第1章  -   2 平成三十年(5)

 2 平成三十年(5)


 さらに二、三秒してもう一度、今度は肩をしっかり叩かれる。

 トントンと叩く音まで耳に届いて、彼は思わず声にしながら顔を上げた。

「なんなんだよ!」

 ――気軽に叩いてんじゃねえって!

 思わずそこまで声にしかけて、慌てて息を吸い込んだのだ。

「どうか、しましたか?」

 目の前にいたのは制服姿の警官だった。

「この辺りで、見慣れない方がね、ウロウロしているって通報があったんですよ」

 少し離れたところにパトカーまでが停まっていて、運転席には丸々太った警察官がジッとこちらを見つめている。

「えっと、どうしようかな……あなた、身分証とか、持ってます?」

 ここで一気に事態の危うさに気が付いた。

 まさかクルマに突っ込むつもりだなんて言えないし、だから咄嗟に頭に浮かんだままを声にした。

「ああ、すみません。この辺で、落とし物をしたもので……」

「ほう、落とし物ですか? 何を、落とされたんです?」

「いや、大したものじゃ、ないんで……」

 走って逃げるか? しかし以前の彼ならいざ知らず、どう考えたって今の身体では逃げきれない。だからある意味正直に、若い警察官に向かって告げたのだった。

「気が付いたら、ここにいたんです……実は記憶が、なくなっていて……」

「ほう、落とし物ってのは、記憶ですか? そりゃ、困りましたね〜」

 まるで信じちゃいないのだろう。

 妙に口角が吊り上がり、見事に人を小馬鹿にしたような顔付きだ。

 確かに見た目は年寄りで、六十一年って人生を生きればそこそこ分別も付くだろう。

 ところが中身はそうじゃない。何かって言えばムカついて、もっとも分別とはかけ離れている青春時代の真っ只中だ。

「なに笑ってんだよ!」

 心に思った瞬間だった。

「こっちはな、マジ困ってんだよ!」

 あっという間に声に出て、途端に警察官の顔が変化する。

 口角が一気に下がり、目付きが突き刺すように鋭くなった。それがスッとパトカーを向いて、そんなのに合わせるように太った方が姿を見せる。

 ――まずい! 

 と思った時には動き出していた。

 勢いよく立ち上がり、両手で思いっきり目の前の警官を突き飛ばす。そのままT字路に向かって走り出し、

 ――どこでもいい! どこかの家に入るんだ!

 そうして塀の裏っ側にでも身を潜めてやり過ごそうと、達哉は心で必死に思った。

「こら! 待て!」

 そんな声を聞きながら、彼は突き当たり右に曲がろうとする。

 重心を右に少し傾け、そのまま一気に駆け抜けようとした時だった。

 不思議なくらい唐突に、右の脚から力が抜けた。まるで「カクッ」と音がしたように、右膝が地面に向かって落ちていく。

「あっ」と思って、両手を出した筈だった。

 ところが両手が着くより前に、頭が先に地面に激突。頭や顔に激痛が走って、それでも意識はまだあった。それからバタバタという足音が聞こえ、ああ、捕まっちゃうのか――などと思ったところで、パッと痛みが消え去った。

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