第4章 - 1 ジノ・バネリとマイケル・ジャクソン(4)

 1 ジノ・バネリとマイケル・ジャクソン(4)

 



 ここまで一連の出来事に、とてつもないほど動揺してしまった。一気に彼の記憶が脳裏に浮かんで、それらはすべて皺だらけになった天野翔太だ。

 ――まずい! だめだ! だめだって!!

 必死に心に念じたが、そんなのが却って逆効果だったようにドッと涙が溢れ出る。慌ててキッチンから背を向けて、着ていたシャツで顔を覆ってゴシゴシ擦った。

 そんな達哉をどう思っていたのか? 

 幸い天野翔太は何も言ってこないのだ。

 そのうち千尋がキッチンから戻って、不審げな顔して達哉の背中に声にする。

「あれ? 藤木くん、どうしたの?」

 ここで無視するわけには絶対に行かない。

 だから必死に明るい声で、達哉は一気に振り向き告げたのだった。

「いや〜参った! 急に目にゴミが入っちゃってさ、もう痛いのなんのって!」

「え? 両方とも入っちゃったの?」

「うん、両方同時に、いきなりだよ……どうしたんだろう? 虫かなんかいるのかな?」

 なんて言っていながら、そんなことあるわけないと知っている。嗚咽だけは堪えたが、達哉の顔は誰が見たって泣き腫らした顔だ。

 だから次の指摘をドキドキしながら持っていた。

 いつもの千尋だったなら、絶対何か言ってくる。

 ――嘘だあ! それって泣いた顔にしか見えないよ!

 なんて感じを言ってきて、次から次へと言葉を重ねてくるだろう。

 そう思っていたのだが、彼の予想は大きく外れた。

「なに言ってるの? ここに虫なんかいないわよ!」

 笑いながらそう告げて、千尋はすぐに神妙な顔付きなる。

「もしよかったら、キッチンで顔洗ってきたら? なんなら目薬とか、わたし買ってこようか?」

「いや、大丈夫。顔だけ、洗わせてもらうよ……」

 彼はそう告げてから、千尋に促されてキッチンに向かった。

 すると千尋もすぐにやってきて、顔を濡らした達哉へタオルを差し出す。それから彼の耳元に顔を寄せ、

「なんだか、わたしもちょっと、ジンと来た……」

 と、小さな声で囁くのだった。

 きっと涙の意味を想像し、彼女なりに理解してくれたのだ。

 そうしてやっと畳に座り、達哉も天野翔太に向かって自己紹介をした。

 アパートの前では、いきなり逃げ出すようなことをして恥ずかしい。でも、あのままどんな言い訳をしても、信用されないって気がしていたから……。

「それに、天野さん〝異様に〟大きいから、あの暗がりで現れたら怖いもんね〜」

「おいおい、〝異様に〟って、人を化け物みたいに言いなさんなって!」

 そんな二人の掛け合いで、その場の雰囲気も一気に和やかな感じになっていく。

 そしてそこからしばらく千尋と翔太の会話が続き、たまに千尋が達哉の方にも視線を送った。

 そんな時、達哉の頭の中にはひとつの言葉が渦巻いて、それを言い出すきっかけだけを必死になって探っていたのだ。

 千尋から聞いた話では、バーでかかっている曲はすべてオープンリールかレコードらしい。何をかけるかは従業員の好みなんだそうで、

「だいたいさ、そうそうレコードなんて買えないし、そもそも天野さんの部屋、プレイヤーなんてある筈ないからさ、今はタダで、いろんな音楽が聴けて嬉しいんだって」

 そんな千尋の発言を念頭に、達哉はここぞとばかりに切り出したのだ。

「天野さんって、音楽、好きなんてすよね? 今日、いろいろ持ってきてるんで、どれか、聴いてみませんか?」

 この時、彼の反応自体は、決して悪い感じじゃなかった筈だ。もちろん最初はジョージ・ベンソンの〝ブリージン〟で、ここで一気に話が盛り上がると思っていたのだ。

 ところがその反応がなんとも言えずイマイチだった。

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