがそれから、ふた月ほどした頃……男たちを見掛けた山から更に奥へ入り込んだ山間で、若い男の死体が発見される。

 人が滅多に通らぬような山道から、足を滑らせ――という警察発表なのだろう、新聞にはそう書かれてあって――川岸まで一気に転落したという。

 気温も低く、死体の痛みはそれほど酷くなかったが、カラスか何かに突かれたせいで、ちょっと見ただけではどこの誰だか分からない。それでも所持していた財布の中から生徒手帳が見つかって、すぐに男の身元は判明した。

 当然、安藤の知らない名前だ。

 ――どうして、あんなところに行ったりしたのか?

 などとちょこっと思っただけで、そんな死体のことなど頭の隅にも残らない。そうして七年近くが過ぎ去って、事件があったことさえ忘れ去っていた。

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