第5章 - 3 偶然

 3 偶然




 還暦をあと二年に控えて、安藤は突然、組織に退官の意を申し出た。

 あと四年はこのまま働くこともできたが、連れ合いを癌で亡くし、同じ生活を続けていく自信を喪失。そうして退官後、なぜか教習所に通い始めて二種免許を取得する。それから亡き妻の好きだった信州の山奥に引っ込んだのだ。

 庭の広い一軒家を借りて、本当の意味での自由気ままな生活だ。

 一年くらいが経った頃、彼は取得した免許でタクシー会社に就職し、週に三日間だけ働き始める。そしてちょうどその頃、彼は偶然、ある光景を目撃する事になっていた。

 非番だった彼は、朝早くから山歩きをしようと家を出た。舗装された坂道を上がって行って、まもなく登山道入り口が見えるだろうという頃だった。

 ――あれ?

 前方に、見慣れぬ車が停まっている。

 なんとも珍しいその光景に、彼は足を止め、暫しその様子を窺った。

 政府の要人が乗り込むような黒塗りの大型外車だ。リアウインドウが真っ黒なので、乗っている姿はまったく見えない。

 ただとにかく、ハイキングのために乗りつけるような車じゃ絶対ないし、

 ――あの辺りは、登山道よりずいぶん手前だ……。

 となれば、いったいあそこで何をしているのか?

 ――まさか、事故!?

 そんなことを考えながら、彼は再び車に向かって歩みを進めた。

 あと二十メートルほどに近づいた時、突然、車より更に前方から、いきなり男の姿が現れ出るのだ。

 きっと登山道から飛び出て来たのだろう……上背のある男は転がり落ちるように道路に現れ、その勢いのまま車に向かってダッシュを見せた。

 すると後部座席のドアがゆっくり開き、別の男が姿を見せる。

 その時、いきなりその名が聞こえて来たのだ。

「林田さん!」

 それは助けを求める叫びのようで、まさしく車から出てきた男に向けてだ。

 車の男の方は年齢など不明だが、走って来た方は二十代中盤くらいか……その格好からして、マトモな生き方をしているようには思えない。

 そしてその姿を目にした途端、安藤の脳裏に前夜の記憶が蘇るのだ。

 それはそろそろ店じまいしようかって頃で、その格好からしていい感じがしなかった。

 だから安藤にしては珍しく、手を振る男の前を気付かないふりして通り過ぎた。

 ところがちょっと行ったところで運悪く、赤信号に捕まってしまう。そうして青になるのを待っていると、いきなり「ドンドン!」という音がして、見ればさっきの男が助手席のウインドウを叩いている。そして何やら叫んでいるのだ。

 ――てめえ、この野郎!

 ――なに乗車拒否してやがるんだ!

 ――さっさと乗せろ!

 ――この野郎!

 だいたいがこんな感じの文言で、見事にその〝見てくれ〟とバッチリハマった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る